第18話「ぬくもりの在処」④
大浴場から戻ると、台所には食欲をそそる匂いが満ちていた。
大鍋からは湯気が立ち、焼き物用に下味をつけた肉が盆に並んでいる。松帆と夕凪は、最後の盛りつけをしているところだった。
「うわ、すごい量だな。これ、全部二人で用意したのか?」
「はい! 松帆さんがいろいろ教えてくださったので、思っていたより早くできました!」
「夕凪ちゃんの手際がよかったのよ。私は少し順番を変えただけ」
「そんなことないです! 私一人だったら、まだ野菜と格闘してます!」
二人が顔を見合わせて笑う。
松帆が来たばかりの頃、夕凪は目を回していたものだ。それが今では、すっかり息の合った組み合わせになっている。
「料理はもう仕上げだけだし、二人とも先に風呂に入ってきたらどうだ?」
「でも、お肉を焼くのがまだ……」
「それなら俺たちでやるよ!」
いつの間にか台所を覗いていた小松が、勢いよく手を挙げた。
「お前に任せると、全部つまみ食いしそうだな」
「しねえよ、暁! たぶん!」
「たぶんって何だ」
暁が呆れる横で、松帆が穏やかに微笑んだ。
「では、あなた。小松さんと一緒に焼き物をお願いできるかしら。焦がさないように、ね?」
「……分かった。任せてくれ」
暁の背筋が妙に伸びた。
(……松帆、笑顔なのにすごいな)
「汁物は蓋をしておけば大丈夫ですし、お肉も食べる直前に焼けばいいわ。夕凪ちゃん、今のうちに行きましょう?」
「は、はい! それじゃ、ちょっとだけお言葉に甘えます!」
夕凪は嬉しそうに頷いたが、すぐに少し不安そうな顔をした。
「本当に、お湯の中に身体ごと入るんですよね?」
「そうだぞ。心配しなくても、溺れるような深さにはしてないから」
「溺れる心配はしてないです! ……ちょっと、想像できないだけで」
なるほど。さっきの女湯でも、みんな最初はそんな反応だったな。
「入れば分かるさ。松帆も、ゆっくりしてきてくれ。七日間、家のことを任せきりだったし」
「あら、そう言ってもらえると嬉しいわ。では、遠慮なく」
松帆が礼を言い、夕凪と連れ立って大浴場へ向かっていく。
その背中を見送りながら、私はちょっとだけ胸を張った。
(……さて。二人にも気に入ってもらえるかな)
*
二人が戻ってきたのは、日が傾き、座敷に灯りを入れ始めた頃だった。
「霧江さーん!」
玄関から夕凪が駆け込んでくる。いつも以上に頬が赤く、髪の先はまだ少し湿っていた。
「お、おかえり。どうだった?」
「すごかったです! あんなに気持ちいいものだったなんて!」
「だろ?」
「身体が温まって、ずっと浸かっていたくなっちゃいました!」
夕凪は両手を胸の前で握り、興奮した様子で語り始めた。
「松帆さんと、最初は怖いねって話してたんです。でも入ってみたら全然違って。あの、肩まで温かくなる感じが……!」
「ふふ。夕凪ちゃん、なかなか出ようとしなかったものね」
後ろから松帆が入ってきた。こちらも頬がほんのり色づき、いつにも増して柔らかな表情をしている。
「松帆も気に入ってくれた?」
「ええ。あれほど身体が休まるとは思わなかったわ。うちにも一つ欲しくなるくらい」
「ははっ。そう言ってもらえたら作った甲斐があるよ」
すると、傍らで待ち構えていた朝凪が夕凪の手を取った。
「どうだった?」
「今、霧江さんに話してたでしょ。すっごく気持ちよかったよ!」
「そう。よかった」
朝凪が、珍しく満足そうな顔をした。
(……妹が楽しめれば、自分のことみたいに嬉しいんだな)
まあ、その気持ちは少し分かる。
そういえば、焼き物はどうなったんだろう。台所を覗くと、暁と小松が約束どおり火の番をしてくれていた。小松が一枚だけ焦がしかけたらしいが、暁が火加減を見て、残りは香ばしく焼き上げてくれたそうだ。
「さあ、料理も揃ったし、皆さんをお呼びしましょうか」
松帆の一声に、夕凪が元気よく返事をした。
*
座敷に並んだ料理を見て、思わず声が出た。
「……おお」
大鍋で煮込んだ具だくさんの汁物に、香ばしく焼かれた肉。炊きたての飯や山菜の和え物、漬物まで揃っている。
中には、解体したあと塩漬けにして取っておいたキビの肉もあった。今日のために松帆と夕凪が仕込んでくれたらしい。
「これだけの人数の飯を用意するなんて、たいしたものだな」
三笠が感心すると、夕凪は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます! みんな、いっぱい食べてくださいね!」
「ふふ。おかわりもありますから、遠慮なさらないでね」
工事に参加した造作師たちも次々に席につく。男二人はまだ湯上がりの話で盛り上がっているし、女性の造作師は夕凪から皿を受け取りながら何度も礼を言っていた。
