第17話「災難と幸運」②
雲居と稲羽が行商に出発した、翌朝のことだった。
私は居間で、昨日と同じように頭を抱えていた。
何度レシピを開いても、欲しいものは増えていない。まあ、一晩寝ただけで解決するなら、昨日あんなに悩まなかっただろう。
(……いっそ、別のものから作るか?)
そんなことを考えていた時だった。
玄関の戸が勢いよく開き、戸板が枠に当たる音が居間に響いた。
「霧江……!」
聞き慣れた声なのに、いつもとまるで違う。
顔を上げると、戸口に雲居が立っていた。
「……雲居?」
昨日見送ったばかりの旅装束は、あちこちが裂け、煤で黒く汚れている。薄水色の長い髪は乱れ、頬には土がついていた。
何より、顔色がひどい。
戸口の柱につかまったまま、肩で息をしている。
「おい、どうしたんだよ!?」
「稲羽が……!」
その名前を聞いた途端、嫌な予感で胸が締めつけられた。
「稲羽が、どうした?」
「陸竜に襲われましたの! あの子が、まだ……!」
雲居の膝から力が抜けた。
慌てて駆け寄り、倒れそうな身体を支える。腕に触れた布は、ところどころ焦げていた。
「篠! 水を持ってきてくれ!」
「はい!」
「夕凪、手拭いも頼む!」
「う、うん!」
奥にいた二人が、弾かれたように動き出した。
朝凪も矢を置き、こちらへやってくる。
「まず座れ。足、怪我してるじゃないか」
「そんなこと、今は……!」
「今は稲羽が先だ。分かってる。だから、どこにいるのか教えてくれ」
雲居は唇を噛んだ。
それから、何度か浅い息を繰り返して頷いた。
*
「昨日、街を出てから半日ほど歩いたところですわ」
水を一口飲んで、雲居が話し始めた。
篠がその脇に膝をつき、裂けた裾の下から覗く足を確かめている。足首から脛にかけて、一部が赤く腫れていた。軽い火傷らしい。
「回復の札は使ったのか?」
「……使いましたわ。ですが、わたくしの腕では痛みを和らげるのが精いっぱいで」
雲居は赤く腫れた足から目を逸らした。自分で手当てを試みても、この状態なのか。
「街道沿いの岩場を通りかかった時、いきなり陸竜が現れましたの」
「陸竜って、どんなやつ?」
「キビですわ。細長い身体で、四本の脚を持つ陸竜です。大きな竜種ほどではありませんけれど……火を吐きますの」
火を吐く。
その言葉に、私は雲居の焦げた袖を見た。
稲羽は戦えない。雲居も札の扱いが得意なわけではない。火を吐く陸竜が相手では、二人だけで切り抜けるのは難しい。
「動きを止める札を使いましたけれど、ほんの一瞬でしたわ。稲羽が逃げ込む隙を作るので精いっぱいで……」
雲居は膝の上で拳を握り締めた。
「岩場に、奥が折れ曲がった細い裂け目がありましたの。キビの身体は入りませんし、奥へ隠れれば炎も直接は届きません。稲羽には水筒を持たせて、そこへ逃げ込んでもらいました」
「じゃあ、すぐに襲われる心配はないんだな?」
「……そう言い切れれば、どれほどよかったか」
雲居の声が震えた。
「あの陸竜、ひどくしつこいんですの。わたくしが離れても、あの子を捜して岩場から離れようとしませんでした。鼻先を隙間に突っ込んでは、何度も唸って……」
想像しただけで、背筋が冷たくなる。
狭い岩の間で息を潜める稲羽。すぐ向こうでは、火を吐く魔獣がうろついている。
あの子がどれだけ怖がっているか。
「それで、雲居は助けを呼びに……」
「ほかに方法がありませんでしたの。稲羽を連れて逃げようとすれば、すぐに追いつかれてしまいますもの」
雲居は膝の上に置いた拳を見つめた。
いつもの余裕はどこにもない。声は掠れ、唇をきつく結んでいる。
「……結果として、わたくしだけ戻ってきてしまいましたわ」
握りしめた手が震えた。
「稲羽をあんなところへ置いて、わたくしだけ……!」
「雲居……」
「わたくしが、もっと札の扱いに長けていれば……! あの子を守ることだって、できたかもしれませんのに……!」
雲居は自分の足に目を落とした。
「自分の傷さえ、まともに治せませんの。商いのことなら、いくらでも頭が回りますのに……肝心な時に、何も……!」
声が途切れた。
うつむいた雲居の頬を、涙が伝っていく。本人は慌てて拭おうとしたが、次の涙を止められなかった。
私は言葉を失った。
あの雲居が泣いている。いつも胸を張り、私のいい加減さを容赦なく叱りつける雲居が。
「……情けないですわね」
そう言って笑おうとした顔が、痛々しかった。
私はそっと、握りしめられた手に自分の手を重ねた。
「そんなことない」
「……霧江?」
「稲羽を隠して、火傷した足で、危険を冒してここまで戻ってきてくれたんだろ?」
雲居が涙に濡れた目を上げた。
「雲居が助けを呼びに来なかったら、私たちは稲羽が危ないことも、どこにいるのかも分からなかった」
「ですが、わたくしは……」
「ありがとう、雲居。よく戻ってきてくれた」
雲居の手から、少しずつ力が抜けていく。
「全部一人で何とかしなくていい。今度は私たちの番だ。稲羽もきっと大丈夫。絶対に連れて帰ろう」
「……本当に、あなたという方は」
雲居は私を見つめたまま、涙の残る目を伏せた。赤くなった頬を手の甲で拭い、それから一度、深く頷く。
