第2話「壊し屋と金剛不壊」③
森を抜けて帰路につこうとした時だった。
少し前を歩いていた篠が、ぴたりと足を止める。
「霧江さん」
まただ。
声が低い。
さっきまで素材の話をしていた時とは、まるで別人だった。
「今度は何だ?」
「少し、戻りましょう」
「何かいるのか?」
篠は答えず、近くの木へ寄った。
幹の低い位置に、深い傷が四本走っている。
「爪痕です。まだ新しいですね」
「牙猪じゃないよな」
「はい。鎧熊です」
名前を聞いた瞬間、引き継いだ記憶が浮かんだ。
鎧熊。
黒く分厚い毛皮と硬い皮膚を持つ、熊型の魔獣。牙猪よりも一回り以上大きく、腕力も強い。森の奥に棲むことが多いらしい。
「強いのか?」
「私一人なら問題ありません。ただ、今日は霧江さんもいますし、わざわざ相手をする必要はありません」
「なるほど。じゃあ――」
遠回りしよう。
そう言いかけた時だった。
背後の茂みが、大きく鳴った。
「――霧江さん、後ろへ!」
篠の声と同時に、黒い塊が飛び出してきた。
「グオォォッ!」
「うわっ!」
でかい。
牙猪どころじゃない。
四つ足で立っているのに、頭の位置が私の胸より高い。盛り上がった肩から太い前脚が伸び、その先には小刀みたいな爪が並んでいる。
篠が私の前へ滑り込んだ。
「下がってください!」
刀を抜く。
鎧熊の前脚が振り下ろされた。
篠は真正面から受けない。
半歩ずれて爪をかわし、その腕へ刀を走らせる。
ザッ、と毛が舞った。
「浅い……!」
血は出ている。
けれど、牙猪を斬った時とは違う。
硬い皮膚に阻まれて、刃が深くまで通っていない。
鎧熊が吠え、もう一度腕を振るう。
篠は身を沈めてかわす。
速い。
昨日、毒キノコを食べて倒れていた姿からは、本当に想像できない。
「霧江さん、木の後ろへ!」
「分かった!」
言われるまま太い幹の陰へ回る。
その瞬間、鎧熊の目がこちらを向いた。
「え」
嫌な予感がした。
鎧熊が地面を蹴る。
こっちへ来る。
「霧江さん!」
篠が割って入った。
振り下ろされた前脚を、今度は避けられない。
刀を横にして受ける。
金属が悲鳴を上げた。
「くっ……!」
篠の足が土を削る。
それでも押し負けない。
刀を支えにして爪を外へ流し、そのまま身体を回転させる。
「はぁっ!」
鋭い蹴りが鎧熊の顎へ入った。
巨体がぐらりと傾く。
「熊を蹴って怯ませた!?」
「今です!」
篠が踏み込む。
狙うのは、さっき斬った前脚でも腹でもない。
顎の下。
毛皮の薄い場所へ、下から刀を突き上げた。
「――っ!」
刃が深く潜る。
鎧熊の身体が大きく震えた。
篠はすぐに刀を引き抜き、横へ飛ぶ。
数歩よろめいた巨体が、地面へ倒れ込んだ。
ずしん、と腹に響く音がした。
「……倒した?」
鎧熊は動かない。
篠はすぐには近づかなかった。
少し離れたところから様子を見て、完全に動きが止まったことを確かめてから、ようやく息を吐く。
「はい。もう大丈夫です」
「すごいな、お前……」
牙猪の時も思ったが、本当に強い。
あれだけの魔獣を相手にしながら、私には傷一つつけさせなかった。
「怪我は?」
「ありません。霧江さんは?」
「私も大丈夫」
「よかったです」
篠がほっと笑った。
そして、いつものように刀へ目を落とす。
刃先。
刃元。
鍔。
柄。
そこまで見て、篠の表情が止まった。
「……あ」
「どうした?」
私が近づいた、その時。
ぴしっ。
小さな音がした。
刀身の真ん中に、一本の亀裂が走る。
「え?」
次の瞬間。
ぱきん。
あまりにも軽い音とともに、刀が折れた。
半分になった刀身が地面へ落ちる。
「…………」
「…………」
篠は手元に残った刀を見た。
それから、地面に落ちた刃を見る。
妙に慣れた手つきで拾い上げた。
「……また、壊してしまいました」
「また?」
思わず聞き返した。
篠は、しまったという顔をした。
*
鎧熊から使えそうな素材だけを回収し、私たちは森を戻ることにした。
さすがに武器のない篠を連れて、これ以上奥へ進む気にはならない。
帰り道。
篠は折れた刀を布で包み、大事そうに抱えていた。
「それ、捨てないのか?」
「一応、鉄として売れますから。少しでも次の武器代にしないと」
「次の武器代……」
さっきの言葉が引っかかっている。
また、壊した。
今回だけじゃない。
「篠」
「はい?」
「さっきの『また』って、どういう意味だ?」
篠の足が止まった。
「……聞こえていましたか」
「そりゃ聞こえるだろ」
「ですよね」
困ったように笑う。
その笑い方を見て、なんとなく冗談で流す話じゃない気がした。
「何本目だ?」
「え?」
「武器を壊したの。今ので何本目なんだ?」
「…………」
篠は少し考えた。
「数えていません」
「そんなに!?」
「刀だけではありませんから」
「刀だけじゃない?」
「はい。槍も、斧も、大剣も……いろいろ使いました」
「なんでそんなに武器を替えてるんだよ」
「替えたくて替えているわけではないんです」
篠は布に包んだ刀へ視線を落とした。
