第10話「山猫商会」④
商談が終わると、私たちは山猫商会を出た。
持ってきた石鹸は、取り決めた分だけ商会へ渡してある。代金は後払いで、代わりに数と値を書いた受取の書付をもらった。
あとは稲羽がどう売るのか――そこは向こうに任せることになった。
店を出て少し歩いたところで、隣の雲居が大きく息を吐いた。
「まったく、食えない方ですわね」
「何が?」
思わず聞き返す。
私には、途中から何がどうなっているのか半分も分からなかった。
条件が決まったことだけは分かったが、それ以上はさっぱりだ。
「更級さまですわ」
雲居は振り返りもせず、山猫商会の建物を親指で示した。
「商品価値もこちらの手札も、全て見抜かれた上での商談でしたわ」
「そうなの?」
「そうなの、ではありませんわ」
雲居の眉がぴくりと動く。
「こちらがどこまで譲れるのか。何を守りたいのか。霧江がどこまで話してしまいそうなのか。全部見ながら条件を出していましたもの」
「私まで?」
「むしろ、あなたが一番分かりやすかったですわ」
「ひどい」
否定できないのが悔しい。
雲居は腕を組んだ。
「条件そのものは悪くありませんわ。初めて持ち込んだ品としては、十分です。こちらが通すべきところも通しましたもの」
そこで一度言葉を切り、悔しそうに唇を尖らせる。
「ですが……あの方、最初から石鹸が売れると踏んでいたのでしょうね」
「へえ」
「へえ、ではありません!」
また怒られた。
「売れると分かっていながら、初めて見る品だの、売れなければ丸損だの。こちらから少しでも良い条件を引き出そうとしていましたのよ」
「商売人だなあ」
「感心している場合ではございませんわ!」
そう言われても、私には真似できそうにない。
あれだけ雲居がぽんぽん言い返していたのに、それでも更級の方が上だったというのだから、すごい人なのだろう。
「雲居にそこまで言わせるなんて、更級はすごい人なんだな」
「……ええ。それは認めますわ」
雲居は少し不満そうだった。
私は横顔を見ながら、さっきの商談を思い返す。
更級が何を言っているのか分からなくなった時も、雲居だけは一度も黙らなかった。条件を出されればすぐに返し、私が余計なことを言いそうになれば止めてくれた。
少なくとも、私一人だったら。
たぶん最初の「預かりでどうだい」の時点で、「いいよ」と答えていた気がする。
「でも、雲居もすごかったよ」
「……はい?」
「私じゃ絶対できなかった。雲居に任せてよかった」
雲居が足を止めた。
私も二歩ほど進んでから、それに気づいて振り返る。
「どうした?」
雲居は少しだけ顔をそらした。
頬が、ほんのり赤い。
それから、なぜか私をじろりとにらむ。
「……悪い人ですわね」
「何がだ?」
「何でもありませんわ」
雲居はそう言って、私を追い越すように歩き出した。
「これからも頼むよ」
「仕方ありませんわね。あなたを放っておけば、また値打ちのある物を軒先に並べて終わりにしそうですもの」
「そこまでしないよ」
「石鹸を並べていた方が何をおっしゃいますの」
「……はい」
何も言い返せなかった。
雲居が小さく笑う。
ひとまず、石鹸を売る道筋はできた。
あとは、あの人見知りの稲羽が本当に売れるのかどうか。
正直、まったく想像できなかった。
*
霧江と雲居が帰り、稲羽も石鹸を抱えて部屋を出た。
残ったのは、更級と磐境だけだった。
先ほどまで賑やかだった部屋が、急に静かになる。
更級は卓に肘をつき、閉じた戸を眺めていた。
「珍しかったな」
斜め後ろから、磐境がぽつりと言った。
「何がだい?」
「稲羽だ」
更級の片方の耳が、ぴくりと動く。
「……何のことやら」
「俺には通じん」
短く返され、更級は鼻で笑った。
「長い付き合いってのは、面倒だねえ」
「否定はしない」
磐境はいつもの無表情のままだ。
更級は少しだけ黙り、それから肩をすくめた。
「まさか、あそこで稲羽を名指しするとは思わなかったよ」
「読めなかったか」
「そこだけはね」
あっさりと認める。
磐境はそれ以上追及しなかった。
「断ることもできた」
「できたさ」
更級の口元が持ち上がる。
「でも、あの雲居が何を見て稲羽を選んだのか。確かめてみたくなった」
磐境がわずかに目を細めた。
「お前も、稲羽を買っている」
「さてねえ」
また同じ返事だった。
更級は背もたれに身を預け、楽しそうに息を吐く。
「それにしても、面白いものを持ち込んできたねえ」
「石鹸か」
「それもある」
更級の視線が、霧江たちの出ていった戸へ向く。
「あの造作師も、その隣にいる巫女もさ」
磐境は答えなかった。
ただ、更級の斜め後ろで静かに立ったまま、同じ戸を見つめていた。
商談は終わった。
けれど、山猫商会にとっては――どうやら、ここからが始まりらしかった。




