第17話「災難と幸運」④
篠が金剛を鞘に収めるのを見届けて、私はようやく肩の力を抜いた。
キビはもう動かない。
稲羽も、雲居も、ちゃんと生きている。
(……本当によかった)
ただ、これで終わりというわけにはいかない。
街までは、まだ長い道のりが残っているのだ。
「よし。帰ろう。雲居の足も心配だしな」
「そうですわね。稲羽も、もう十分怖い思いをしましたもの」
「は、はい……」
稲羽は小さく頷いた。
さっきまでの怯えきった表情は和らいでいたが、しっぽはまだ足の間に入ったままだ。
私は岩場を見回した。
討伐した陸竜をこのまま置いていくのも、何だかもったいない気がする。
「こいつどうする? ここで解体する?」
「いや、持って帰ろう」
答えたのは朝凪だった。
「何で? 大変じゃん」
「美味しい」
「え?」
「美味しい」
「食べるの!?」
思わずキビの死体を二度見した。
細長い胴体に硬そうな鱗。口元には鋭い牙が並んでいる。
私の知っている食肉とは、ずいぶん姿が違うのだが。
「霧江さん、キビのお肉は絶品なんですよ」
篠まで当たり前のように頷いた。
「本当に?」
「はい。癖が少なくて、焼くと旨味が強いんです。特に脚の肉がおすすめです」
「……脚の肉は、厚めに切って焼くのがいい。脂がくどくなくて、肉の味が濃いから」
朝凪が珍しく、料理のことを詳しく話し始めた。
「へえ。よく知ってるな」
「……夕凪の料理で覚えた」
魔獣を食べること自体は、もう珍しくない。
獣脂を集めるために狩った魔獣だって、食べられる部分は無駄にしていない。
それでも、今しがた炎を吐いて襲ってきた陸竜まで食卓に上るとは、ちょっと驚いた。
「夕凪に料理してもらう」
朝凪が静かに付け加えた。
その目は、さっきキビを狙っていた時よりも真剣に見える。
(……朝凪って、意外と食にこだわるんだな)
いや、考えてみれば無理もない。
夕凪の料理はうまい。普段からあの手料理を食べていれば、焼き加減や肉の味にも詳しくなるのかもしれない。
「それに、鱗や骨も使えるでしょう?」
篠にそう言われて、私は頷いた。
「まあな。どうせなら、丸ごと持ち帰りたいところだけど……」
改めて死体を眺める。
キビは胴が細いとはいえ、全長は小さな荷車に匹敵する。しかも鱗に覆われた身体は、見た目以上に重そうだ。
これを人力で街まで運ぶのは、さすがに骨が折れる。
「あ、あの……」
控えめな声に振り向くと、稲羽が遠慮がちに手を上げていた。
「背負子なら、街道の脇に置いたままなんです。逃げる時に、そこまでは運べなくて……」
「そういえば、あれを貸してたな」
「す、すみません。せっかく貸していただいたのに……」
「いやいや。命が助かったんだから、それで十分だよ」
謝りかけた稲羽の頭に、そっと手を置いた。
耳が一瞬だけ揺れ、それから少しずつ立ち上がる。
「……ありがとうございます」
「それより、場所を覚えてる?」
「は、はい。すぐ近くです」
案内してもらうと、背負子は岩場から少し離れた草陰に倒れていた。
積んであった品は包みごと泥を被っていたが、車輪も枠も無事だった。
「よし。これなら使えるな」
私は背負子を起こし、車輪を確かめた。
もちろん、この大きさのままキビを載せることはできない。
けれど、土台にして荷台を広げるくらいなら何とかなりそうだ。
「篠、朝凪。悪いけど、あそこの林から太くて真っ直ぐな枝を二本、取ってきてくれる?」
「分かりました!」
「うん」
その間に、私は背負子から売り物の包みを下ろした。
石鹸は傷んでいないようだ。ほかの品も大半は無事だったが、商売に戻る前に商会で確認してもらう必要はあるだろう。
稲羽は包みを抱え、申し訳なさそうに私を見ていた。
「霧江さん、私も何か……」
「今は休んでろ。水もちゃんと飲んだか?」
「は、はい……」
「じゃあ、まずはそれで十分」
稲羽が口を結んだ。
やがて小さく頷き、雲居の隣に腰を下ろす。
しばらくして、二人が枝を抱えて戻ってきた。
