第12話「売れすぎです」①
それから二日後。
私は家の軒先で、乾かしていた石鹸を眺めていた。
二日前、山猫商会で稲羽が三つ売った。
たった三つと言えばそれまでだが、あれだけ人見知りだった稲羽が、自分から客へ声をかけて売った三つだ。
思い出すと、なんだかこっちまで嬉しくなる。
「今日は追加で何個か持っていけば十分かな」
「ここ二日の様子でしたら、それでよろしいのでは?」
隣で篠が答える。
雲居も朝からやって来て、家の中で帳面を広げていた。石鹸を売り始めてからというもの、売れた数や受取の書付まで、何やら細かく記録しているらしい。
朝凪と夕凪も、今日は朝から遊びに来ている。
夕凪は台所で茶の支度。
朝凪は縁側で弓の手入れをしていた。
二日前の私は、確かにこう思った。
(これなら、しばらくは少しずつ作れば間に合いそうだな)
その考えが、どれほど甘かったのか。
知るまでに、二日もかからなかった。
「き、霧江さんっ!」
外から聞こえた声と同時に、戸が勢いよく開いた。
「うわっ!?」
飛び込んできたのは稲羽だった。
肩で息をしている。
灰色の猫耳はぴんと逆立ち、しっぽは普段の倍くらいに膨らんでいた。
「い、稲羽?」
「た、大変です! 石鹸が……石鹸が……!」
「石鹸がどうした!?」
まさか割れたのか。
それとも盗まれた?
山猫商会で何か問題でも起きたのか。
稲羽は胸元を押さえ、必死に息を整えた。
「な、なくなりました!」
「……盗まれた?」
「違います!」
稲羽のしっぽがぶんっと左右に振れた。
「売れたんですぅ!」
「……え?」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
「昨日追加で置いていた分、ぜ、全部売れました! 朝から石鹸を買いに来る方がいっぱいで……!」
「全部?」
「はいっ!」
稲羽はこくこくと何度も頷く。
耳も立ちっぱなしだ。
パニックになっているはずなのに、しっぽの先だけは隠しきれないくらい嬉しそうに震えている。
「すごいじゃん!」
「そ、それだけじゃないんです!」
「まだあるの?」
稲羽は抱えていた包みから、折り畳まれた紙を何枚も取り出した。
「お店の方たちからも、注文したいってお話が入って……」
「店?」
「お魚を扱うお店とか、お料理屋さんとか、お宿とか……。十個欲しいとか、二十個欲しいとか……それで、更級さまが、いったん数だけ取りまとめてくださって……」
嫌な予感がした。
「……何個?」
稲羽の耳が、ほんの少しだけ伏せた。
「ぜ、全部合わせると……」
ごくり、と唾を飲む。
「二百三十七個です」
「…………」
篠も黙った。
朝凪の弓を拭く手が止まった。
夕凪は湯呑みを持ったまま固まっている。
「……もう一回」
「二百三十七個です」
「増えてない?」
「増えてません!」
目ん玉が飛び出るとは、たぶんこういう時に使う言葉なのだろう。
私はゆっくりと家の中へ顔を向けた。
「雲居」
返事がない。
「雲居?」
帳面の前に座ったまま、雲居が完全に停止していた。
目は開いている。
ただし、きれいに白目を剥いていた。
普段の澄ました顔との落差がひどい。
「おーい」
肩をつつく。
そのまま雲居が、すうっと横へ倒れた。
「雲居ぃ!?」
「雲居さん!?」
篠と一緒に慌てて支える。
しばらくして。
雲居は座り直し、何事もなかったかのように髪を整えた。
「……失礼。少々、計算が追いつきませんでしたわ」
「失神してたけど」
「しておりませんわ」
「倒れたよ?」
「しておりません」
二度言った。
たぶん、本人の中ではそういうことになったらしい。
「それで、どうして急にそんなことになったの?」
私が尋ねると、稲羽は注文の紙を抱え直した。
「最初に石鹸を買ってくださったお魚屋さんが、お店の方や知り合いの方に話してくださったみたいで……」
「ああ、あの人か」
「それと、別の方からも『狩人の旦那さんが奥さんに買って帰って、すごく良かったって聞いた』って……」
私は篠と顔を見合わせた。
「それ、暁じゃない?」
「たぶん、そうですね」
少し前に、暁が妻への土産に石鹸を買っていった。
どうやら、あちらからも評判が広がっていたらしい。
魚屋の女から広がった話と、暁の妻から広がった話。
別々だった二つの口コミが、山猫商会で合流した。
そして、今。
二百三十七個。
「更級はなんて?」
「『作れるかどうか、まず霧江に聞いてきな』って……。わ、私が勝手に注文を受けたわけじゃありません!」
稲羽が慌てて両手を振る。
「分かってるよ」
私は笑った。
責める気なんて最初からない。
むしろ、二日前には三つ売れたことをあんなに喜んでいた稲羽が、今日はこんな注文希望の束を抱えている。
申し訳なさそうな顔をしているくせに、しっぽからはさっきから嬉しさが伝わってくる。
「……嬉しい?」
「えっ」
「石鹸、いっぱい売れて」
稲羽は目を泳がせた。
耳まで少し赤くなった気がする。
「……はい」
小さく答えた。
「すごく、嬉しいです」
それを聞いたら、断るなんて言えなかった。
そもそも私だって嬉しい。
前世の知識を使って、自分たちが欲しいから作った石鹸。
それを、こんなに大勢が欲しがってくれている。
「作ろう」
私が言うと、篠がこちらを見る。
「二百三十七個ですよ?」
「分かってる」
雲居も眉間を押さえた。
「霧江。嬉しいのは分かりますけれど、安請け合いは――」
「でも、欲しいって言ってくれてるのに、『ありません』で終わらせたら駄目なんだろ?」
雲居が黙る。
「……ええ」
今度は真面目な顔になった。
「……ええ。ここで応えられなければ、せっかく築きかけている信用を失いますわ。逆に、ここできっちり要望に応えると、大きな信用と実績を得ることになります」
「じゃあ決まり」
「簡単に言いますわね……」
「作るのは私だし」
「だから心配していますの!」
怒られた。
ともかく、まずは材料だ。
私は家に残っている石鹸と、材料を確認する。
灰汁。
これは手間はかかるが、薪と灰があれば増やせる。
問題は――。
「……脂」
篠が覗き込む。
「足りませんか?」
私は残っている獣脂を見た。
二百三十七個。
改めて数字を思い浮かべる。
「足りない」
「どれくらい?」
「全然」
さっきまで嬉しそうに立っていた稲羽のしっぽが、ぽきりと折れた。




