第13話「愛と好奇心」③
工房を出てから、私たちはしばらく無言で歩いた。
さっきまでなら、篠の「キノコとは相性が悪い」という一言を思い出せば笑えた。けれど、歩けば歩くほど、今度は別の問題が重くのしかかってくる。
人が見つからない。
雲居が候補に挙げてくれた工房は、もうほとんど回ってしまった。街には店も人も多いが、腕の立つ造作師がいる工房となれば、そこら中にあるわけじゃない。
「……今日は、ここまでにしますか?」
篠が遠慮がちに言った。
「そうだなあ……」
背中の空っぽの背負子が、急に重くなった気がした。もちろん、本当に重くなったわけじゃない。
誰か一人くらい、こいつを見て何か言うと思っていた。
使い道を聞くでもいい。変な物を背負っていると笑うでもいい。車輪に気づくだけでもよかった。
けれど、ここまで誰も何も言わなかった。
(まあ、私だって背負子だけで人を決めるつもりはなかったけどさ)
それでも、少しくらい期待していたのは確かだ。
「申し訳ありませんわね。わたくしの知っている範囲では、残っているのは――」
そこまで言って、雲居が足を止めた。
「どうした?」
「いえ……」
雲居の視線の先を追う。
大通りから一本外れた道の先。人通りも少なくなった街外れに、古びた建物が一軒立っていた。
店先に華やかな品は並んでいない。看板も日に焼け、文字が薄くなっている。けれど、軒先に積まれた材木はきちんと種類ごとに分けられ、使い込まれた道具が壁際へ整然と掛けられていた。
「あそこも工房か?」
「ええ。存じてはおりますわ」
「候補には入ってなかったよな」
雲居が少し困ったように眉を下げる。
「腕は確かだと聞いております。ですが、かなり昔からこの場所で仕事をしている方ですの。近頃は大きな注文もほとんど受けず、半ば隠居のようなものだとも」
「じゃあ、他所の工房に来てくれるわけないか」
「ですから最初から候補には入れておりませんでしたわ」
正しい。
今日何度も聞かされた通り、職人には職人の生活がある。まして長年、自分の工房を守ってきた人間ならなおさらだ。
けれど、ここまで来て手ぶらで帰るのも悔しい。
「話だけでもしてみよう」
「霧江さん、まだ行くんですね」
「ここまで来たらな」
篠が小さく笑った。
「では、私もお供します」
「わたくしは最初からそのつもりですわ」
三人で、古い工房へ向かった。
*
戸口をくぐった瞬間、木と油の匂いが鼻に入った。
中は薄暗い。だが、散らかってはいない。壁には大小さまざまな鉋や鑿、鋸が並び、奥には使い込まれた作業台が置かれている。
その周りに、作りかけらしい椅子や箱、棚がいくつかあった。
私は無意識に、その一つへ目を向ける。
(……すごいな)
ぱっと見は地味だ。さっきのキノコの工房みたいに、見栄えのいい品がずらりと並んでいるわけでもない。
なのに、目が止まる。
板の継ぎ目はぴたりと合い、余計な隙間がない。角の処理も必要なところだけが削られている。飾り気は少ないのに、どこを触っても使う人間の手を邪魔しなさそうだった。
長く使うことを前提に作られている。
そんな感じがした。
(只者じゃないな、ここの職人)
そう思ったところで、工房の奥から声が飛んできた。
「……誰だ」
低い。
腹の底に響くような、渋い声だった。
やがて奥の陰から、一人の老人が姿を現す。
歳はかなり上に見える。皺の刻まれた顔に、豊かに蓄えた髭。背筋は少し曲がっているが、腕や肩にはまだ厚みが残っていた。
そして何より、目が鋭い。
何十年も同じ仕事を続けてきた人間が持つ、いかにも頑固そうな顔だった。
「客か」
「いや。仕事の相談があって来た」
老人の眉がわずかに動く。
雲居が一歩前へ出かけたが、私はそれより先に口を開いた。
「私、霧江っていうんだ。これから自分の工房を大きくしたいと思ってる」
老人は何も言わない。
「それで、腕のいい造作師を探してる。もしよかったら、私のところに来て、一緒に工房をやってくれないか」
言い切ってから、我ながらずいぶん図々しい頼みだと思った。
初対面の相手に、自分が長年守ってきた工房を離れてこっちへ来いと言っているようなものだ。
老人はしばらく私を見ていた。
やがて、鼻から短く息を吐く。
「断る」
早い。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
「理由、聞いてもいいか?」
「儂も長年、この工房でやってきた」
老人が作業台へ手を置く。
節くれ立った太い指だった。
「ここの道具も、台も、壁も、全部儂の仕事と一緒に歳を取ってきた。ぽっと出の若造に呼ばれたからといって、はいそうですかと捨てられるほど軽い仕事をしてきた覚えはない」
「……うん」
ぐうの音も出ない。
むしろ、ここまで工房を見れば納得しかなかった。
この場所そのものが、この老人の積み重ねなんだろう。
「職人の仕事を軽く見るな」
「……耳が痛いな」
「お前が何者かも知らん。そんな相手のために、儂がここを離れる理由はない」
「その通りだ」
横で篠が心配そうに私を見る。
でも、今日回った中で一番断られて納得できた。
「悪かった。無理言ったな」
私は頭を下げる。
「行こう、二人とも」
「……はい」
「仕方ありませんわね」
踵を返し、戸口へ向かう。
結局、今日も人は見つからなかった。
まあ、そう簡単にいく話じゃない。明日からまた考えればいい。
そう思って、工房の外へ一歩出ようとしたときだった。
「待て」
背中から声が飛んできた。
振り返る。
老人は私ではなく、その少し下を見ていた。
いや。
私の背中を見ている。
「……その背負子」
心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
「これか?」
肩紐を外し、背負子を下ろす。
老人が手を差し出した。
「見せろ」
私は何も言わずに渡した。
老人は受け取るなり、背負子をひっくり返した。
車輪を指で弾き、回り方を見る。接合部へ顔を近づけ、木材の組み方を確かめる。次に背負子を起こして肩紐の位置を見て、また車輪へ目を戻した。
さっきまでの無愛想さが嘘みたいだった。
目だけが、ぎらぎらしている。
「この輪は何だ」
「荷物を背負わなくても運べるようにした」
「引くのか」
「ああ。道が平らならその方が楽だからな」
老人が車輪をもう一度回す。
「だが、道が荒れていれば使えん」
「だから背負子としても使えるようにしてある」
「……ほう」
その一言の響きが、少し変わった。
老人は今度は背負子を自分の背へ当て、重心を確かめるように身体を揺らした。
「荷を積んだ時、この辺りに重みが寄るな」
「そこは一度作ってから直した。最初はもっと後ろに引っ張られたから」
「作り直したのか」
「使いにくかったからな」
老人が黙る。
そして、ようやく私を見る。
「……お前が作ったのか」
「そうだよ」
少しの間、返事はなかった。
皺の深い顔をじっと見返す。
やがて老人の口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。
「……面白い」
初めて見せた笑みだった。
「そういや、儂も名乗ってなかったな。三笠だ」
「三笠か」
「霧江、と言ったな」
「ああ」
篠が私を見る。
雲居は何も言わない。ただ、口元だけが少し上がっていた。
三笠はもう一度背負子へ視線を落とし、それから言った。
「手を貸してやってもいい」
「……え?」
思わず間の抜けた声が出た。
さっきまで、あれだけきっぱり断っていた老人が。
今度は私たちの方が、言葉を失っていた。




