第6話「三人の狩り」①
翌朝。
空が白み始めた頃には、私たちはもう森の入口に立っていた。
朝凪の背には、昨日完成したばかりの弓がある。篠の腰には金剛。そして私は、大きめの荷物を背負っていた。
「……重い」
「霧江さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫。大丈夫だけど、改めて思うとおかしくない?」
「何がですか?」
「私、造作師だぞ? なんで飛竜の囮までやることになってるんだろうな」
これから向かう先にいるのは飛竜だ。
しかも、向こうから偶然遭遇するわけじゃない。
こっちから探しに行って、わざわざ戦うのである。
(私、いつからこんなに命知らずになったんだろう)
前世では、日曜大工で指を金槌にぶつけただけでも結構へこんでいた男だったはずなのに。
「帰る?」
朝凪が聞いてきた。
「いや、行くけど」
「なら問題ない」
「もう少し心配してくれてもよくない?」
「心配してる」
「今のどこに!?」
「霧江なら大丈夫だと思ってる」
「……そう言われると文句言いづらいな」
朝凪はいつも通りの無表情だった。
でも、新しい弓へ触れる指先はどこか落ち着いて見える。
昨日、何度も試し射ちをしていた。
引き心地。重さ。矢の飛び方。
最後には何も言わず、しばらく弓を眺めていたくらいだ。
気に入ってくれたと思っていいだろう。
「では、行きましょう」
篠が先へ進もうとする。
「待って」
朝凪がすぐ止めた。
「こっち」
「道は向こうでは?」
「道を歩くと遠回り」
「……また森の中をまっすぐ行くんですか?」
「その方が早い」
篠の表情が露骨に曇った。
「篠、今日は毒キノコ食べるなよ」
「食べません!」
「化け葛にも気をつけて」
朝凪まで追い打ちをかける。
「朝凪さんも、もうその話は忘れてください!」
「無理」
「どうしてですか!」
朝から賑やかだ。
昨日までは、朝凪と篠が顔を合わせるたびに妙に刺々しい気もしていた。
でも今は、少し違う。
相変わらず朝凪は篠をからかうし、篠もすぐ言い返す。
それでも、昨日よりほんの少しだけ距離が近くなったように見えた。
……たぶん。
仲がよくなったと言ったら、篠には否定されそうだけど。
私たちは朝凪を先頭に、まだ薄暗い森へ入っていった。
森に入ってからの朝凪は、やっぱり別人みたいだった。
いや、喋り方や表情はいつも通りなのだが、動きに迷いがない。
しばらく歩いたところで、朝凪が急に立ち止まった。
「ここ」
「何かある?」
私にはただの地面にしか見えない。
落ち葉。土。小さな石。
朝凪はしゃがみ込み、落ち葉を指でどかした。
「爪痕」
「これが?」
「うん」
土の上に、何本か細長い溝がある。
言われて見れば何かが引っかいた跡にも見えるが、私一人なら絶対に見落としていただろう。
「フヨウですか?」
篠が周囲を見回す。
「たぶん。古くない」
朝凪が立ち上がり、少し先の木へ近づいた。
今度は幹の高い位置を見る。
「ここにも」
見上げると、樹皮が大きく削れていた。
私の頭よりずっと高い。
「翼が当たった跡?」
「たぶん。降りる時についた」
「こんなのまで分かるんだな」
「慣れてるから」
朝凪は当然のように答える。
そういえば、ずっと一人で狩ってきたと言っていた。
獲物を探すのも。
近づくのも。
仕留めるのも。
全部、自分一人でやってきたのだろう。
「……すごいな」
「何が?」
「弓だけじゃないんだな。追跡も。私なら今の痕跡、全部素通りしてた」
「狩人だから」
「その一言で済ませるのか」
「済む」
朝凪は当然のように言い切った。
篠がくすっと笑う。
「朝凪さんは、この森にもかなり慣れているんですね」
「ずっと狩ってるから」
なるほど。
弓の腕だけじゃない。獲物を見つけ、追い、近づくところまで含めて、朝凪の狩りなのだ。
「静かに」
「はい」
今度は素直に声を落とし、朝凪の後をついていく。
痕跡は少しずつ増えていった。
折れた細い枝。
何か大きなものが降り立ったように潰れた草。
半分ほど食い荒らされた獣の死骸。
そのたび朝凪は立ち止まり、進む方向を修正する。
やがて、地面が緩やかな上り坂になってきた。
「近い?」
「うん」
「分かるのか?」
「この辺りは前にも来た」
朝凪の声が少しだけ低くなる。
