第6話「三人の狩り」③
「……え?」
朝凪の指が止まる。
私も絡み罠へ目を向けた。
フヨウの片翼を押さえていた蔓が、力なく垂れ下がっている。
「まさか」
フヨウが身体を捻る。
次の瞬間、左脚を押さえていた蔓も張力に耐えきれず切れた。
千切れた蔓の端が跳ね、地面へ落ちる。
「霧江さん!」
「分かってる!」
人間一人を吊り上げても平気だった蔓だ。
何本も束ねた。
編み方だって、簡単にほどけないようにした。
それでも、拘束は崩れ始めている。
化け葛の蔓が弱いんじゃない。
フヨウの力が、それ以上だった。
相手は、飛竜なんだ。
フヨウが耳をつんざくような咆哮を上げ、翼を大きく振るう。
その力が拘束具全体へ伝わり、絡み罠が激しく揺さぶられた。
両脇の木まで大きくしなる。
さらに一本の蔓が裂けるように切れた。
続けざまに数本が耐えきれず、次々と千切れていく。
「待て待て待て!」
作った本人としては、かなり心にくる光景だった。
だが、嘆いている暇はない。
「朝凪! 長く持たない!」
「分かってる!」
珍しく、朝凪が大きな声を返した。
矢を構え直す。
しかしフヨウの動きがさっきまでとは違う。
拘束が緩み、頭を大きく動かせるようになっている。
翼も片方が半分ほど自由になった。
朝凪が狙えば、フヨウも身体を振る。
さっきのように落ち着いて急所を狙える状態ではない。
「くそっ」
私はまだ切れていない蔓を目で追った。
残っている支えはどれだ。
どこへ引けば、もう一度あいつの翼を押さえられる。
固定に使える場所は。
頭の中で、絡み罠の構造を組み直す。
私も次の手を作らないといけない。
その間にも。
右脚を押さえていた最後の蔓が、引き裂かれるように切れた。
拘束がまた一つ失われる。
フヨウの右脚が自由になった。
太い鉤爪が地面を掴む。
土が抉れる。
「霧江さん、下がってください!」
篠が金剛を抜いた。
「でも――」
「大丈夫です」
篠が一歩前へ出る。
フヨウが身体を起こそうとする。
網に絡まった左翼を引きずりながら、それでも首を持ち上げる。
肩には朝凪の矢。
血も流れている。
なのに。
まだ倒れる気配はない。
(これが、竜種……)
生命力が高い。
知識では分かっていた。
でも、実際に目の前で見ると意味が違う。
あれだけの勢いで地面へ落ちた。
鱗を貫いて矢も刺さった。
それでも立ち上がる。
フヨウが首を振った。
黒い目が周囲を見回す。
そして。
朝凪を捉えた。
「……っ」
朝凪は逃げない。
弓を構えたままだ。
フヨウの片翼が、絡んだ蔓を強く引く。
張り詰めた蔓が一斉に軋み、何本もまとめて耐えきれずに切れた。
片翼を押さえていた拘束が、一気に緩む。
片翼が網から抜ける。
大きく広がった翼が、地面の枯れ葉を吹き飛ばした。
フヨウが朝凪へ身体を向ける。
「朝凪!」
私が叫ぶ。
同時に。
篠が、朝凪とフヨウの間へ滑り込んだ。
金剛を両手で構える。
「朝凪さん」
篠はフヨウから目を離さないまま言った。
「射つことだけ考えてください」
朝凪が、一瞬だけ篠を見る。
「……言われなくても」
短く返し。
もう一度、矢をつがえた。
その背後で、私はまだ張りを残している太い蔓を一本見つけ、その端へ手を伸ばした。
これだ。
絡み罠の左側を支えていた蔓。途中で何本か千切れてはいるが、木へ固定した根元までは生きている。
問題は、もう一度張り直すだけの余裕があるかどうかだ。
前では、篠が金剛を構えていた。
フヨウが大きく首を振る。
次の瞬間、自由になった右脚の鉤爪が篠へ振り下ろされた。
「篠!」
「大丈夫です!」
篠は半歩だけ横へずれた。
真正面から受け止めない。
金剛の刀身を鉤爪へ斜めに当て、その軌道を外へ逸らす。
重い衝撃が響き、篠の足元の土が削れた。
「っ……!」
押されながらも、倒れない。
そのまま身体をひねり、金剛を振り抜く。
刃がフヨウの鉤爪の一本を捉えた。
硬いもの同士がぶつかる鋭い音が響き、湾曲した爪の先端が宙を舞う。
