第17話「災難と幸運」③
*
岩の裂け目の奥は、昼なのか夜なのか分からないほど暗かった。
私は膝を抱え、耳を伏せていた。
昨日から、ずっとここにいる。
雲居さんに渡された水筒は、もう半分ほどしか残っていない。さっきから何度も飲もうとしているけれど、手が震えてうまく栓を開けられなかった。
外から、重い足音が聞こえる。
まただ。
岩を踏む爪の音。石と石が擦れる音。そのすぐあとに、湿った息遣いが近づいてくる。
獣の生臭さと、何かが焦げたような匂いが、細い隙間を通って鼻を刺した。
私は両手で口を覆った。
キビが、まだいる。
四本の脚で岩場を歩き回り、何度もこの裂け目を覗き込んでくる。鼻先が岩の間に入り、喉の奥から熱を含んだ唸り声が響くたびに、背筋が固まった。
昨日、一度だけ炎を吐かれた。入口にあった枯れ草が焼け、熱い空気がこちらへ押し寄せてきた。
でも、裂け目の奥は曲がっていて、火は私のいるところまで届かなかった。
雲居さんが、ここに隠れるよう言ってくれたおかげだ。
「……雲居さん」
名前を呼んでも、返事はない。
あの方は、助けを呼びに戻ると言っていた。
自分だって火傷をしていたのに、私を励まして、水筒まで持たせてくれた。
もう、街に着いただろうか。
途中で倒れたりしていないだろうか。
考え始めると、胸が苦しくなる。
私が行商に挑戦したいなんて言わなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
店先で売れるようになって、少しだけ自信がついたから。
もっと頑張れると思ってしまったから。
しっぽを、身体に強く巻きつける。
外でキビが鼻を鳴らした。
今度は、すぐ近くにいる。
岩肌の向こうから熱気が流れ込んだ。喉元が膨らむような、低い唸り声。
私は目を閉じ、額を膝へ押しつけた。
お願い。
こっちへ来ないで。
やがて足音が少し遠ざかった。
代わりに、何か硬いものがぶつかる音がした。
続いて、聞き覚えのない鋭い声。
いや、違う。
誰かが叫んでいる。
私は顔を上げた。
外でキビが吠えた。さっきまでとは違う、怒ったような声だ。
さらに、金属が岩をかすめる音。重いものが地面を踏みしめる気配。
誰かが、戦っている……?
伏せていた耳が、ゆっくりと立つ。
まさか。
そんなに早く……。
「稲羽!」
胸が跳ねた。
その声を、間違えるはずがない。
「い、今の……!」
私は立ち上がった。
足が痺れて、岩に手をつかなければ倒れそうだった。それでも、曲がった裂け目を抜け、入口の方へ進む。
「稲羽! そこにいるか!」
「霧江、さん……?」
岩の向こうから顔を覗かせたのは、霧江さんだった。
いつもの青い作務衣。その上から、黒くて分厚い外套を羽織っている。
見慣れない格好なのに、顔はいつもと同じだった。
「よかった、いた! 怪我は?」
「な、ないです……! で、でも、雲居さんが……!」
「雲居も一緒に来てる。大丈夫だ」
その一言で、身体から力が抜けそうになった。
助けに来てくれた。
霧江さんが、私を……。
「ほら、こっちへ。ゆっくりでいいから」
差し出された手を見て、思わず一歩踏み出した。
その時だった。
霧江さんの向こうで、何かが動いた。
さっきまで遠くにいたキビが、岩の陰からこちらを向いている。
細長い首の喉元が、不自然に膨らんだ。
昨日も見た。
あれは、炎を吐く前の――。
「き、霧江さん! 後ろっ!」
声を上げた時には、もう遅かった。
キビの口から、小さな火の塊が放たれた。
大きくはない。けれど、私たちに向かって真っ直ぐ飛んでくる。
足が動かない。
逃げようと思うのに、目の前の炎から視線を逸らすことさえできない。
次の瞬間、霧江さんが私の前へ飛び込んできた。
黒い外套が視界いっぱいに広がる。
その腕に抱き寄せられた直後、外套越しに強い衝撃が伝わった。
焦げた匂いがした。
霧江さんの背中に、火球が直撃したのだ。
「霧江さんっ!」
*
背中を思いきり殴られたような衝撃が走った。
「……っ!」
思わず歯を食いしばる。
だが、覚悟していた焼けるような熱さは来なかった。
腕の中では、稲羽が身を固くしている。
伏せた猫耳の下から、怯えきった目が私を見上げていた。
「霧江さん! せ、背中が……!」
「大丈夫、大丈夫。ほら、ちゃんと生きてる」
笑ってみせると、稲羽はさらに目を潤ませた。
……よかった。
本当に、間に合った。
外套の背中側から、布の焦げた匂いがする。強い衝撃で背中は痛むが、焼けるような熱さは残っていない。
布の端には小さな火が残っていた。私は慌てて叩き消す。
(……火球が小さかったから助かった。もっと大きな炎だったら、危なかったな)
どうやら、作っておいた甲斐があったらしい。
*
出発前、工房へ駆け込んだ時のことだ。
素材箱から取り出したのは、黒く染めた厚手の麻布だった。
以前、素材を調べた時に付与スキルがあると分かり、ほかの布地と分けて保管していたものだ。
【名称:厚手の麻布】
【カテゴリ:布】
【特性:丈夫・通気性】
【説明:麻の繊維を厚手に織り上げた布。衣服や袋物などに利用される】
【Bランクスキル:「火耐性上昇(中)」付与】
(……これだ!)
