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第11話「売れなくていい」①

 翌日、私はまた山猫商会に来ていた。


「気になりますの?」


 隣を歩く雲居が、呆れたようにこちらを見る。


「そりゃ気になるだろ。昨日、私の石鹸を売るって決まったんだぞ」

「だからといって、朝から様子を見に来る必要はないと思いますけれど」

「雲居だって来てるじゃん」

「わたくしは、商談をまとめた者として確認に来ただけですわ」


 言っていることは似たようなものだと思う。


 昨日より少し早い時間だというのに、山猫商会の中はすでに客で賑わっていた。荷を運ぶ者、棚の商品を眺める者、帳場で値段を尋ねる者。猫耳としっぽがその間を忙しなく行き交っている。


 その一角に、見覚えのある灰色の猫耳を見つけた。


「あ、いた」


 稲羽だった。

 小さな台の上には、昨日持ち込んだ石鹸がいくつか並べられている。横には実演用らしい桶と手拭い。準備だけ見れば、ちゃんと売り場らしくなっていた。


 ただし、売り手の方はまるで準備ができていない。

 稲羽の耳はぺたりと伏せられ、しっぽは両脚の間へすっかり入り込んでいた。


(……昨日より縮こまってないか?)


 私たちに気づいた稲羽の耳が、一瞬だけぴくりと起きる。


「き、霧江さん。雲居さん……」

「おはよう、稲羽。どう?」

「ど、どう、と言われましても……」


 視線が石鹸へ落ちる。

 並んでいる数は、昨日渡した時からほとんど減っていないように見えた。


「……まだ、一つも売れてません」


 耳がまたしゅんと伏せる。しっぽもさらに奥へ入り込んだ。


「まだ始まったばかりですわ」


 雲居はさほど気にした様子もない。


「昨日、更級さまもおっしゃっていたでしょう。初めて見る品なのですから、最初から皆が手を伸ばすわけではありませんわ」

「で、でも……さっきも、お客さんが見てくださったのに……」


 その時だった。

 通りかかった中年の男が、台の上の石鹸へ目を留めた。


「なんだい、これは」


 稲羽の体がびくっと跳ねた。

 伏せていた耳がさらに後ろへ倒れ、両脚の間に入っていたしっぽの先が、かすかに震える。


「あ、あの……こ、これは……」


 男が石鹸を一つ持ち上げる。


「食い物じゃなさそうだな」

「は、はい。せ、石鹸といって……その……み、水で……」

「水で?」

「ぬ、濡らして……こすって……あ、泡が……」


 声がどんどん小さくなっていく。


 男は石鹸と稲羽を交互に見た。


「で、何がいいんだ?」

「えっ」

「何に使うんだい」

「て、手とか……体を、きれいに……」

「ふうん」


 男はしばらく石鹸を眺めていたが、やがて元の場所へ戻した。


「まあ、また今度な」


 そのまま別の棚へ歩いていく。


「…………はい」


(これはきついな……)


 横から何か言ってやりたくなったが、雲居に袖を引かれた。


「霧江」

「でも」

「もう少し見ていなさいな」


 小声で止められる。

 納得はしていないが、ここで私が代わりに説明してしまったら、稲羽が売ることになった意味がなくなる。私は口を閉じた。


 それからも、何人かが石鹸に目を留めた。

 けれど結果は似たようなものだった。


 客が近づくたび、稲羽の耳は伏せる。しっぽは足の間へ逃げる。声をかけようとして口を開いても、相手と目が合った瞬間には喉の奥へ引っ込んでしまう。

 向こうから尋ねてくれる客がいても、説明は途中でしどろもどろになる。


 一度など、


「い、いらっしゃ……い、いらっしゃい、ませ……」


 と絞り出したところで、客はもう隣の棚を見ていた。


「……やっぱり、私には無理なんでしょうか」


 しばらくして、稲羽がぽつりとこぼした。


 雲居はすぐには答えず、黙って稲羽を見つめていた。


 私も何と言えばいいか分からず、店の中へ目を向ける。


 その時、入り口から買い物籠を下げた女が入ってきた。


 稲羽の耳が、ぴくりと動いた。


「あ……」


 さっきまで足の間に隠れていたしっぽの先が、ほんの少しだけ顔を出す。


「知ってる人?」

「は、はい。前に何度か来てくださって……」


 稲羽は女を目で追った。


「あ……あの方、魚屋さんです」

「魚屋?」

「はい。前に手拭いを買われた時、魚を捌いたあと、何度洗っても匂いと脂が残るって……」


 私は稲羽を見る。


「そんなことまで覚えてるの?」

「え?」


 今度は稲羽の耳が、不思議そうに左右へ向いた。


「お話しされていたので……」


 まるで、それが当たり前のことだと言わんばかりだった。


 女はそのまま別の商品を見ながら、店の奥へ歩いていく。


 稲羽の目は、まだその背中を追っていた。


 私は昨日のことを思い出す。

 雲居が以前買った札紙の厚さ。指に引っかかると言っていたこと。稲羽は、それも覚えていた。


(……もしかして、この子)


