第1話「来世では、もっと自由に」②
「…………は?」
目の前に浮かんだ文字を、俺は呆然と見つめた。
【素材解明】
【名称:解毒草】
【特性:毒素中和】
【制作法を構築します】
【レシピ解放:解毒薬】
意味が分からない。
いや、文字の意味は分かる。分からないのは、どうしてそんなものが目の前に浮いているのかだ。
だが、それを考えている余裕はなかった。
「う、ぐ……っ」
腹の奥がひっくり返るように痛む。
俺は床に片肘をつき、どうにか吐き気をこらえた。
その瞬間、今度は別の異変が起きた。
――分かる。
手の中の草を、どうすれば薬にできるのか。
必要な材料。使う道具。潰し方。混ぜる順番。どの状態になれば完成なのか。
誰かに教わった覚えなんてない。それなのに、最初から知っていたように制作手順が頭の中へ組み上がっていく。
「……これを、作れってことか?」
呟いたところで、薬が勝手に現れるわけではなかった。
当然らしい。
こんな状態でも、そこだけは妙に現実的だった。
俺は震える手を床につき、薬研のところまで身体を引きずった。
さっき掴んだものと同じ草が、床に何本か散らばっている。
葉の形を確かめて一本掴むと、また淡い文字が浮かぶ。
【名称:解毒草】
「よし……これだ」
必要な分だけ拾い集める。
机の脚につかまりながら、どうにか上半身を起こした。
身体はひどい有様だったが、不思議なことに、薬研を手に取った瞬間だけ指先の動きが変わった。
草を置く。
刃を転がす。
茎と葉を細かく潰していく。
やったことなんてないはずなのに、どこに力をかければいいかが分かる。
震えているはずの手も、作業に必要なところだけは妙に正確だった。
「……なんだ、この感覚」
気になった。
死にかけているというのに、少しだけ楽しくすらあった。
木を切るときと似ている。
寸法を測って、材料を加工して、少しずつ完成形へ近づけていく、あの感覚。
もちろん、今は感傷に浸っている場合じゃない。
机の上にあった水差しから少量の水を加え、さらにすり潰す。
草の青臭い匂いが鼻についた。
頭の中にある完成形と、目の前のものを照らし合わせる。
まだ粗い。
もう少し。
もう少しだけ――。
そのときだった。
頭の奥に、知らない光景が弾けた。
「っ……!」
細い手。
今、俺が使っているのと同じ薬研。
小さな瓶。
その中に入った、濁った液体。
――もう、お前は要らない。
誰かの声。
隣には、見知らぬ誰かがいる。
自分と同じ仕事をする者。
――二人も造作師はいらない。
胸の奥が冷たくなるほどの絶望。
頼れる人もいない。
自分には何の価値もない。
そんな感情だけが、濁流のように流れ込んでくる。
そして。
小瓶を口元へ運ぶ、自分の手。
「……っ!」
俺は薬研から手を離した。
息を呑む。
今のは俺の記憶じゃない。
俺はこんな小屋を知らない。
造作師なんて言葉も、ついさっきまで知らなかった。
なのに、確かに自分のことのように感じた。
「この身体……自分で、毒を……?」
そこまで口にして、また腹に激痛が走った。
「ぐっ……今は、それどころじゃない……!」
理由を考えるのは後だ。
まず生きる。
せっかく一度死んで、なぜか目を覚ましたのだ。
ここでまた死んでたまるか。
俺は再び薬研を握った。
潰す。
混ぜる。
手順に従って、ひたすら手を動かす。
やがて、頭の中の完成形と目の前のものがぴたりと重なった。
【解毒薬を制作しました】
「でき、た……」
小瓶に移した薬液を手に取る。
色はひどい。
匂いもひどい。
絶対に美味くない。
「……良薬は口に苦し、ってな」
自分に言い聞かせ、一気に飲み干した。
「っっっっ苦……!」
予想を軽々と越えて苦かった。
舌どころか喉まで痺れそうだ。
だが、吐き出すわけにはいかない。
俺は口元を押さえ、そのまま床へ倒れ込んだ。
すぐに何かが劇的に変わったわけではない。
腹は痛い。
吐き気もする。
身体も重い。
それでも、しばらくすると焼けるようだった喉の熱が少しずつ引いていった。
荒れていた呼吸も、ほんの少し楽になる。
「……効いて、るのか……」
それを確かめたところで、限界だった。
今度こそ抗えない眠気に引きずられ、俺は目を閉じた。
*
次に目を覚ましたとき、板戸の隙間から細い光が差し込んでいた。
「……生きてる」
最初に口から出たのは、それだった。
身体を起こす。
まだ頭は重いし、胃のあたりにも鈍い不快感が残っている。
けれど、さっきまでとは比べものにならない。
手足も動く。
息もできる。
「はあ……助かった……」
大きく息を吐く。
床には、昨日――いや、どれくらい眠っていたのか分からないが――俺が使った薬研や草がそのまま残っている。
夢ではなかったらしい。
そこで、ようやく別の問題を思い出した。
「そういや、この声……」
高い。
どう聞いても、二十三歳の男の声ではない。
俺は自分の両手を見た。
細い。