長さは申し分ない。私は先端の余分な枝葉を落とし、背負子の左右へ添えた。
持ってきた縄で枠にしっかり結びつけ、さらに短い枝を横木として渡していく。
できあがったのは、車輪付き背負子を土台にした、細長い運搬台だった。
「おお、悪くない」
「……背負子が、別の道具みたいになりましたね」
篠が感心したように言う。
「大げさなものじゃないよ。棒を足して、載せる場所を広げただけ」
「それをこんなに早く思いつくのが、霧江さんらしいです」
褒められると、ちょっと照れる。
まあ、これで問題なく運べるかどうかは、実際に載せてみないと分からないが。
篠と朝凪に手伝ってもらい、キビを運搬台へ載せた。
全員で縄を引いて身体を固定すると、車輪が地面へ深く沈む。
「……重いな、やっぱり」
「でも、持ち上がらないほどじゃないよ」
朝凪は先端の棒を握って、重さを確かめた。
私も反対側を持ってみる。二人で力を合わせれば、どうにか前へ進めそうだ。
もちろん、早足で街へ戻れるほど楽ではない。
「それじゃ、交代しながら運ぼう。雲居は足を休ませて。稲羽も無理するなよ」
「……承知しましたわ」
「は、はい!」
雲居は少し不満そうだったが、自分の足を見てから素直に頷いた。
今は張り合う場面じゃないと分かっているのだろう。
*
街へ戻り着いた頃には、夜もすっかり更けていた。
途中で何度も荷台を止め、車輪が石に取られるたびに持ち上げ、篠と朝凪と交代しながら引き続けた。
陸竜を丸ごと運ぶというのは、想像していた以上に大仕事だった。
(……しばらくは力仕事したくないな)
そんなことを考えながら工房へ入ると、明かりのついた母屋から夕凪が駆け出してきた。
「お姉ちゃん! みんな!」
声を聞いた朝凪が荷台から手を離す。
「夕凪。ただいま」
「ただいまじゃないよ! 遅いから、ずっと心配してたんだから!」
「……ごめん」
夕凪はそう言いながらも、姉の顔や腕に怪我がないか確かめていた。
次に雲居と稲羽を見つけると、ほっと息をつく。
「二人とも無事でよかった……!」
「ご心配をおかけしましたわ」
「す、すみません……」
「謝らなくていいよ。ほんと、帰ってきてくれてよかった」
夕凪は稲羽の肩に優しく触れた。
稲羽も、ようやく安心したように頷く。
その時、夕凪の視線が私たちの後ろへ移った。
「……ところで、その大きいのは?」
「キビ」
朝凪が答える。
「……え?」
「夕凪。料理して」
「お姉ちゃん! 怪我がないかと思ったら、今度は料理の話!?」
夕凪の声に、篠が口元を押さえた。
朝凪は少しも悪びれず、キビの死体を見つめている。
「だって、美味しいから」
「もう……! 分かったけど、こんな時間からは作らないからね!」
「……うん。明日でいい」
(食べるのは決定なんだな……)
私は二人のやり取りを聞きながら、運搬台の縄をほどいた。
まずはキビの血を抜かないと、肉の状態が悪くなってしまう。
工房の脇にある太い梁へ縄を掛け、篠と朝凪に力を借りてキビを吊り上げる。
傷口から出ていた血だけでは足りないので、首元へ刃を入れ、下に大きな桶を置いた。
新しくできた長屋の方へ流れないよう、足元にも気をつける。
「血が落ち着いたら、内臓だけは今夜のうちに取り出しておこう。肉を切り分けるのは明日だ」
「はい。傷みやすいところを先に処理しておきましょう」
「……手伝う」
篠と朝凪に手を借り、キビの腹を開いて内臓を取り出した。食用になる部位と素材に使える脂は分けておき、使い道のない薄い膜や硬い筋は、捨てる分として別の桶にまとめる。
その桶には蓋をして工房の隅へ寄せた。暗い中で細かな片づけまで済ませるより、残りは明朝に回した方がいいだろう。
「よし、今夜はここまでだ。雲居の足も、もう一度診てもらわないとな」
「そうですね」
夕凪が湯を用意し、篠が雲居の手当てを手伝ってくれた。
雲居はまだ痛みを堪えているようだったが、帰ってきた時よりは顔色がよくなっている。
稲羽には、母屋で休んでもらうことにした。
