第7話「くさいです」④
「…………」
何かが喉元まで出かかっている。
身体はきれいになった。
臭いも落ちた。
温かい湯も使った。
なのに、どうしてこんなに物足りないんだ。
私は濡れた髪を拭きながら、昨日から重い肩をぐるりと回した。
「痛いんですか?」
篠が心配そうに覗き込む。
「いや。昨日の疲れが残ってるだけ」
「飛竜相手でしたからね」
「うん。こういう時、前なら……」
言いながら、ふと浮かんだ。
仕事から帰って、肩も腰も重い夜。
DIYで一日中動き回って、汗だくになった日。
身体を洗って。
そのあと。
熱い湯に、肩まで沈む。
「…………あ」
「霧江さん?」
頭の中で、最後の一片がはまった。
「風呂だ!」
「ひゃっ」
夕凪が肩を跳ねさせた。
篠も目を丸くしている。
朝凪だけはいつもの顔だったが、少しだけ首を傾げた。
「ふろ?」
「そう。風呂!」
何で今まで気づかなかったんだ。
石鹸があるだけじゃ足りない。
身体を洗ったあと、たっぷりの湯に浸かる。
あれがいる。
「大きな桶みたいなものに湯を張るんだ。人が入れるくらいの大きさで」
「中に入るんですか?」
夕凪が聞く。
「入る。肩までどっぷり」
「身体を洗うために?」
「洗うだけじゃない」
私は両手を広げた。
「温まるんだよ。こう、熱い湯に肩まで浸かって、ふうーって」
思い出しただけで入りたくなってくる。
「疲れた日に入ると最高なんだ。肩も腰も温まるし、寒い日なんてもう出たくなくなる」
「そんなにですか?」
篠がまだ半信半疑の顔をしている。
「そんなにだ」
断言する。
風呂のない生活に慣れつつあった自分が恐ろしい。
桶の湯で身体を拭いて満足していたなんて。
前世の私が見たら泣くぞ。
「夕凪も入れる?」
朝凪が聞いた。
「もちろん」
「作って」
「早いな!」
「夕凪が温まるなら必要」
「お姉ちゃん、自分も入りたいんじゃないの?」
「…………」
朝凪が黙る。
「入りたいんだ」
「夕凪と一緒なら」
「結局そこなんだ……」
夕凪が呆れたように息を吐いた。
でも、口元は少し笑っている。
*
「よし。作るなら――」
私は勢いのまま作業場を見回した。
木ならある。
板も加工できる。
人が入れる大きな浴槽そのものは、たぶんどうにかなる。
問題は、その先だ。
「……いや、待て」
「どうしたんですか?」
「風呂って、浴槽だけ作れば終わりじゃない」
浴槽そのものなら、木を加工すればどうにかなりそうだ。
でも、水はどうする。
どうやって大量の湯を沸かす。
使った湯はどこへ流す。
そもそも、この狭い家のどこに置く。
「……思ったより大仕事だな」
「湯をいっぱい沸かすんですよね?」
夕凪が言う。
「そう。それも毎回」
「大変そうです」
「だよなあ」
さすが家のことをやっているだけあって、夕凪はすぐ現実的なところへ気づく。
「それに、使った湯も捨てないと」
「こんなところに流したら、作業場が水浸しになりますね」
篠が足元を見る。
「そう。排水もいる」
「それなら、置く場所もちゃんと決めた方がいいですね」
夕凪が家と作業場を見比べる。
「……それもだ」
私は改めて家の周りを見る。
作業場がある。
材料置き場がある。
篠と二人で暮らす分には何とかなっているけれど、決して広い家じゃない。
人が入れる大きな浴槽を、適当に置けるほど余裕はなかった。
石鹸みたいに、その場で材料を混ぜれば完成、とはいかなさそうだ。
「霧江さん、楽しそうですね」
篠が言った。
「え?」
「さっきからずっと笑ってます」
言われて頬へ手を当てる。
確かに口元が緩んでいた。
「……まあ、こういうの好きだからな」
困り事があって。
どうすれば便利になるか考えて。
形にする。
前世でDIYをしていた時と同じだ。
むしろ刀や弓より、こっちの方が私には馴染み深いのかもしれない。
「今すぐは無理だな」
「作らないんですか?」
夕凪が少し残念そうな顔をする。
「作らないとは言ってない」
私は人差し指を立てた。
「ちゃんと考えてから作る。せっかくなら、毎日使えるやつがいい」
「毎日……」
朝凪が反応した。
「絶対、作って」
「圧が強い!」
「毎日、夕凪が温まれる」
「私を理由にしないでよ!」
姉妹のやり取りに、篠がくすくす笑う。
私もつられて笑った。
昨日、三人で飛竜と戦っていたとは思えないくらい平和な時間だった。
*
夕方。
朝凪と夕凪が帰る支度を始めた。
夕凪は、持ち帰る石鹸を大事そうに布で包んでいる。
「本当にいただいていいんですか?」
「いいよ。まだあるし、また作れるから」
「ありがとうございます。今日、洗濯でも使ってみます」
「感想、今度教えてくれ」
「はい!」
夕凪が嬉しそうに頷いた。
その横で、朝凪が石鹸の包みを見る。
「夕凪」
「何?」
「私の分もある?」
「同じ家なんだから一緒に使えばいいでしょ」
「そっか」
「お姉ちゃん、たまに変なところで頭回らないよね」
「夕凪がいるから大丈夫」
「それ、便利な言葉みたいに使わないで」
朝凪がまた黙った。
どうやら姉妹の力関係も、だいぶ分かってきた気がする。
「じゃあ、また」
「うん」
「霧江さん、篠さん。また来ますね!」
「ああ。またな」
「お気をつけて」
篠と一緒に二人を見送る。
小さくなっていく背中を眺めていると、篠が隣でぽつりと言った。
「昨日は三人で飛竜を狩って、今日は四人で石鹸を作ったんですね」
「すごい落差だな」
「私は、今日みたいなのも好きです」
「私も」
即答した。
狩りも必要だ。
魔獣の素材がなければ作れない物も多い。
でも、造作師が作るのは武器や防具だけじゃない。
暮らしの中に不便があれば、それを少し便利にする物だって作れる。
石鹸一つで、夕凪はあんなに喜んだ。
篠も朝凪も、すっかり気に入ってくれた。
(こういうクラフトも、もっとやってみたいな)
この世界に来てから、作りたいものがどんどん増えている。
金剛。
朝凪の弓。
絡み罠。
そして、石鹸。
どれも始まりは、目の前の誰かが困っていたからだった。
「霧江さん?」
「ん?」
「また笑ってます」
「いいだろ、別に」
「はい。楽しそうなので」
篠も笑う。
私は家へ戻りながら、もう一度肩を回した。
さっきよりは少しましだ。
石鹸のおかげで身体もさっぱりした。
でも。
やっぱり、湯に浸かりたい。
「よし」
「今度は何ですか?」
「決めた」
私は自分の家を見上げた。
「いつか、ちゃんとした風呂を作る」
「さっきからずっと、その話してません?」
「宣言は大事なんだよ」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
篠は少し考えてから、楽しそうに頷いた。
「では、私も楽しみにしています」
「任せろ」
今すぐじゃなくていい。
どう作るかも、どこに作るかも、まだ決まっていない。
それでも。
新しく欲しいものが、一つ増えた。
いつになるかは分からない。
それでも、いつか絶対に――風呂を作る。