「夕凪が襲われたのも、この先」
「…………」
それを聞いた途端、さっきまでの軽い空気が消えた。
朝凪は前だけを見ている。
表情は変わらない。
けれど、新しい弓を握る手に少しだけ力が入ったのが分かった。
「朝凪さん」
篠が声をかける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「無理はしないでくださいね」
「篠に言われたくない」
「どういう意味ですか!?」
「昨日、毒キノコに気を取られて捕まってた」
「それはもういいでしょう!」
……よかった。
少なくとも、いつもの調子ではあるらしい。
さらに坂を登る。
朝凪の足が、また止まった。
今度は何も言わない。
片手を上げ、私たちにも止まるよう合図した。
そのまま低い姿勢になり、木の陰から前方を覗く。
私と篠も、音を立てないように近づいた。
「……いた」
朝凪の声は、ほとんど息だけだった。
「どこ?」
「上」
言われて視線を上げる。
最初は分からなかった。
木々の隙間から見える空。
朝の光。
枝葉。
その向こうに――大きな影があった。
「……あれか」
思わず声が漏れる。
遠目でも分かる。
大きい。
翼を広げ、風に乗るようにゆっくり旋回している。
身体の表面には、光を鈍く返す鱗。
脚の先には、離れていても分かるほど大きな鉤爪。
あんなものに掴まれたら、人間なんて簡単に持っていかれるだろう。
(……本物だ)
知識として知っていた飛竜。
朝凪から話を聞いていたフヨウ。
それが今、本当に目の前を飛んでいる。
背中に冷たいものが走った。
「あれで間違いないのか?」
私が小声で尋ねる。
朝凪はしばらく黙ってフヨウを目で追っていた。
そして、その視線が片方の翼で止まる。
「間違いない」
「分かるんですか?」
「左の翼」
フヨウが身体を傾けた。
その瞬間、左翼の端がこちらからも見えた。
翼膜の一部が不自然に裂け、古い傷のように縮れている。
「あれ、朝凪が?」
「二月前に射った。鱗には弾かれたけど、翼には一本通った」
「この二か月、何度か遠くから見つけてる。左の翼の傷も同じ」
「ずっと追ってたのか?」
「うん。でも、今までの弓じゃ倒せない。だから無理には近づかなかった」
「じゃあ、本当に……」
「あいつ」
短い一言だった。
でも、朝凪の目はフヨウから離れなかった。
私は何も言わず、もう一度空を見た。
あいつが夕凪さんを。
朝凪が二か月も追い続けてきた相手。
そして今日、私たちが倒そうとしている飛竜。
急に喉が渇いた気がした。
「今、射ちますか?」
篠が聞く。
「駄目」
朝凪はすぐに首を振った。
「ここで射っても、逃げられる」
「昨日の弓なら鱗を抜けるかもしれないぞ?」
「かもしれない。でも一発で仕留められるとは限らない」
もっともだった。
昨日の試し射ちで、弓の威力が上がっていることは分かった。
でも、相手は木の板ではない。
飛び回る竜種だ。
一度警戒させれば、高いところから降りてこなくなるかもしれない。
「じゃあ、予定通りだな」
「うん」
朝凪がようやくフヨウから視線を外す。
「場所を探そう」
私たちはフヨウの旋回する場所から十分に距離を取り、頭上を枝葉に覆われたところまで下がった。
ここなら、上空からこちらの動きは見えにくい。
そこからはフヨウの視界に入らないよう木々の下を進みながら、昨日話し合った条件に合う場所を探した。
地面の傾き。
上空から見つけやすい開け方。
私が逃げ込める場所。
朝凪が矢を通しやすい位置。
篠がすぐに飛び出せる距離。
昨日、三人で確認した手順を頭の中でもう一度なぞる。
「ここは?」
篠が示した場所を見る。
悪くはない。
ただ、少し狭い。
「もうちょっと向こうかな」
「こっち」
朝凪が別の方向を指す。
しばらく進むと、木々の間がほどよく開けた場所へ出た。
上空からなら、人が立っているのを見つけやすそうだ。
それでいて、すぐ逃げ込める木陰もある。
朝凪が射線を取りやすい距離も確保できる。
私はその場で何度か位置を変え、周囲を見回した。
「……ここならいけそうだ」
朝凪も同じように辺りを見る。
「うん」
「本当に、これで来ますかね?」
篠が少し不安そうに上を見る。
「絶対とは言えない。でも、朝凪の話通りなら可能性は高い」
