第19話「選んだ理由」①
翌朝、私は作業台の前で、一本の釘を睨みつけていた。
大浴場で使う石鹸や掃除道具をしまう棚を、もう一つ造ろうと思ったのだ。昨日まであれほど大勢で工事をしていたのに、今朝は自分一人で片づくような小仕事である。
板は切り揃えてある。組み方も決まっている。あとは釘を打って固定するだけ。
たった、それだけのはずだった。
「……よし」
左手で釘を押さえ、右手の金づちを振り下ろす。
ところが、狙いがほんの少しずれた。
鉄の頭が釘ではなく、私の指を思いきり叩いた。
「いっ……!」
金づちを取り落としかけ、慌てて作業台に置く。
痛い。とにかく痛い。
指先には鋭い痛みが残り、爪の周りが見る間に赤くなっていく。
(……何やってんだ、私)
「霧江」
背後から声がした。
振り返ると、工房の隅で矢の手入れをしていた朝凪が、こちらを見ている。
「指が悪さしたの?」
「いや、別におしおきをしたわけじゃ……」
「じゃあ、何で指を叩いたの?」
「私が聞きたいよ!」
朝凪はしばらく私を見つめ、手元の矢へ視線を戻した。
「下手になった?」
「なってない! 今日はたまたまだって!」
「ふうん」
その納得していない返事が、地味に胸へ刺さる。
普段ならこんな失敗はしない。前世から手を動かして何かを作るのは好きだったし、こちらの世界へ来てからは毎日のように道具を握っている。
おまけに、今の私にはクラフト技能による技術の補正までかかっているのだ。
それなのに、釘一本まともに打てないとは。
「朝から騒がしいですわね」
開いた戸の向こうから雲居が顔を出した。片手には帳面を抱えている。
大浴場が完成したばかりだというのに、彼女はもう維持費や石鹸の在庫を計算しているらしい。
「どうなさいましたの?」
「いや、ちょっと指を叩いただけ」
「……釘ではなく?」
「そう。釘ではなく」
雲居の眉が上がった。
「あなた、昨日まであれほど手際よく働いていらしたでしょう。お酒が残っているんじゃありませんこと?」
「そんなに飲んでないよ」
「でしたら寝不足ですの? いつもと様子が違いますわ」
「……ちょっと考え事をしてただけだって」
考え事。
我ながら、便利な言葉を使ったものだ。
けれど、それが何なのかは、とてもじゃないが説明できない。
「霧江さん、どうしたんですか?」
さらに篠までやってきた。
水を入れた手桶と清潔な布を持っている。どうやら浴場の片づけをしていたらしい。
篠は私の手を見ると、心配そうに眉を寄せた。
「指、怪我したんですか?」
「いや、ちょっと叩いただけ。大したことないって」
「見せてください」
「えっ、あ、うん」
差し出した手を、篠がそっと取る。
細い指が私の指先を支え、赤くなったところを確かめた。
ただそれだけなのに、妙に落ち着かない。
(……近い、近いって)
「腫れていますね。まずは冷やしましょう」
「そ、そうだな」
篠は手桶を床に置き、持っていた布を水に浸すと、私の指先へそっと当ててくれた。
「無理をして、また怪我をしないでくださいね」
「……はい」
篠はいつもどおりの顔だった。
昨日までと変わらない、優しくて少し世話焼きな篠。
その様子を見ているうちに、私はますます訳が分からなくなった。
(……何でそんなに普通でいられるんだよ)
篠と目が合う。
彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。頬も、かすかに赤く染まっている。それでも、私から目を逸らすことはなかった。
――その瞬間、昨夜のことが鮮やかに蘇った。
*
月明かりの下。
縁側に並んで座る私と篠。
「みたい、じゃないですよ」
そう言って、篠は私に口付けた。
触れ合ったのは、ほんの一瞬だったと思う。
それなのに、時間が止まったみたいに感じた。
顔を離した篠は、頬を赤らめながら微笑んでいた。
「し、篠……?」
ようやく声を出せたものの、その先が続かない。
何だ今の。いや、口付けだよな。そんなことは分かってる。分かってるけど、ちょっと待ってくれ。
頭の中で考えが行ったり来たりしている私を見て、篠はさらに頬を染めた。
「……あの。そんなに驚かれると、私も恥ずかしいです」
「い、いや、そりゃ驚くだろ! だって、今……!」
「はい。分かっています」
篠は膝の上で手を強く握り、ひと呼吸置いた。
耳まで真っ赤だ。それでも、視線だけは逸らさない。
「いつも、霧江さんにばかり振り回されていますから」
「……え?」
「今度は、私が振り回す番です」
言い終えると、篠は立ち上がった。
「そ、それじゃあ……先に戻っていますね」
「ちょ、ちょっと待って! 篠!」
呼び止めたものの、何を言えばいいのか自分でも分からなかった。
篠は一度だけ振り返り、照れくさそうに笑った。
「……霧江さんも、あまり遅くならないでくださいね」
そのまま母屋へ戻っていく。
私は立ち上がることすらできず、遠ざかる背中を見送っていた。
(……え。今の、どういうことだ?)