暁と榊、小松も揃い、更級たち山猫商会の三人は端の席へ案内される。
……いや、すごい人数だな。
座敷だけでは全員分の席が足りず、隣の板間も開け放って卓をつないだ。それでも、肩が触れ合いそうな賑わいだ。
最初は私一人だった家に、こんなに人が集まるとは。
「霧江。酒の用意はできてるかい?」
「そこは抜かりないぞ。あんたが持ってきてくれたんだしな」
「そうこなくっちゃ!」
更級が豪快に笑う。磐境が樽を開けると、酒の香りがふわりと広がった。
酒を飲まない面々には茶や冷ました果実の汁を用意し、それぞれ好みの器を持つ。
私はみんなの顔を見渡してから、器を高く掲げた。
「一週間、本当にお疲れさま! 三笠たちがいなかったら、こんな大きな風呂は造れなかった。暁たちも、松帆も、手を貸してくれてありがとう!」
視線を向けられた三笠が、わざとらしく顔をしかめる。
「礼なら完成した風呂で十分もらったわ。早く始めんか」
「ははっ。じゃあ、みんな――乾杯!」
「乾杯!」
声が重なり、宴会が始まった。
最初に勢いよく箸を伸ばしたのは小松だった。
「うまっ! これ、すげえうまいぞ!」
「小松、口に物を入れたまま喋るな」
「だって榊、これ食ってみろよ!」
「……分かったから落ち着け」
榊は呆れながらも、勧められた肉を一切れ口に運ぶ。
「……確かに、うまいな」
「だろ!?」
まるで自分が作ったかのように得意げになる小松に、暁が苦笑した。
「それ、キビの肉ですよ」
夕凪が教えると、朝凪が静かに頷く。
「やっぱり、美味しい」
「お姉ちゃん、さっきからそればっかり!」
「夕凪の味付け、合ってる」
朝凪の言葉に、夕凪が一瞬きょとんとした。
「え……ほんと?」
「うん。肉の味がちゃんと残ってる」
夕凪の顔が、今日一番ではないかというほど明るくなる。
「えへへ。松帆さんに、焼く前の塩加減を教えてもらったんだ!」
「教えたのは少しだけよ。最後の味を決めたのは夕凪ちゃんだもの」
朝凪はそれを聞いてもう一切れ口へ運び、満足そうに目を細めた。
……何だか、見ているこちらまで嬉しくなるな。
反対側では、暁と三笠が酒を酌み交わしていた。
「頑固な親方だとは聞いていたが、なかなか容赦がなかったな」
「狩りに出たら、あんたも仲間の仕事に厳しいだろう。それと同じよ」
「……違いない」
暁が笑い、三笠も口元を緩める。
「まったく、霧江の思いつきに付き合うと退屈せん」
「俺もそう思う。まさか狩人が風呂の土台を造るとはな」
「……次はもっと難しいものを頼むかもしれないぞ」
私が横から口を挟むと、二人が揃ってこちらを見た。
「勘弁してくれ」
「断る」
……息ぴったりじゃん。
向こうでは、更級と雲居がいつの間にか商いの話を始めていた。
「しかし、あの風呂は面白いねえ。客に見せたら、相当驚くだろうよ」
「驚くだけでは済みませんわ。維持するための費用も、きちんと見積もらないと」
「分かってるよ。今夜くらいは商談抜きで飲ませておくれ」
「……それもそうですわね」
雲居が珍しく素直に引き下がる。
更級は酒を口に運んでから、ふと稲羽を見た。
「で、あんたはどうだった? あれほど水を嫌がってたくせに」
「す、すごくよかったです! また入りたいです……!」
「へえ。そこまでかい」
稲羽の耳が嬉しそうに立ち、尻尾も椅子の後ろで揺れている。
「霧江さんが、また入っていいって言ってくださったので……」
「もちろんだぞ。遠慮せず来てくれよ」
「……はいっ!」
こちらを見た稲羽が、嬉しそうに笑った。
その様子に、更級は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに酒を飲んだ。
少し離れたところでは、男性の造作師二人が女性の造作師を相手に、自分たちの造った柱や浴槽の出来を語っている。
「俺たちも、あんな仕事ができるようになったんだな」
「三笠親方がいなかったら、途中で手が止まってたけどな」
「親方だけじゃないですよ。みんなで完成させたんですから」
女性の造作師が言うと、二人は照れくさそうに笑った。
その隣では、磐境が静かに料理を味わっている。あれだけ無口な男でも、湯上がりの顔はずいぶん柔らかい。
(……うん。いい夜だ)
誰かが笑うと、その声につられて別の誰かが笑う。
ついこの間まで、こんな賑やかな暮らしは想像もしていなかった。
私がこの世界で目を覚ました時には、家に迎えてくれる人も、一緒に食卓を囲む人もいなかった。
篠と出会って、一緒に暮らし始めて。
朝凪と夕凪が来て、雲居が加わり、三笠たちの工房が賑やかになった。稲羽や山猫商会との縁もできた。暁たちとも、こうして肩を並べて笑っている。
私はただ、作りたいものを作ってきただけのつもりだった。
でも、出来上がったものをみんなで使い、喜んでもらえるのは、想像していたよりずっと嬉しい。
