第1話「来世では、もっと自由に」①
深夜の職員室に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
蛍光灯は半分ほど消されている。窓の外は真っ暗で、校庭の向こうに並ぶ住宅の灯りも、もうほとんど残っていない。
そんな時間だというのに、俺の机の上だけは、昼間よりも賑やかだった。
右側には、今日受けた保護者からの苦情についてまとめた報告書。
左側には、明日の授業で使う資料と、教材研究のために開いた教科書や指導書。
その奥には、校務分掌で任されている仕事の書類。
そして手前には、採点を待つテストの束。
「……どれから片づけても、終わる気がしないな」
誰に聞かせるでもなく呟いてみる。
当然、返事はない。
少し前までは何人か残っていた先生たちも、とっくに帰った。壁の時計を見ると、日付が変わってから随分と経っている。
俺は目頭を指で押さえた。
頭の奥がずきずきする。肩は石でも載せられたように重い。昼食を食べたあたりから胃も気持ち悪かったが、それもいつものことだと無視していた。
机の隅に置いた紙コップを手に取る。
一口飲んで、思わず顔をしかめた。
「まず……」
夕方に淹れたコーヒーは、すっかり冷え切っていた。
それでも捨てる気にはなれず、もう一口飲む。
眠気覚ましになれば、味なんてどうでもいい。
画面には、保護者対応の報告書が開かれている。
今日の苦情は、算数のテストについてだった。
問題文が分かりにくかった。授業中の説明が足りなかった。うちの子が点を取れなかったのは、教師の教え方が悪いからではないか。
そんな内容を、一時間以上聞いた。
電話を切ったあと教頭に相談すると、返ってきたのは「保護者を刺激しないように丁寧に対応して」「先生の方でも、もう少し工夫できるところがないか考えてみて」という言葉だった。
校長も似たようなものだ。
夕方、念のため「今後の対応方針を学校として決めてもらえませんか」と尋ねたときも、返事は曖昧だった。
「担任の先生が一番よくお子さんをご存じですから」
便利な言葉だと思う。
責任だけをこちらへ戻すには、実に便利な言葉だ。
もちろん、俺に反省するところが何もないとは思わない。授業が分かりにくかったなら直せばいいし、子どもが困っているなら力になりたい。
でも、何を言われても頭を下げ、どんな問題も担任一人で抱えろというなら、それはもう教育とは別の何かだ。
今日、件の子は帰り際に「先生、次は頑張る」と言っていた。点数が悪かったことを悔しがってはいたが、授業そのものを嫌がっている様子はなかった。
だからこそ、余計に疲れた。
子どもと向き合うことより、大人同士の責任の押しつけ合いに時間を取られている。
要するに、問題にならないよう俺が何とかしろ、ということらしい。
「工夫、ねえ……」
マウスを動かしながら、小さく息を吐く。
授業の準備をする時間が足りないから、家に持ち帰って教材研究をする。
教材研究をすれば寝る時間が減る。
寝不足で授業の効率が落ちる。
それでも子どもたちには関係ないから、笑って教室に立つ。
放課後になれば会議と保護者対応と校務分掌。
気づけば、また教材研究をする時間がなくなっている。
我ながら、見事な悪循環だった。
「……教師って、子どもに教える仕事じゃなかったっけ」
自分で言って、少しだけ笑った。
笑ったはずなのに、ちっとも面白くなかった。
報告書を保存し、次にテストの束を引き寄せる。
一枚ずつ赤ペンを入れていく。
計算問題。文章問題。図形問題。
丸をつけ、間違いには短くコメントを書く。
半分ほど進めたところで、一枚の答案に目が止まった。
最後の余白に、小さな字が書いてある。
『今日の授業、分かりやすかったです。先生ありがとう』
「……そっか」
思わず口元が緩んだ。
こういうのを見ると、弱い。
教え子たちは、本当にいい子たちだった。
教師という仕事そのものが嫌いなわけじゃない。
分からなかった問題が分かったときの顔。
休み時間にくだらない話をしに来る子。
昨日までできなかったことができるようになって、得意げに報告してくる子。
そんな瞬間は、今でも好きだった。
たぶん、それがなければ、とっくに辞めていた。
いや。
辞めるという選択肢すら考える余裕がなかったのかもしれない。
答案を裏返し、次の一枚に手を伸ばす。
そのとき、机の端から紙が一枚落ちた。
「ん?」
拾い上げる。
授業の資料ではない。
いつだったか、昼休みに思いついて、裏紙へ寸法を書きつけた小さな棚の設計メモだった。
寸法を書き込み、必要な木材の数まで計算してある。