いや、どういうことも何もない。
篠は、はっきり言った。
みたい、じゃない、と。
(……私、告白されたんだよな?)
しかも、口付けまでされてしまった。
私はしばらく縁側に座ったまま、冷たい夜風に吹かれていた。
そのあと、どうやって宴会の席に戻ったのか、あまり覚えていない。
誰と何を話したかも曖昧だ。小松が何かを言って笑っていたような気はするが、それすら怪しい。
酒のせいではない。
篠のせいだ。
*
「……霧江さん?」
目の前で篠が首を傾げた。
「……っ!」
私は勢いよく手を引っ込めそうになり、寸前で止めた。
怪我をした指をもう一度ぶつけたら、さすがに笑えない。
「顔が赤いですよ。熱でもあるんですか?」
「な、ない! 元気! すごく元気!」
「……そうですか?」
篠は少しだけ目を丸くし、それからいつもどおりに頷いた。
「しばらくその布で冷やしていてくださいね。私は浴場の片づけに戻りますから」
濡れた布を私に預けると、篠は何事もなかったように去っていった。
……本当に、何事もなかったように。
「……おかしいですわね」
雲居が腕を組んだ。
「顔色は悪くないのに、受け答えだけが妙ですわ」
「だから、考え事してただけだって」
「それで金づちで指を打つのなら、今は作業をやめた方がよろしいですわね」
「……ぐうの音も出ない」
「今日は休みなよ」
朝凪まで同意してしまった。
私は赤くなった指を見つめ、深いため息をついた。
(……うん。こりゃ駄目だ)
少なくとも、今日は釘を打つべきじゃない。
*
言われたとおり指を冷やし、ひとまず棚の材料を片づける。
濡れた布を軽く絞って指に巻き、私は工房の外へ出た。
朝の空気は涼しく、昨日の宴会が嘘みたいに静かだった。
新しい大浴場の屋根が陽を受けている。
造ったばかりの建物を眺めれば、いつもなら次に何を作ろうかと考え始めるはずなのに。
(……駄目だ。何を見ても、最後には篠の顔が浮かんでくる)
何だかんだ言って、私は女の子が好きだ。
可愛い子や綺麗な人を見れば、つい目で追ってしまうし、篠たちと風呂に入れた昨日なんて、正直に言えば天国だった。
なのに、いざ自分が好意を向けられる側になった途端、この有様である。
何とも情けない。
考えてみれば、前世でもまともに恋愛をした記憶がない。
小学校で担任をしていた頃は、朝から晩まで授業の準備に行事の段取り、保護者への連絡、山積みの書類。
家に帰れば、風呂に入って眠るだけ。休みの日だって翌週のことが頭から離れなかった。
誰かを好きになって、誘って、相手の気持ちを考えて――そんな時間を作る余裕がなかったのだ。
(……言い訳だよなあ)
相手が篠だから、なおさら分からない。
大切な仲間で、一緒に暮らす家族みたいな存在。可愛いと思うことは何度もあったし、そばにいてほしいのも本当だ。
けれど、その気持ちをどう言葉にすればいいのか。
(……そういや私、昨日、何も返事してないじゃん)
思わず頭を抱えた。
篠は勇気を出してくれたのに、こっちは驚いて固まっただけ。
あれじゃ、嫌だったと思われてもおかしくない。
もちろん、嫌なわけがない。むしろ――。
(……ああもう! 何考えてんだ、私は!)
