第11話「売れなくていい」②
「何か用かい?」
魚屋の女が、足を止めたまま首を傾げる。
稲羽は石鹸を両手で持ったまま、しばらく口を開けなかった。
耳は後ろへ伏せたまま。さっき少しだけ外へ出ていたしっぽも、また脚へ巻きつきかけている。
それでも、逃げない。
「ま、前に……お話しされていましたよね」
「前に?」
「お魚を捌いたあと、何度洗っても……手に匂いと脂が残るって」
女が目を丸くした。
「……ああ。そんなこと言ったねえ」
それから、少し感心したように稲羽を見る。
「よく覚えてたね」
「お、お話しされていたので……」
稲羽の声はまだ小さい。
けれど、さっきまで客に石鹸を説明していた時とは少し違った。何を言えばいいのか分からなくなっているわけではない。
稲羽は手の中の石鹸を見下ろした。
「これ……もしかしたら、お役に立つかもしれません」
「それが?」
「はい。石鹸といって……水で濡らして手を洗うものです。泡が出て、油汚れも落ちやすくて……」
途中で一度言葉に詰まりながらも、今度は止まらなかった。
女は石鹸を覗き込む。
「へえ。昨日まで見なかったね」
「き、昨日から置いています」
「試してもいいのかい?」
「は、はいっ」
その返事だけは勢いがよかった。
稲羽は慌てて売り台の横の桶を寄せ、石鹸を女へ渡した。
「今朝も魚を捌いてきたところなんだ。ちょうどいいね」
女が笑いながら片手を水で濡らす。
石鹸を手のひらで転がすと、白い泡が立った。
「おお」
指の間まで洗って水ですすぐ。
女は濡れた手を鼻先へ近づけ、それから指先を擦り合わせた。
「……なるほど。ぬるつきがほとんど残らないね。匂いもだいぶ薄い」
稲羽の耳が、ぴくっと起きた。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。これ、一つもらおうか」
「…………え?」
「だから、一つ買うよ」
稲羽が固まった。
伏せていた耳がゆっくりと立ち上がる。脚へ巻きついていたしっぽも、するりとほどけた。
「う、売れ……」
小さく呟いて、自分の手の中の石鹸を見る。
「売れました……」
次の瞬間、しっぽがふわっと持ち上がった。
「やったな、稲羽!」
嬉しくなって、私は思わず稲羽へ抱きついた。
「ひゃあっ!?」
耳としっぽが、同時にピーンと伸びた。
しっぽなんて、棒でも入っているみたいに真っ直ぐだ。
「すごいじゃん! ちゃんと売れた!」
「き、霧江さん、ち、近いです……!」
「あ、ごめん」
慌てて離れる。
稲羽の顔は真っ赤だった。耳もまだ立ちっぱなしで、しっぽの先だけが細かく震えている。
私が離れると、稲羽は胸元を押さえた。それでも、しっぽだけはすぐには元に戻らなかった。
(……かわいいな)
つい眺めていると、横から雲居の冷たい視線が刺さった。
「初めて売れた喜びは分かりますけれど、抱きつく必要はございましたの?」
「勢いで」
「あなたは本当に……」
呆れられた。
一方、魚屋の女はそんな私たちを見て笑っている。
「随分と賑やかだねえ」
「す、すみません……」
「なんで稲羽が謝るの?」
「だって……」
女は代金を稲羽へ渡し、石鹸を包みにしまった。
「使ってみて良かったら、店の連中にも教えておくよ。魚を触るのはあたしだけじゃないからね」
「あ、ありがとうございます!」
今度の返事は、さっきより少しだけ大きかった。
女が帰っていく。
稲羽はその背中を見送りながら、しばらく胸の前で代金を握っていた。
そのしっぽが、左右へ小さく揺れている。
「……売れました」
「うん」
「私にも、売れました……」
噛みしめるような声だった。
私は笑って頷く。
「だから言っただろ。売ろうとしなくてもいいんだよ」
「……はい」
稲羽も、小さく笑った。
それから少しして。
今度は、作業着姿の男が店へ入ってきた。
その姿を見た途端、稲羽の耳がぴくりと動く。
「あの方……車輪の修理をされている方です」
「また知ってるの?」
「前に油を買われた時、手につくと何度洗ってもぬるぬるするって……」
稲羽はそこまで言って、自分の手元の石鹸を見る。
そして、私を見る。
私は何も言わず、笑ってみせた。
稲羽は一度だけ深く息を吸った。
耳は少し伏せた。
けれど、しっぽはもう足の間へは逃げなかった。
「あ、あの……!」
男が振り返る。
稲羽はまた石鹸を一つ手に取った。
今度は、さっきより少しだけ早く言葉が出た。
*
日が傾く頃には、台の上の石鹸が三つ減っていた。
知らない客に声をかけるのは、まだ無理らしい。誰にでも上手く説明できるようになったわけでもない。
それでも、自分が覚えている相手なら。