「フヨウは上から獲物を見つける」
朝凪が続けた。
「逃げない獲物なら、かなり近くまで降りる」
「逃げない獲物、ねえ……」
嫌な言葉だ。
なぜなら。
「やっぱり私がやるんだよな?」
「うん」
「即答だな」
「私は射つ」
「私は何かあった時に霧江さんを守ります」
「分かってる。分かってるけどさ」
役割としては正しい。
朝凪は弓を使う。
篠は、もし予定が崩れた時に一番頼れる前衛だ。
残る私は。
「……餌か」
「囮です」
篠がすぐ訂正する。
「言い換えても危険度はあんまり変わらないよな?」
「私が絶対に守ります」
「それは頼りにしてる」
「霧江なら大丈夫」
「朝凪、その根拠のない信頼は何なんだ」
「篠が守る。予定が崩れたら、私も射つ」
「……それなら、少し安心した」
「少しですか?」
「相手が飛竜だからな」
篠が金剛の柄へ手を添え、朝凪も新しい弓を確かめる。
さっきまでの軽口は、もうなかった。
目の前にいるのは、朝凪が二か月追ってきたフヨウだ。
「とにかく、準備しよう」
「うん」
「はい」
朝凪が一度、木々の隙間から空を確認した。
「今は向こうを回ってる」
「しばらく、こっちは見えない?」
「うん」
「なら、その間にやろう」
そこから先は、昨日三人で決めた通りに動いた。
朝凪は上空を警戒しながら周囲を確認する。
篠は周囲の足場を確かめる。
私は昨日決めた手順を一つずつなぞった。
詳しい確認は昨日のうちに済ませてある。
今日は、ずれがないかを手早く確かめるだけだ。
相手はフヨウ。見つかる前に終わらせる必要がある。
朝凪も要所だけを短く指示した。
「霧江、そこだと少し右」
「この辺?」
「もう半歩」
「細かいな」
「大事」
「分かってる」
篠も周囲を見ながら、自分が走り込む道を確かめている。
数分で準備を終えた。
こうしていると、少し不思議だった。
朝凪は、今まで一人で狩ってきた。
篠も、私と出会った時は一人だった。
そして私は、罠や道具で仲間を支える造作師だ。
そんな三人が、同じ獲物を倒すために一緒に準備している。
これがうまくいくかどうかは、まだ分からない。
でも。
なんとなく、一人で何かを作っている時とは違う面白さがあった。
「終わった」
朝凪の声で我に返る。
「こっちも大丈夫です」
篠も頷いた。
「じゃあ、あとは待つだけか」
「うん。一度離れる」
「まだ離れるのか?」
「ここに居続けたら、戻ってきた時に見つかる」
「なるほど」
せっかく準備した場所を警戒されては意味がない。
私たちはその場から離れ、木々の陰へ身を隠した。
待つ。
ただひたすら待つ。
こういう時間は妙に長く感じる。
鳥の声。
葉が揺れる音。
どこかで小さな獣が走る気配。
その全部に耳が反応する。
「……まだ?」
「まだ」
「どのくらい待つ?」
「分からない」
「ですよね」
小声で話したあと、また黙る。
しばらくして。
朝凪がゆっくり顔を上げた。
「動いた」
「フヨウ?」
「うん」
木々の間から空を見る。
さっきまで遠くを旋回していた影が、少しずつこちらへ近づいている。
朝凪が私を見る。
「霧江」
「……行ってくる」
「気をつけてください」
「篠もな」
「私は大丈夫です」
「その自信、ちょっと分けてほしい」
笑おうとしたけれど、思ったより声が硬かった。
緊張している。
当たり前だ。
私は一度大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
それから木陰を出る。
開けた場所へ、一人で歩いていく。
頭上には飛竜。
背中には、二人の視線。
昨日決めた位置で足を止める。
「……よし」
顔を上げた。
フヨウはまだ高い。
でも、確実にこちらを見ている気がする。
大きな翼が傾く。
旋回の円が、少しずつ小さくなる。
(来い)
逃げない。
ここにいる。
そう伝えるように、私はわざと開けた場所に立ち続けた。
やがて。
「霧江」
離れた場所から、朝凪の声が飛ぶ。
短い。
でも、それだけで分かった。
フヨウの翼が止まる。
次の瞬間。
大きな身体が、こちらへ向かって傾いた。
翼を畳む。
鉤爪が前へ出る。
さっきまで空の上にいた影が、一気に大きくなる。
「……来た」
フヨウが。
一直線に、私へ向かって急降下してきた。