自分の頬を両手で挟みかけ、怪我をした指が痛んで慌ててやめた。
こんなところまで締まらない。
「……霧江?」
振り返ると、雲居が工房の戸口に立っていた。
「今度は外で何をなさっているんですの?」
「ちょっと風に当たってただけ」
「それは見れば分かりますわ。気になるのは、さっきから何度も頭を抱えている理由です」
「……そこは聞かないでくれ」
雲居は不満そうに眉を寄せたが、追及はしなかった。
代わりに、抱えていた帳面を持ち直す。
「ちょうどよかったですわ。わたくし、これから街へ出るところでしたの」
「街へ?」
「山猫商会に石鹸の売れ行きと納品の相談を。それから、浴場で使う品も少し見ておきたいのですわ」
「……あ、そうだ。洗い場の手桶も、もう少し増やしたかったんだ」
「ですから、必要なものを買うか作るか、予算と相談しなくてはなりませんでしょう?」
さすが雲居。昨日のお祭り騒ぎの翌日でも、きっちり仕事を進めている。
私も見習わなければ。
「……私も行っていいか?」
「構いませんけれど。手は大丈夫ですの?」
「荷物くらいなら持てるよ。それに、ちょっと気分転換したくてさ」
「ふうん……。まあ、作業台で怪我を増やされるよりはましですわね」
そこへ、工房から朝凪が顔を出した。手には、まだ矢羽根を付けていない矢を一本持っている。
「私も行く」
「朝凪も? 街に用事か?」
「矢羽根がなくなった」
「ああ、そういやこの一週間、ずっと建築の手伝いだったもんな。いつもは狩りで集めてるんだっけ?」
「うん。夜に矢を作りためてたら、使い切った。狩りに行けなかったから」
「そっか。じゃあ一緒に行こうぜ。羽根を扱ってる店を探そう」
「それと、荷物は私が持つ」
「いや、荷物くらい自分で持てるって」
「その手で?」
「うっ……」
「無理しないで」
「……ありがとう。助かるよ」
朝凪は小さく頷いて、出かける支度に戻った。
結局、今日は雲居と朝凪の三人で街へ行くことになった。
篠はまだ浴場の方にいるらしい。顔を合わせてから出ようかとも思ったが、今の私に普通の挨拶ができる気はしない。
その代わり、夕凪に行き先を伝えておく。
「霧江さん、お昼までには戻りますか?」
「たぶんな。雲居と朝凪と街へ行ってくる」
「分かりました。手、お大事にしてくださいね」
「ありがと。夕凪も、昨日の片づけを無理して一人でやるなよ」
「はい! 松帆さんに教わったとおり、みんなに分担してもらってます!」
頼もしいな。
小さく笑って、私は雲居と朝凪と一緒に門を出た。
*
街道を歩くうちに、少しずつ人の声が増えてきた。
行商人が荷を運び、店先では客と商人が品を見比べている。いつもなら、それだけで何か面白い素材がないかと目を凝らすところだ。
朝凪は矢羽根を扱う店がないか、道の両側に目を配っていた。
「霧江、聞いていらっしゃいますの?」
「えっ? あ、聞いてる聞いてる」
「では、今の話を繰り返してみてくださいまし」
「……石鹸が売れてる?」
「そこは前から分かっておりますわ!」
雲居が額に手を当てた。
「浴場を維持するための費用についてお話ししていたのです。あの設備を毎日動かすなら、竜核の充填を頼める相手も探さなくては」
「ああ、そうだったな。悪い」
「本当に、今日はどうなさったのかしら……」
「変な霧江」
二人の疑わしげな視線に、私は乾いた笑いを返すことしかできなかった。
理由なんて、まさか言えるわけがない。
……そんなことを考えていたときだった。
少し先の店先から、甲高い女の声が聞こえてきた。
「だから、それが必要だと言っているでしょう!」
私は足を止めた。
聞き覚えのある声だった。
しかも、できればしばらく聞かずに済ませたかった声でもある。
(……まさか、な)
雲居も足を止め、声のした方へ視線を向けた。朝凪は私たちの顔を不思議そうに見比べている。
隣を見ると、雲居の表情がすっと変わっていた。