その人が何に困っていたのかを思い出せるなら。
稲羽は、ちゃんと一歩を踏み出せる。
(この子、物を売るのが上手いんじゃないんだ)
台の向こうで、稲羽が次の客をじっと見ている。
(その人が何に困ってるのかを、ずっと覚えてるんだ)
それが、稲羽の得意なことなのだろう。
雲居を見ると、こちらに気づいた彼女が、わずかに口元を上げた。
どうやら雲居は、稲羽にこういう強みがあることだけは、私よりずっと前から知っていたらしい。
稲羽は売り台の前で、残った石鹸を一つずつ並べ直している。
その横顔は、朝よりずっと明るい。
しっぽも、もう足の間には隠れていなかった。ゆるく左右へ揺れている。
「三つ、か」
私が売り台を見ると、稲羽がすぐに振り返った。
「三つも、です」
「ああ。三つも、だな」
朝は一つも売れず、この世の終わりみたいな顔をしていたのだ。
それを考えれば、大きな三つだ。
稲羽は嬉しそうに耳を立てた。
「私……ちゃんと売れたんですね」
「売れた売れた。しかも二つ目からは、ほとんど自分でやってたじゃん」
「ほ、ほとんど……ですけど」
まだ自信満々とはいかないらしい。
それでも、声には少しだけ力があった。
私は隣に立つ雲居を見る。
「なあ、雲居」
「なんですの?」
「だから稲羽を選んだの?」
雲居の眉がわずかに上がった。
「だから、とは?」
「客のこと、すごくよく覚えてるだろ。この人なら石鹸が役に立つって分かるくらい」
雲居は一度、稲羽へ目を向けた。
「あの子が人のことをよく見ているのは、以前から知っていましたわ」
「やっぱり」
「一度来た客の顔。何を買ったか。どんな品を気に入ったか。何を嫌がったか。何に困っていたか――驚くほどよく覚えていますの」
雲居は肩をすくめた。
「本人は、それが特別なことだとは思っていないようですけれど」
少し離れたところで聞いていた稲羽の耳が、ぴくりと動いた。
「でもさ」
私は首を傾げる。
「それなら、最初から『困ってる人に勧めればいい』って教えてやればよかったんじゃない?」
雲居が黙った。
「……そこまでは思いつきませんでしたわ」
「え」
素直に認めたので、逆に驚いた。
雲居は少し不満そうに私を見る。
「わたくしも、あの子の記憶力は商いに向いていると思っていましたわ。客の好みや困り事を覚えていれば、次に何を勧めればいいか分かりますもの」
「じゃあ、やっぱり分かってたんじゃん」
「ですが――」
雲居は私を見る。
「あの人見知りをどうやって最初の一歩まで連れていくか。それは分かりませんでしたわ」
「ああ」
「まさか『売らなくていい』などと言い出す方がいるとは思いませんもの」
「だって、売るのが苦手なんだから仕方ないだろ」
私は売り台へ視線を戻した。
「苦手なやり方を無理に続けるより、できるやり方でやればいいじゃん」
前世でも、子供たち相手に何度もそうしてきた。
同じことができないからといって、同じやり方にこだわる必要はない。
その子に合ったやり方を探せばいい。
私にとっては、それだけの話だった。
「……本当に、変なところで人を見ていますわね」
「変なところってなんだよ」
「褒めておりますのよ」
絶対、半分くらい呆れている。
「あ、あの……」
振り返ると、稲羽がこちらを見ていた。
両手を胸の前で重ね、少し緊張したように指を握っている。
けれど、耳は伏せていない。
「霧江さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
稲羽が小さく頭を下げる。
「私……知らない人に何かを売るって考えると、どうしても怖くなってしまって」
「うん」
「でも、今日みたいに……この人には役に立つかもしれないって思えたら、少しだけ声をかけられました」
稲羽は顔を上げた。
「まだ、すごく怖いですけど……」
「それでいいんじゃない?」
「……はい」
稲羽が笑う。
その瞬間、しっぽが嬉しそうに一度だけ大きく揺れた。
「明日もやってみます」
「おう。その調子」
つい、稲羽の頭を撫でてしまった。
「ひゃっ……」
稲羽は少しだけ肩を跳ねさせ、頬を赤くした。
けれど、今度は逃げなかった。
(少しは慣れてくれたのかな)
しばらくして、私たちは残った石鹸を確認した。
今日売れたのは三つ。
売り台にはまだいくつも残っているし、家にも乾かしている分がある。
「今日くらいの調子なら、急いで作らなくても大丈夫そうだな」
「まずは様子を見ながらでよろしいでしょうね」
雲居も頷く。
私は残った石鹸を見ながら、すっかり安心していた。
「これなら、しばらくは少しずつ作れば間に合いそうだな」
――などと、この時の私は、呑気に考えていた。