「切れた……!」
思わず声が出た。
金剛は、そのままの形で篠の手にある。
さすが金剛不壊。
いや、感心してる場合じゃない。
フヨウが怒り狂ったように咆哮する。
頭を低くし、今度は篠へ噛みつこうと首を伸ばした。
「篠、右!」
「はい!」
篠が身を沈める。
牙が髪のすぐ上を通り過ぎた。
篠はその懐へ踏み込み、金剛の峰をフヨウの顎へ叩きつける。
巨体がわずかに仰け反った。
篠の役目は、フヨウを倒すことじゃない。
朝凪が確実に射抜ける瞬間まで、あいつの意識を自分へ引きつけることだ。
少し離れたところでは、朝凪がすでに弓を引いている。
けれど、射たない。
激しく動くフヨウの急所を、確実に射抜ける瞬間だけを待っている。
その視線を見て、私は蔓を掴んで走った。
残っている蔓は、フヨウの左翼へ絡んだ網につながっている。
ここをもう一度張れれば、少なくとも片翼は押さえられる。
ただ、人間の力で飛竜と綱引きをしたところで勝てるはずがない。
だから、力比べはしない。
近くの太い木へ蔓を回す。
幹を一周させ、方向を変える。
さらに、地面へ落ちていた丈夫な枝を蔓の輪へ差し込んだ。
前世で家具を締め上げる時にも、似たようなやり方をしたことがある。
直接引けないなら、道具に力を借りればいい。
「よっ……と!」
枝を一回、二回と回す。
枝へ蔓が巻きつくたび、弛んでいた部分が引き絞られていく。
十分に張ったところで、枝の端を木の幹へ引っかけた。
フヨウの左翼へ絡んだ網が締まり、持ち上がりかけた翼が地面へ引き戻された。
「よし!」
だが、フヨウも黙ってはいない。
巨体が強く捻られるたび、手元の枝が跳ね返されそうになる。
「う、ぐ……!」
腕が震える。
これ、長くは持たない。
「篠!」
「はい!」
「一回離れて!」
篠がフヨウの爪をかわし、その勢いのまま大きく後ろへ跳ぶ。
目の前から邪魔な相手が消えたことで、フヨウが身体を起こそうとした。
しかし左翼は上がらない。
片翼を地面へ引かれたまま、巨体が大きく傾く。
首の付け根から胸元が、朝凪の方へ向いた。
「朝凪!」
「分かってる」
返事は短かった。
朝凪が弓を構える。
さっきまでの喧騒が、一瞬だけ遠くなった気がした。
左足を半歩前へ。
腰を据える。
弓を持つ腕が伸びる。
右手が弦を引く。
初めて家の裏で見た時と、何も変わらない。
新しい弓なのに。
三年使ってきた古い弓と同じように、朝凪の身体へ馴染んでいる。
違うのは、その弓に蓄えられている力だ。
朝凪の視線が、フヨウの胸元の一点だけを捉えている。
狙っているのは、ただの胸元じゃない。
心臓のある位置。
二月ものあいだフヨウを追い、その身体を知る朝凪が選んだ、確実に命へ届く一点だ。
たぶん今、朝凪の目に映っているのは目の前のフヨウだけじゃない。
二月前。
森の中で、血まみれで倒れていた夕凪。
放っても、放っても、鱗に弾かれた矢。
あの日、届かなかった一矢。
「今度は――」
朝凪の指が弦から離れる。
「逃がさない」
弦が鋭く震えた。
矢が一直線に走る。
フヨウが気づき、首を振ろうとする。
遅い。
矢尻が胸元を覆う黒い鱗を真正面から貫いた。
そのまま深く――心臓のある奥へ潜り込む。
フヨウの巨体が大きく震えた。
咆哮しようと開いた口から、かすれた息だけが漏れる。
力の抜けた脚が折れた。
片翼が地面へ落ちる。
私の手元からも、蔓を引っ張っていた力が消えた。
「……え?」
枝を握ったまま、私はフヨウを見る。
巨体がゆっくりと傾き、そのまま地面へ横たわった。
動かない。
篠も金剛を構えたまま、じっと見ている。
朝凪だけは弓を下ろさなかった。
もう一本、矢をつがえる。
「朝凪?」
「まだ」
静かな声だった。
朝凪は倒れたフヨウから目を離さない。
しばらく待つ。
フヨウの胸は動かない。
翼も、爪も。
朝凪が慎重に距離を詰める。
十分に近づいたところで、矢をつがえたまま足を止めた。
「……死んでる」
静かな声とともに、朝凪が弓を下ろした。