山猫商会への報告も、明日でいい。今夜くらいは、安心して眠ってほしい。
「……霧江さん」
「ん?」
「行商、せっかく応援していただいたのに……ごめんなさい」
稲羽は俯き、耳を伏せた。
「なんで謝るんだよ。悪いのは襲ってきたキビだろ」
「で、でも……」
「商売のことは、今考えなくていいって。まずはゆっくり休んで、元気になろう」
稲羽が顔を上げた。
しばらく迷うように私を見つめ、それから小さく微笑む。
「……はい。ありがとうございます」
その笑顔はまだ頼りなかった。
でも、無理に元気を出す必要なんてない。
(……また外に出たくなった時に、手伝ってやればいいさ)
私は稲羽を篠に任せ、工房の戸を閉めた。
*
翌朝。
十分に休んだつもりだったが、身体のあちこちが痛かった。
キビを運んだ疲れと、火球を受けた背中の痛みが一緒に残っている。
「うう……年寄りみたいだな、これ」
肩を回しながら工房へ向かうと、すでに朝凪と篠がキビの解体を始めていた。
夕凪も少し離れたところに立ち、取り分けられた肉を興味深そうに眺めている。
「おはよう。早いな、みんな」
「おはようございます。昨夜は内臓を取り出すところまででしたから、今朝は肉を切り分けようと思いまして」
「……お肉、楽しみだから」
「お姉ちゃんはそればっかり!」
朝凪は何も言い返さず、肉の状態を確かめている。
夕凪の料理が楽しみで仕方ないらしい。
私も手袋を着け、鱗や骨の状態を調べることにした。
丈夫な鱗は防具に使えるかもしれないし、骨も何かの素材になるだろう。
それに、竜種なら忘れてはいけないものがある。
「竜核は見つかった?」
「ええ。こちらです」
篠が、布に包んだ丸い器官を差し出してくれた。
魔力を蓄える竜種特有の器官、竜核だ。
フヨウのような大きな竜だけでなく、キビのような比較的小さな竜にも備わっている。
「助かる。これは取っておこう」
大事な素材を一つ確保できた。
あとは、使えそうな部位を無駄にしないように分けていけばいい。
そう思った時だった。
「霧江さん、これって捨てるやつだよね?」
夕凪が、工房の隅に置いてあった桶を指さした。
昨夜、使い道がないとして取り分けておいた、内臓を包む薄い膜や筋の切れ端だ。
「ああ。使える脂も食べられる部位も、もう分けてあるからな」
「分かった。じゃあ、片づけちゃうね」
夕凪が桶の中身をまとめようとして、ふと手を止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
「ここだけ、何か硬いものが入ってるよ」
夕凪が持ち上げたのは、折り重なった膜の塊だった。指先で確かめると、その奥に小石のようなものが埋まっているらしい。
薄い膜を一枚めくると、隙間から暗い赤色が覗いた。
「何だ、それ?」
「分かんない。でも、捨てる前に見つけてよかったかも」
篠が解体用の小刀で周囲の膜を慎重に切り離し、夕凪が水で汚れを落とした。
現れたのは、親指の先より少し大きい、深紅の結晶だった。
十二の平らな面が整然と組み合わさった多面体で、光にかざすと奥の方に赤い色が重なって見える。
「……えっ!?」
篠が結晶を見つめたまま、目を見開いた。
「これって、もしかして竜結晶じゃないですか!?」
「竜結晶?」
「はい! 竜種の体内に、ごくまれにできる結晶です! キビは火属性なので、これは熾晶と呼ばれるものですね。滅多に見られない珍しい素材ですよ!」
「……私も初めて見た」
朝凪まで、珍しく目を丸くしている。
さっき篠から受け取った竜核は、真球に近い形だった。一方、こちらには平らな面が十二もある。形からして、竜核とはまったくの別物だ。
「えっ、そんなにすごいものなの? 私、捨てるところだったよ!」
「本当ですよ! 気づかなければ、そのまま捨ててしまっていたかもしれません!」
夕凪は驚いたように結晶を見つめ、それから少し照れくさそうに笑った。
「でも、たまたま触っただけなんだけどなあ」
たまたま、か。
