第7話「くさいです」③
「次は実際に使ってみよう」
そう言って石鹸を持ち上げると、夕凪が真っ先に手を挙げた。
「私、使ってみたいです!」
「夕凪はくさくない」
朝凪がすぐに言う。
「そういう問題じゃないでしょ。どんな感じなのか気になるの」
「なら私が先に使う」
「なんでお姉ちゃんが張り合うの」
「張り合ってない」
どう見ても張り合っている。
篠が苦笑しながら桶へ水を汲んだ。
「では、まず手を洗ってみませんか? いきなり身体に使うより、その方が分かりやすいです」
「それがいいな」
私は完成した石鹸を朝凪へ渡した。
「ほら」
「どうするの?」
「手を濡らして、これをこすればいい」
朝凪は言われた通り手を濡らし、石鹸を両手の間で転がした。
すぐに白い泡が広がる。
「……増えた」
「泡な」
「不思議」
普段ほとんど表情を変えない朝凪が、泡だらけになった自分の手をじっと見ている。
その横から夕凪まで覗き込んだ。
「お姉ちゃん、ちゃんと指の間も洗って」
「分かってる」
「爪のところも」
「分かってる」
「手首も」
「……夕凪、お母さんみたい」
「お姉ちゃんが子どもみたいだからでしょ」
「…………」
また朝凪に一撃入った。
水ですすぐ。
朝凪は濡れた手を何度か眺め、それから鼻へ近づけた。
「……臭わない」
「手だけならな」
「でも、昨日の脂っぽい感じもない」
篠も興味深そうに手を伸ばす。
「私も使ってみてもいいですか?」
「もちろん」
篠、夕凪と順番に試していく。
反応はだいたい同じだった。
「すごいです。灰汁だけで洗った時より、ずっとさっぱりします」
夕凪が何度も自分の手を確かめる。
「それに、脂が落ちるのが早いです。これなら洗い物にも使えそう」
「そこに気づくのか」
「だって毎日のことですから。お皿とか鍋とか、脂がつくと落とすの大変なんですよ」
「服にも使えそうですね」
篠が言う。
「さっきの布もきれいになりましたし」
「洗濯にも欲しいです!」
「夕凪が欲しいなら、持って帰る」
朝凪が即答した。
「だから、なんでお姉ちゃんが決めるの」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……霧江さんが作ったものだから」
「まだ何個かあるし、一つくらい持ってっていいぞ」
「ありがとうございます!」
夕凪が嬉しそうに笑った。
たかが石鹸一つで、ここまで喜ばれるとは思っていなかった。
私にとっては前世で当たり前に使っていた日用品だ。
けれど、この世界では違う。
汚れがよく落ちる。脂も落ちる。臭いも減る。
それだけで、毎日の暮らしはずいぶん楽になるらしい。
(生活用品を作るのも、思ったより面白いな)
*
手だけで効果が分かったなら、次は本命だ。
「問題は、昨日の臭いが本当に取れるかだな」
「取る」
朝凪が妙に真剣な顔で言った。
「絶対に」
「そんな決意を込めるところか?」
「夕凪にくさいって言われた」
「まだ引きずってる……」
「引きずってない」
「ものすごく引きずってますよ、朝凪さん」
篠にまで指摘され、朝凪が黙る。
今の暮らしでは、身体を洗う時は桶に汲んだ水や湯を使う。
暑い時期なら水を浴びることもあるし、寒ければ布を濡らして身体を拭く。
今日は少し肌寒いので、かまどで湯を沸かして使うことにした。
さすがに作業場の真ん中で服を脱ぐわけにもいかない。
家の裏手へ衝立を立て、順番に石鹸を試す。
「じゃあ、私から」
朝凪が石鹸と桶を抱えて、さっさと衝立の向こうへ消えていった。
「本当に気にしてたんだな……」
「朝凪さん、夕凪ちゃんのことになると結構分かりやすいですよね」
「篠さんにも分かります?」
「はい」
「本人だけ分かってないんだろうな」