 石鹸を売ることばかり考えていたせいで、見落としていたのかもしれない。


 私はもう一度、女を見た。

 それから、隣で不安そうに耳を伏せている稲羽を見る。


 どうやら稲羽には、喋るのが苦手な代わりに――別の得意なことがあるらしい。


 さっき聞いた話を思い返す。雲居の札紙のことも、魚屋の女のことも、稲羽は当たり前のように覚えていた。


「稲羽、ちょっと聞いていい?」


 呼びかけると、伏せていた猫耳がぴくりとこちらを向いた。


「は、はい」

「石鹸を売ろうとすると、怖い?」

「……はい」


 返事は小さかった。

 稲羽は胸の前で指を組み、視線を落とす。


「知らない方に声をかけると、何を言えばいいのか分からなくなって……。ちゃんと説明しなきゃって思うほど、頭が真っ白になってしまって……」


 しっぽの先が、足元で頼りなく揺れた。

 なるほど。


 それなら――


「じゃあ、売らなくていいんじゃない?」

「……え?」


 稲羽の耳が左右ばらばらの方向を向いた。

 隣では、雲居までわずかに眉を上げている。


「霧江。あなた、何を言っていますの?」

「いや、別に石鹸を片づけろって意味じゃないよ」


 私はさっきの魚屋の女へ目を向けた。まだ店の奥で品物を見ている。


「稲羽は、あの人が困ってることを覚えてるんだろ?」

「は、はい」

「だったらさ。石鹸を売ろうとしないで、『これ、役に立つかもしれませんよ』って教えてあげればいいんじゃない?」


 稲羽が目を瞬いた。


「教える……だけ、ですか?」

「うん。買うかどうかは、その人が決めることだし」


 口にしてから、前世の教室を少しだけ思い出した。

 できないやり方を何度繰り返させても、できるようになるとは限らない。苦手なら、別のやり方を探せばいい。


 前世でも、子供たち相手に何度もそうしてきた。


「でも……それで、売れるでしょうか」

「分からない」

「えっ」

「私、商売のこと全然分からないし」


 正直に言うと、稲羽の耳がまた変な方向を向いた。


「そこは自信満々に言うところではありませんわよ」


 雲居が呆れたようにため息をつく。


「でも、今みたいに無理して売ろうとするよりは、話しかけやすくない?」


 稲羽はすぐには答えなかった。

 けれど、足の間に隠れていたしっぽが、ほんの少しだけ外へ出る。


「……それなら」


 稲羽は店の奥を見た。


「あの方にだったら……話せる、かもしれません」

「じゃあ、それでいいじゃん」


 私が笑うと、稲羽もほんの少しだけ口元を緩めた。

 その横で、雲居が何やら考えるように私を見ている。


「何?」

「……いいえ」


 雲居は小さく首を振った。


「あなた、商いのことはからきしですのに、妙なところで人の扱いがお上手ですわね」

「褒めてる?」

「半分ほどは」

「半分かあ」


 そんな話をしている間にも、魚屋の女が買い物を終えたらしい。籠を提げ、こちらの売り場の前を通って出口へ向かってくる。


 稲羽の耳がぴんと立った。

 けれど、女が近づくにつれて少しずつ後ろへ倒れていく。しっぽもまた脚へ巻きつこうとしていた。


 私は何も言わず、稲羽を見る。

 ここで私が声をかけたら意味がない。


 稲羽は一度、ぎゅっと唇を結んだ。

 それから石鹸を一つ手に取る。


 女が売り場の前を通り過ぎようとした。


「あ、あの……!」


 声が出た。

 女が足を止めて振り返る。


「ん? どうしたんだい、稲羽」


 名前を呼ばれ、稲羽の耳が一度だけ震えた。


 それでも今度は、逃げなかった。

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