誰も価値があるとは思わずに避けておいたものから、こんな珍しい素材を拾い上げるなんて。夕凪は本当に運がいい。
「よく見つけたな、夕凪。危うく捨てるところだった」
「へへ……よかった!」
私は夕凪が差し出してくれた熾晶に、そっと指を伸ばした。
その指が結晶に触れた瞬間、見慣れた文字が視界に浮かび上がる。
【名称:熾晶】
【カテゴリ:竜種素材】
【特性:魔力感応・発熱】
【説明:炎を吐く竜種の体内に、まれに形成される結晶。魔力を受けると熱を生み出す】
(……これが熾晶か)
篠の言ったとおり、火を吐く竜種でも、ごくまれにしか生まれない結晶らしい。
私は結晶を手のひらに載せたまま、その説明を読み返す。
魔力を受けると、熱を生み出す。
「……ん?」
胸の奥で、何かがつながった気がした。
(待てよ。これって……)
熱を作るためのものがない。
ずっと、それだけが足りなかった。
頭の中で、竜核と熾晶が並ぶ。
竜核から魔力を送り、その魔力を熾晶で熱に変える。
あとは湯をためる槽と、熱を伝える仕組み。それから、魔力の流れを止めたり通したりする切替弁さえあれば……。
その瞬間、視界の文字が切り替わった。
【制作法を構築しました】
【新規制作法:湯沸かし装置】
「……来た!」
思わず声が出た。
目の前にあるのは、ついさっきまでレシピ一覧を探しても見つからなかった名前だ。
必要な素材と組み立て方が、次々と頭に浮かんでくる。
竜核が魔力を供給し、熾晶が熱へ変える。
切替弁で魔力の流れを開閉すれば、使うたびに誰かが魔力を送り続ける必要もない。
湯槽を直接あぶるのではなく、熱を伝える部分を間に挟めば、湯を安定して温められる。
実際にどの程度の湯を沸かせるか、どれだけ長く使えるかは、作って試してみないと分からないが。
(これだ! これなら、あれが作れる!)
ずっと足りなかった最後の一つが、ようやく揃ったのだ。
「霧江さん? どうしたんですか?」
篠が不思議そうに首を傾げた。
朝凪も私を見ている。
「いや、すごいんだって! 夕凪、お手柄だ!」
「えっ、私?」
「そう! お前のおかげで、ずっと考えてたものが作れるようになった!」
嬉しくなって、私は夕凪を抱きしめた。
「きゃっ!? き、霧江さん!?」
腕の中で夕凪が身を固くする。
顔を上げた夕凪は、耳まで真っ赤になっていた。
「ありがとう! 本当に助かった!」
「そ、そんな、私は石を見つけただけで……!」
背後から、肩を強く掴まれた。
「……霧江」
振り向かなくても分かる。
この声は朝凪だ。
「夕凪から離れて」
「え、いや、今は感謝の気持ちを……」
「離れて」
「はい」
私は素直に腕をほどいた。
夕凪は顔を覆い、篠はなぜか頬を膨らませている。
「……霧江さん、私だって昨日からずっと頑張ってたんですけど」
「え? あ、もちろん篠もすごく助かったよ!」
「そういうことではありません!」
何を怒られているのか、よく分からない。
でも、久しぶりにみんながいつもの調子へ戻ってきた気がして、少し嬉しかった。
「それで、霧江さん。何が作れるようになったんですか?」
夕凪がまだ赤い顔のまま尋ねてくる。
「それは……完成してからのお楽しみだな」
「ええっ、教えてくれないの?」
「今はまだ秘密。きっとみんなも喜ぶと思うぞ」
篠と夕凪が顔を見合わせた。
朝凪は相変わらず警戒するように、夕凪の肩へ手を置いている。
私は手の中の熾晶を見下ろした。
稲羽と雲居が無事に戻ってきた。
キビの肉は、夕凪が料理してくれる。
そして、思いがけず探し続けていた素材まで手に入った。
ひどい事件だったことに変わりはない。
あの二人が怖い思いをしたことだって、これで帳消しになるわけじゃない。
だからこそ、無事に帰れた今を、大切にしたかった。
(……さて)
新しく開いた制作法を、もう一度確かめる。
(次は、こいつを形にする番だな)
私は熾晶を傷つけないように布で包み、工房の棚へ大切にしまった。
次は狩りではなく、みんなを喜ばせるための大仕事だ。