「壊れるんです。私が使うと」
「……そんなに?」
「はい」
篠によれば、昔からそうだったらしい。
力任せに振り回しているわけではない。
むしろ師匠からは、武器の扱い方そのものは何度も褒められたという。
けれど、篠が本気で戦うと、どうしても武器の方が先に参ってしまう。
「師匠には、『お前の力と技に、並の武器がついてきていない』と言われました」
「褒めてるのか困ってるのか分からないな、それ」
「たぶん両方だったと思います」
篠が苦笑する。
「もちろん、いい武器なら長持ちはするんです。でも、いい武器は高いので……」
「ああ……」
嫌な流れが見えた。
「高い武器を買う」
「はい」
「それでも壊れる」
「はい」
「金がなくなる」
「……はい」
「仕方なく安い武器を買う」
「はい」
「もっと早く壊れる」
「…………はい」
「最悪の循環じゃないか」
「私もそう思います」
思うならどうにかしろ、と言いたいところだが、どうにかできるならとっくにしているのだろう。
「だから、あんなに何度も刀を確認してたのか?」
「……気づいていたんですか?」
「朝から何回も見てたらな」
篠は少し恥ずかしそうに笑った。
「いつからか、癖になってしまいました。戦いが終わるたびに、まだ大丈夫かなって」
「さっきも、もう亀裂が入ってたのか?」
「たぶん、鎧熊の爪を受けた時だと思います。あの刀も、買ってからそれほど経っていなかったんですが……」
それほど経っていない。
その言い方が、余計にひどい。
「一人で狩って、それだけ武器代がかかってたら、金なんて貯まらないだろ」
「そうですね」
「前から一人だったのか?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど。
篠の返事が、一拍遅れた。
「……いえ」
「違うのか」
「以前は、三人の方と一緒にパーティーを組んでいました」
声の調子が少し変わる。
さっきまでの困ったような笑いとは違う。
懐かしそうで、それでいて少し寂しそうな声だった。
「皆さん、とてもいい方たちでした。私が武器を壊すたびに助けてくれて、時には武器代まで立て替えてくださって」
「じゃあ、なんで今は一人なんだ?」
「……迷惑をかけすぎたんです」
篠は歩きながら、ぽつぽつと話した。
狩人のパーティーには、実績に応じた格付けがある。
篠たちも、ひとつ上のランクへ上がるため、重要な討伐へ挑んだことがあった。
順調だった。
少なくとも、途中までは。
「その時も、武器が壊れました」
篠が小さく言う。
「予備は?」
「ありました。でも、それも途中で駄目になってしまって」
「二本とも?」
「はい」
それでも篠は戦おうとした。
予備の武器を使い潰し、それでも仲間から武器を借りて、前へ出続けた。
もう退くべきだった。それでも、ここまで一緒にやってきた仲間たちの昇格を、自分のせいで諦めたくなかった。
無理を重ねた結果、篠を庇うために仲間たちまで陣形を崩し、討伐どころではなくなった。
結果は撤退。
昇格も逃した。
「その後、話し合いになりました」
「……それで?」
「私がいる限り、武器の費用がかかりすぎる。重要な場面でまた壊れたら、今度は誰かが死ぬかもしれない。だから……」
篠は少しだけ息を吸った。
「パーティーから外されました」
「……追い出されたってことか」
「そう言うと、皆さんが悪いみたいになってしまいます」
すぐに否定された。
「違うのか?」
「違います。皆さんには、本当によくしていただきました。あの時だって、私が無理をしなければ……」
篠は首を横に振る。
「仕方なかったんです」
その言葉は、たぶん何度も自分に言い聞かせてきたものなのだろう。
「それからずっと一人か?」
「はい。他のパーティーに入ろうとしたこともあります。でも、噂が広がってしまっていて」
「噂?」
「武器を壊して、仲間まで危険に巻き込む女だって」
篠は笑った。
「『壊し屋』とか、『疫病神』とか。いろいろ呼ばれています」
「……笑うところじゃないだろ」
「慣れましたから」
そう言って、また笑う。
明るく。
何でもないことみたいに。
でも。
さっきまで狩りの話をしていた時の笑顔とは、少し違って見えた。
「だから、一人の方が気楽なんです。武器を壊しても、誰にも迷惑をかけませんから」
「…………」
篠は前を向いた。
その腕の中には、折れた刀がある。
何度も刃を確認していた理由が、ようやく分かった。
大事にしていたからだけじゃない。
また壊れるのが怖かったのだ。
それでも、私を守る時には迷わず刀を使った。
鎧熊の爪を受けた時だって、自分の武器より先に私を守った。
「……篠」
「はい?」
「いや」
何を言えばいいのか、すぐには思いつかなかった。
かわいそうだと言うのも違う。
仕方ないと頷くのは、もっと違う。
「なんでもない」
「そうですか?」
「ああ」
私は少し重くなった素材袋を担ぎ直した。
そのまま、二人で小屋への道を歩いた。