「霧江さん?」
隣から篠が顔を覗き込んできた。
「どうした? 何か足りないものでもあった?」
「いえ。さっきから、皆さんの顔を一人ずつ見ていらっしゃったから」
「ああ。こんだけ集まってくれたんだぞ? ちゃんと見ておきたくてさ」
「……そうですね」
篠は何かを言いかけたようだったが、すぐに微笑んで器を置いた。
私はまた料理に手を伸ばす。
宴はまだまだ終わりそうになかった。
*
しばらくして、私は座敷を抜け出した。
少しだけ酒を口にしたせいか、頬が熱い。外の空気に当たれば、ちょうどよさそうだ。
戸を開けると、夜の空気が火照った顔に心地よかった。
家の中からは、まだ小松の笑い声が聞こえてくる。誰かがたしなめ、また別の誰かが笑った。
……賑やかな連中だ。
私は母屋の裏手へ回り、工房へ続く庭をゆっくり歩いた。
昼間は人が行き交っていた庭も、今は静かだ。新しい長屋の向こうには、出来上がったばかりの大浴場の屋根が見える。
小さな窓から、かすかな灯りが漏れていた。
(……本当に、できたんだな)
改めて眺めても、まだ少し実感が湧かない。
そのとき、庭に面した母屋の縁側、その端に人影が見えた。
「……篠?」
振り返ったのは、湯上がりの髪をひとつにまとめた篠だった。
「あ、霧江さん。外にいらしたんですね」
「篠こそ。こんなところで何してるんだ?」
「私も、少し風に当たろうかと思って」
「そっか。……隣、いいか?」
「もちろんです」
私は篠の隣に腰を下ろした。
家の方から流れてくる灯りが、篠の横顔を淡く照らしている。
しばらくは、二人とも何も言わなかった。
遠くで虫の声がする。昼間は気づかなかった木々の匂いが、夜の風に混じっていた。
「……今日は、本当に楽しかったです」
先に口を開いたのは篠だった。
「ああ。風呂も気に入ってくれたみたいだしな」
「はい。あんなに温かくて、気持ちのいいものだとは思いませんでした」
「ははっ。もっと早く造れればよかったんだけどな」
「今日でよかったと思います」
「ん?」
「だって、今日ならみんなで入れましたから」
そう言って、篠が微笑んだ。
……なるほど。そういう考え方もあるのか。
「確かに。私一人で風呂に入ってたら、こんなに嬉しくなかったかもな」
「ふふ。霧江さんらしいです」
篠は膝の上で両手を重ね、少しだけ視線を落とした。
「……私、以前はつらいことが多かったんです」
思いがけない言葉に、私は顔を向けた。
「刀を壊してしまうたびに、周りに迷惑をかけている気がして。自分でも、どうしたらいいのか分からなくて……」
篠の声は静かだった。
「組を離れたときは、もう誰かと一緒に狩りをすることなんて、ないのかもしれないと思っていました」
「……篠」
「でも、霧江さんが助けてくれました。金剛を作って、私をここに住まわせてくれて」
篠は大浴場の方へ目を向けた。
「気づいたら、毎日が楽しみになっていたんです。今日は何を作るんだろう、明日は誰が遊びに来るんだろうって」
少し間を置いて、篠がこちらを見る。
「今は、毎日が本当に楽しいんです」
まっすぐな瞳だった。
私は何だか気恥ずかしくなって、頭をかいた。
「……私だって、篠にはずいぶん助けられてるぞ。最初に一緒に暮らしてくれたのがお前だったから、こんなに賑やかになったんだと思う」
「そんな……」
「本当だって。だから、私の方こそありがとうな」
篠は目を丸くして、それから小さく笑った。
「……やっぱり、霧江さんは優しいですね」
「そんな大したことしてないよ」
「いいえ。私にとっては、とても大きなことなんです」
いつもより少し真剣な声だった。
「全部、霧江さんのおかげです。ですから……」
篠が、私の目を見つめる。
「これからもずっと、霧江さんのそばにいさせてください」
胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
真剣な顔でそんなことを言われると、どう返していいか分からない。
私はごまかすように笑った。
「……なんだよ、それ。まるで愛の告白みたいだな」
照れ隠しのつもりだった。
いつもの篠なら、真っ赤になって否定するか、私を叱ってくるはずだ。
けれど、篠は何も言わなかった。
ただ、頬を赤らめたまま、まっすぐに私を見つめている。
「……篠?」
「みたい、じゃないですよ」
「……え?」
聞き返した、その瞬間だった。
篠が一歩、私との距離を詰めた。
何かを考えるよりも早く、唇に柔らかな感触が触れる。
ほんの一瞬。
篠はすぐに顔を離した。
頬どころか、耳まで真っ赤になっている。
それでも、私から目を逸らそうとはしなかった。
月明かりの下で、篠が微笑む。
私はただ、その顔を見つめ返すことしかできなかった。