「……ええ。必ず、連れて帰りますわ」
まだ震える声だったが、その目には先ほどまでなかった強さが戻っていた。
とはいえ、稲羽は今も岩場で待っている。急がなければ。
「篠、朝凪。頼めるか?」
「もちろんです!」
「うん。場所が分かれば何とかなる」
朝凪は壁に立てかけてあった弓を取り、弦の張りを確かめた。
篠も、金剛を腰に差して立ち上がる。
「相手はフヨウほどの大物じゃないんだよな?」
「キビなら、見たことがある。フヨウほど厄介じゃないよ」
答えたのは朝凪だった。
「火を吐く前に喉元が膨らむ。そこを見逃さなければ、私と篠で対処できる」
「よし。じゃあ、二人にはキビを引きつけてもらう。私はその間に稲羽を探す」
「分かりました!」
「うん」
朝凪の声はいつもどおり落ち着いていた。その落ち着きが、今は頼もしい。
「わたくしも参りますわ」
雲居が立ち上がろうとして、顔をしかめた。
「待て待て。その足で行くのか?」
「あの子を隠した場所が分かるのは、わたくしだけです。道案内が必要でしょう?」
「それはそうだけど……」
「それに……わたくしにできる札の援護も、少しはありますわ。決して無理に前へ出たりはしません」
ここで止めても、雲居は聞かないだろう。それに、隠れ場所を探し当てるには、雲居の案内があった方がいい。
「分かった。道案内を頼む。でも、戦いは篠と朝凪に任せるんだ。足がつらくなったら、すぐ言えよ」
「……ええ。分かっておりますわ」
雲居は自分の足を見てから、もう一度頷いた。
無茶はさせない。それでも一緒に行きたいという気持ちは、尊重してやりたかった。
「お姉ちゃん、私も……」
夕凪が、手拭いを抱えたまま朝凪を見た。
「駄目」
朝凪は即答した。
「……まだ何も言ってないよ」
「危ないから、留守番」
夕凪は口を結んだ。
以前、飛竜に襲われた時の傷を、私も覚えている。朝凪が心配する気持ちはよく分かった。
「夕凪、家のことを頼めるか? 戻ってきた時、誰かがいてくれた方が助かる」
「……うん。分かった」
夕凪は真剣な顔で頷いた。
「みんな、絶対に帰ってきてね。稲羽さんも一緒に」
「もちろん」
そう答えながら、私は立ち上がった。
準備を急がないと。
……そこで、ふと考えが浮かんだ。
(待てよ。火を吐く相手なら……)
「悪い。ちょっとだけ工房に行ってくる」
「霧江さん!? 今からですか?」
「すぐ戻る! みんなは支度を頼む!」
驚く篠を残し、私は工房へ駆け込んだ。
隅に置いてある、いつもの素材箱を引っ張り出す。
付与スキルのある素材は、ほかの材料と分けてしまってある。以前、金剛を作った時もそうだった。すぐに使わないものでも、妙な力を持っていると分かれば取っておくことにしている。
(確か、この中に……)
蓋を開け、手早く中身を探す。
何度か素材を取り分けたところで、目当てのものが指に触れた。
(……あった!)
私はそれを掴み、布をしまった棚へ目を向けた。
*
「お待たせ!」
工房から戻ると、篠も朝凪も準備を済ませていた。
雲居の足には手拭いが巻かれ、杖代わりの棒を持っている。夕凪が患部を冷やして手当てをしてくれたらしい。
「霧江さん、その格好は……?」
篠が私の肩を見た。
いつもの作務衣の上に、黒くて分厚い外套を羽織っている。正直、少し重たい。
「ちょっとした備え。邪魔にはならないから」
「……暑くない?」
朝凪に聞かれ、私は肩をすくめた。
「まあ、多少はな。でも、あった方がいいと思うんだ」
これ以上説明している時間はない。
雲居から稲羽の隠れた岩場までの道を聞き、荷物を確かめる。篠は金剛、朝凪は弓と矢、雲居は札。私は水と最低限の道具を持った。
「よし。行こう」
四人で家を飛び出した。
*
街道を急ぎながら、何度も雲居に道を確かめた。
行きは半日ほどかかったというが、今は休んでいる暇がない。できる限り足を速め、途中で水を飲む時も立ち止まるのはわずかな間だけだった。
雲居の足が気になったが、本人は弱音を吐かない。
篠が何度か歩調を緩めようとすると、むしろ雲居の方から先へ行けと言い出した。
「焦っても、助けられるものも助けられなくなるよ」
朝凪が前を見たまま言った。
「……分かってる」
口ではそう答えたものの、気持ちは落ち着かなかった。
あの人見知りの稲羽が、一人きりで火を吐く陸竜から隠れている。
助けを呼びたくても、大声なんて出せないだろう。
(待ってろよ、稲羽)
ようやく雲居が足を止めたのは、日が傾き始めた頃だった。
街道の向こうに、灰色の岩が積み重なったような斜面が見える。
「あそこですわ」
雲居が指さした。
「あの岩場の奥に、稲羽を隠しました」
私は前を見据えた。
岩の隙間を通り抜ける風が、低く唸っている。
その音に混じって、遠くから別の、もっと重い唸り声が聞こえた気がした。
篠が金剛の柄に手をかける。
朝凪が弓を握り直した。
「……いるね」
私は頷いた。ここからは、決めたとおりに動く。篠と朝凪がキビを引きつけ、その間に私が稲羽を探す。雲居には、無理のないところから隠れ場所を教えてもらう。
「稲羽を、助けに行こう」