火を吐く陸竜が相手なら、使わない手はない。
麻布を広げ、肩から背中まで覆える外套を思い描く。首元を留めるための紐も添え、その場でクラフトした。
【外套をクラフトしました】
【継承する付与スキルを選択してください】
【火耐性上昇(中)】
【継承可能数:2】
継承できる数には余裕があるが、今必要なのはこの一つだけだ。
【火耐性上昇(中)を継承しました】
麻布そのものには、火を防ぐ力なんてない。炎にさらされれば、普通に焦げるし燃えもする。
それでも、継承した火耐性上昇の効果があれば、身につけた私への熱は軽減できるはずだ。衝撃までは防げないし、どれほどの炎に耐えられるかも分からない。
(……念のため、だな)
そう思って羽織った外套が、まさかこんな形で役立つとは。
*
私は稲羽を抱えるようにして、炎が直接届かない岩の奥へ下がった。
入口の外では、朝凪が放った矢がキビの横腹をかすめ、篠がその前脚へ斬りかかっている。
二人は私が稲羽を探す間、ずっとあいつを引きつけてくれていた。だが、稲羽が姿を見せた瞬間、キビは無理に身体を捻ってこちらへ火を吐いたのだ。
あの一瞬だけは、誰にも止められなかった。
「稲羽、立てるか?」
「は、はい。でも、霧江さんの背中が……」
「少し打っただけ。稲羽に当たらなくてよかったよ」
稲羽は私の外套を握りしめた。指先はまだ震えている。
「……私の、ために……」
「当たり前だろ。助けに来たんだから」
「霧江! なんて無茶をなさいますの!」
雲居が傷めた足をかばいながら、岩陰まで近づいてきた。涙の跡はもう見えないが、顔には怒りが浮かんでいる。
「火を吐く相手だと分かっていながら、正面から庇うなんて……!」
「稲羽が危ないと思ったら、身体が勝手に動いてたんだよ」
言ってから、ちょっと格好つけすぎたかもしれないと思った。
でも、本当のことだ。
稲羽の耳が立ち上がり、頬に赤みが差した。それでも外套を握る手は離れない。
「……霧江さん」
その声は小さく、さっきまでの震えとは違って聞こえた。
岩の外で、キビが激しく吠えた。剣と爪がぶつかる音が続く。
「話はあとだ。稲羽はここから出るなよ。雲居、頼む」
「……ええ。あなたも無茶はなさらないでくださいまし」
「は、はい……! 雲居さんも、ご無事でよかったです……!」
雲居は稲羽の肩を支えて頷いた。
私は二人が岩陰にいるのを確かめ、外の戦いに目を向けた。
*
篠と朝凪が、キビを岩場の端まで追い詰めていた。
朝凪の矢が飛ぶたびに、キビの動きが乱れる。固い鱗そのものを狙うのではなく、首元や脚の付け根など、隙のある場所へ正確に射込んでいた。
篠はその間合いを見極め、金剛でキビの踏み込みを封じていく。
キビが大きく息を吸った。
喉元が膨らむ。
「篠、来るよ!」
「はい!」
篠が横へ身を滑らせると、炎がその背後の岩を舐めた。
あいつが首を伸ばした瞬間、朝凪の矢が肩口の鱗の継ぎ目へ深く突き刺さる。
キビがよろめいた。
「今ですわ!」
少し離れた岩陰から、雲居が札を放った。
札がキビの脚に触れ、動きを鈍らせる。ほんのわずかな時間だったが、それで十分だった。
篠が間合いを詰める。
金剛の刃が横腹の鱗を断ち、その下まで深く食い込んだ。
キビは身体を大きく揺らし、岩場へ倒れた。
だが、終わらない。
前脚で地面を押し、傷ついた身体を持ち上げようとしている。
(……あれだけ斬られて、まだ動けるのか)
フヨウほどの強敵ではない。それでも、竜種の生命力は並の魔獣とは違うらしい。
キビが首を持ち上げ、再び喉元を膨らませた。
「篠、まだ火を吐く!」
朝凪の矢が顎の脇に刺さり、キビの首が横へ逸れた。吐き出された炎は、二人から離れた岩壁に当たる。
その隙を逃さず、篠が首元へ回り込んだ。
金剛の切っ先が鱗の継ぎ目へ入り、深く突き立てられる。
キビはしばらく身体を震わせ、やがて動かなくなった。
篠はすぐに刀を引き抜かず、朝凪も弓を構えたまま様子を確かめた。
「……終わった?」
「うん。今度こそ」
朝凪が弓を下ろした。
篠も金剛を引き抜いて血を払い、こちらへ振り向く。
「霧江さん! 稲羽さんは?」
「無事だよ。二人のおかげだ」
篠が安堵の表情を浮かべた。
朝凪も短く頷く。
私は稲羽の方を振り返った。
雲居に支えられながらも、稲羽は自分の足で立っている。耳も、もう伏せていなかった。
「……帰ろうか、稲羽」
「はい」
稲羽は一度、雲居の顔を見てから、私に向き直った。
「……助けに来てくださって、本当にありがとうございました」
まだ少し掠れた声だった。
けれど、その笑顔は、山猫商会の売り場で初めて石鹸を売った日よりも、ずっとまっすぐに見えた。
その一方で、雲居の腕に添えられた稲羽の手は、まだ小さく震えていた。
(……怖かったよな)
私はその手にそっと触れた。今は無事に帰ることだけを考えよう。
……助かって、本当によかった。
私はようやく、大きく息を吐いた。