「ああ……これ、まだ挟まってたのか」
俺は昔から、ものを作るのが好きだった。
ホームセンターを意味もなく歩くだけでも楽しかったし、休みの日には木材を買ってきて棚や机を作った。既製品を買った方が早くて安いようなものでも、自分で寸法を測り、切って、削って、組み上げる時間が好きだった。
教師になったばかりの頃は、休日に少しくらいなら続けられると思っていた。
けれど、いつの間にかやらなくなった。
平日は仕事。
休日も仕事。
たまに完全な休みがあっても、寝て終わる。
最後に鋸を握ったのは、いつだっただろう。
設計メモを見ても、思い出せなかった。
「……完成させたかったな」
ぽつりと漏れた言葉が、妙に胸に残った。
大したものじゃない。
ただの棚だ。
それなのに、どうしてか無性に悔しかった。
自分が好きだったものを、いつの間にか全部後回しにしていた。
仕事が落ち着いたら。
来週になったら。
夏休みになったら。
来年度になったら。
そうやって先送りにしているうちに、いつから工具に触れていないのかすら分からなくなっていた。
「……まあ、今は仕事だな」
設計メモを机の引き出しに戻す。
テストはまだ残っている。
明日の授業準備も終わっていない。
校務分掌の仕事もある。
俺は椅子から立ち上がった。
せめて顔でも洗えば、少しは頭が――
「……あれ?」
視界が揺れた。
机に手をつこうとする。
けれど、腕に力が入らない。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
「っ……!」
息が吸えない。
膝から力が抜けた。
床が近づいてくる。
どこか遠くで、何かが倒れる大きな音がした。
自分が机にぶつかった音だと気づくまで、少し時間がかかった。
冷たい床に頬が触れる。
起き上がらないと。
明日の授業がある。
テストも返さないといけない。
報告書だって、まだ――
「……なんで、こんなときまで仕事のこと考えてんだ、俺……」
笑おうとしたが、声にならなかった。
視界が暗くなっていく。
不思議と、怖さはあまりなかった。
ただ、疲れた。
それだけだった。
教え子たちの顔が浮かぶ。
ちゃんと卒業まで見届けたかった。
そこだけは、心残りだった。
それから、引き出しにしまった棚の設計図を思い出す。
あんなものまで、今になって浮かんできた。
「……もし、来世なんてものがあるなら」
自分でも馬鹿なことを考えていると思う。
けれど、もう意識が途切れそうだった。
「今度は……もっと自由に、生きたいな」
それが、前世での俺の最後の願いになった。
*
「――っ!」
息を吸い込み、俺は目を見開いた。
最初に見えたのは、見覚えのない木の天井だった。
「……は?」
しばらく瞬きをする。
天井には太い梁が渡され、その隙間には蜘蛛の巣が張っている。
蛍光灯はない。
当然、職員室でもない。
俺は床に横たわっていた。
身体を起こそうとして――すぐに後悔した。
「う……っ!」
胃の中身を全部ひっくり返されたような吐き気が込み上げる。
腹が痛い。
手足が痺れている。
喉も焼けるように熱かった。
「な、なんだ……これ……」
這うように身体を横へ向ける。
息が荒い。
額から汗が落ち、床板に小さな染みを作った。
状況を考えようとするが、頭がまともに働かない。
俺は職員室で倒れたはずだ。
胸が痛くなって。
息ができなくなって。
そのまま――。
「……死んだ、のか?」
口にした瞬間、自分の声に違和感を覚えた。
妙に高い。
けれど、それについて考える余裕はなかった。
今の身体も、明らかに危険な状態だ。
「冗談だろ……生き返ったと思ったら、また死ぬのかよ……」
目だけを動かして周囲を見る。
狭い小屋だった。
粗末な机。
小さな棚。
壁際には工具がいくつか掛けられている。
そして床には、何種類もの草や木の実、薬研、すり鉢、空の小瓶が散乱していた。
誰かが何かを作ろうとして、その途中で倒れた。
そんな光景に見える。
「薬……何か、薬……」
自分が何にやられているのかすら分からない。
それでも、何もしなければまずいということだけは分かった。
震える腕を伸ばす。
指先が床を掻く。
小瓶には届かない。
薬研にも届かない。
代わりに、すぐ近くに散らばっていた草の一本が指に触れた。
俺はほとんど無意識に、それを掴んだ。
その瞬間だった。
目の前に、淡い光を帯びた文字が浮かび上がった。
【素材解明】
【名称:解毒草】
【特性:毒素中和】
【制作法を構築します】
【レシピ解放:解毒薬】
「…………は?」