しばらくして、水の音が止んだ。
「夕凪」
衝立の向こうから朝凪の声がする。
「何?」
「ちょっと来て」
「まだ着替えてないんじゃないの?」
「着た」
夕凪が向こうへ回る。
数秒後。
「……どう?」
朝凪の声が聞こえた。
「どうって?」
「臭い」
「ああ」
間があった。
「もう臭わないよ」
「本当?」
「本当。髪もさっぱりしてる」
「……よかった」
ものすごく小さな声だった。
私は篠を見る。
篠も私を見る。
笑ったら怒られそうなので、二人とも黙っておいた。
*
その後、篠も石鹸を使った。
「霧江さん、これ本当にすごいです!」
戻ってきた篠は、まだ少し湿った髪を手で梳きながら目を輝かせている。
「昨日から残っていたべたつきが、ほとんどありません。水で流しただけの時と全然違います」
「そんなにか」
「そんなにです!」
夕凪も負けじと石鹸を手に取る。
「私も使ってきます!」
「夕凪は元からくさくない」
「だから臭いだけの問題じゃないってば」
朝凪は不満そうだったが、止めはしなかった。
夕凪まで試し終える頃には、石鹸の評価は完全に決まっていた。
「洗濯だけじゃなくて、身体にも使えるんですね」
夕凪が感心したように石鹸を見る。
「これなら、お姉ちゃんが狩りから帰ってきた時にも便利そうです」
「使う」
「うん。さっき一つもらったからね」
篠も何度も頷いている。
「霧江さん、これからも作れますよね?」
「材料さえあればな」
「でしたら、これからも切らさないようにしたいです」
「そんなに気に入った?」
「もちろんです。狩りの後って、どうしても汗や血の匂いが残りますから」
「ああ、それは確かに」
狩人には特に相性がいいのかもしれない。
魔獣を解体すれば血や脂で汚れる。長く森を歩けば汗もかく。
それを今までより簡単に落とせるなら、便利なのは間違いない。
私は完成した石鹸を一つ、手のひらで転がした。
刀や弓みたいに誰かの命を救うものじゃない。
絡み罠みたいに獲物を捕らえるものでもない。
でも、こういうものを作って喜ばれるのも悪くない。
(むしろ、こういう方が前世のDIYに近いかもな)
壊れた棚を直す。使いにくい物を作り替える。暮らしを少し便利にする。
そういうことが好きだった。
この世界でも、それは変わらないらしい。
*
最後に、私も石鹸を使った。
桶の湯で身体を濡らし、泡立てた石鹸で昨日の汚れを落としていく。
「おお……」
分かっていた。
石鹸なんだから、こうなることくらい前世の私は知っていた。
それでも、久しぶりに味わう感覚には思わず声が出る。
肌に残っていた脂っぽさが消える。
髪をすすげば、昨日からまとわりついていた獣くささもほとんどなくなった。
水だけで洗った時とは比べものにならない。
(うん。石鹸だ)
当たり前の感想しか出てこない。
身体を拭き、服を着る。
衝立の向こうへ戻ると、三人がこちらを見る。
「どうでした?」
夕凪が聞く。
「ちゃんと石鹸だった」
「それ、感想になってます?」
「私にとってはこれが普通なんだよ」
篠たちはあれほど感動していた。
私だって嬉しくないわけじゃない。
この世界で石鹸を作れたのは素直に嬉しい。
身体もきれいになった。
臭いも落ちた。
なのに。
「……なんか、足りないな」
「何がですか?」
「それが分からない」
私は首を傾げた。
身体はさっぱりしている。
でも昨日の狩りで疲れた肩や腰は、まだ重い。
温めた湯を使ったとはいえ、桶からすくって身体を洗っただけだ。
前世なら。
こういう時、私はどうしていただろう。
「…………」
何かが喉元まで出かかっている。
すごく当たり前で。
石鹸と同じくらい、前世では身近だったもの。
それが何なのか、あと少しで思い出せそうだった。