指も手首も、見慣れた自分のものとはまるで違う。
そして、身体を起こしたことで胸元にかかる重みが嫌でも意識に入った。
「…………」
恐る恐る視線を落とす。
「…………女だな」
どう見ても女だった。
念のため、もう一度見る。
「……女だな」
確認したところで結果は変わらない。
壁際に立てかけられていた姿見に気づき、ふらつきながらその前まで移動する。
姿見に映っていたのは、寝起きでひどい顔をした若い女だった。紺を基調にした作務衣めいた上衣と、短い裾の装束。腰には工具袋が巻かれ、足元は長い足袋と草履――全体に、現代の服とは明らかに違う和服めいた雰囲気がある。
当然、見覚えなんてない。
「……マジか」
職員室で倒れた。
気がつけば見知らぬ小屋。
身体は別人。
しかも女。
そのうえ、目の前にはゲームみたいな文字まで浮かんだ。
ここまで揃えば、さすがに思い当たるものは一つしかない。
「異世界転生……ってやつか?」
口にすると、妙にしっくりきた。
我ながら順応が早すぎる気もする。
でも、一度死んだあとに女の身体で目を覚ましたのだ。
今さら常識にしがみついても仕方ない。
「女に転生するとは思わなかったけどな……」
もう一度鏡を見る。
頭の中身は、どう考えても俺のままだ。
男だった記憶も、教師だった記憶も、DIYが好きだったことも全部覚えている。
すると、また頭の奥が疼いた。
「っ……」
さっきほど激しくはない。
断片的な言葉や景色が、泡のように浮かんでは消えていく。
――霧江。
名前。
この身体の名前だ。
――造作師。
素材を加工し、さまざまなものを作る職。
――狩人。
魔獣を狩り、素材を得て生きる者たち。
そして、その狩人たちの一団から――。
「……追放された」
口にした瞬間、胸の奥にひどく冷たい感情が蘇った。
俺の感情ではない。
おそらく、霧江のものだ。
新しく入った造作師。
自分よりずっと役に立つ人。
もう、自分は必要ない。
そんな断片だけが残っている。
詳しいことを思い出そうとすると、記憶は霧の向こうへ逃げていった。
「……なるほどな」
俺は姿見から目を離した。
どうやら俺は、死んだあと、この霧江という女の身体に入ったらしい。
そして霧江も、俺が目覚める前に一度死にかけていた。
それ以上のことは分からない。
なぜ俺なのか。
なぜこの身体なのか。
そもそも、これを転生と呼んでいいのか。
考えたところで答えが出るはずもなかった。
「まあ……生きてるならいいか」
我ながら雑な結論だった。
でも、今はそれでいい。
俺は立ち上がり、改めて小屋の中を見回した。
広くはない。
寝台が一つ。古びた机と椅子。小さな棚。壁には簡単な工具が並び、隅には薬研やすり鉢、空き瓶など、造作に使うらしい道具がまとめられている。
どれも使い込まれていた。
少なくとも、霧江がここで暮らし、ものを作っていたことは間違いなさそうだ。
棚を探ると、小さな革袋が見つかった。
中には見慣れない硬貨が何枚か入っている。
それを見た瞬間、また曖昧な感覚が浮かんだ。
贅沢をしなければ、ひと月ほど。
「……無職で、所持金一か月分か」
普通なら焦るところだろう。
俺も前の人生なら、将来が不安でたまらなかったかもしれない。
ところが。
「……ん?」
よく考える。
俺は死んだ。
つまり、あの学校へ行かなくていい。
保護者から電話もかかってこない。
教頭に報告書を出す必要もない。
校務分掌もない。
明日の授業準備もない。
持ち帰り仕事も――ない。
「…………」
小屋の中が、急に輝いて見えた。
「もしかして俺……自由なんじゃないか?」
追放された。
無職になった。
金も大してない。
住んでいるのは、隙間風が入りそうなボロ小屋。
なのに、笑いが込み上げてきた。
「は……ははっ」
最高じゃないか。
前の人生では、やりたいことを全部後回しにした。
休みたくても休めなかった。
ものを作りたくても、工具を握る時間すらなかった。
最後に願ったのは、たった一つだ。
今度は、もっと自由に生きたい。
「せっかく、本当に来世があったんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「だったら今度くらい、好き勝手に生きてもいいだろ」
不思議と、追放した連中を見返したいとは思わなかった。
そんなことのために、二度目の人生まで使いたくない。
働きたくなったら働く。
作りたいものを作る。
疲れたら休む。
腹が減ったら飯を食う。
それでいい。
「よし。決めた」
俺は両手を腰に当て、小さく頷いた。
「今度の人生は、俺の好きなように生きる」
そう宣言した直後。
ぎい、と嫌な音がした。
見ると、壁際の棚が明らかに傾いている。
よく見れば机もがたついているし、板戸も少し歪んでいた。
俺はしばらくそれらを眺める。
そして、口元が自然と緩んだ。
「……まずは、この小屋からだな」




