ep.9
店を出た後も、僕たちは再び十メートルの距離を保って歩いた。駅の改札前で、中原さんは一度だけこちらを振り返り、小さく手を振って人の波に消えていった。僕の目に映るその背中はどこか寂しげで、遠い世界へ帰っていくように見えた。
彼女を見送ってから帰路につき、自宅のドアを開けると、「おかえり」という温かい声と、シチューのいい匂いが出迎えてくれた。
「ただいま、梓さん」
「少し遅かったわね、どこか行ってたの?」
エプロン姿でキッチンから顔を出した彼女は、僕の叔母にあたる人だ。いつも穏やかなその声は、この家を真の意味で帰る場所にしてくれている。
「うん。……友達と、駅前の喫茶店に」
「あら」
梓さんの声がパッと明るくなる。
「お友達と? ふふ、よかった。そういうの、あまりしないものね」
僕が誰かと放課後を過ごして帰ってきたこと。たったそれだけのことが心底嬉しいのか、彼女は弾んだ声で笑った。少し照れくさくなって、僕は誤魔化すように小さく頷いた。
僕と姉の怜奈は物心つく前に両親を亡くしている。母は僕が幼い頃に自ら命を絶ち、しばらくして父も交通事故で呆気なくこの世を去った。母はスピリチュアルにハマり多額の借金を作り、父は酒とギャンブルに溺れた挙句、僕たちに暴力を振るってきた。とても、親と呼べるような存在ではなかった。
そんな中、多額の借金を抱えて残された僕たちを引き取ってくれたのが、子どもに恵まれなかった梓さんだった。いくら血の繋がりがあるとはいえ、他人の子どもを二人も育てる苦労は計り知れない。
それでも彼女は僕たちに不自由な思いをさせまいと、本当の母親以上の愛情を注いで育ててくれた。この温かい食卓も、僕が絵を描き続けられる環境も、すべて梓さんのおかげだ。どれだけ感謝してもしきれない、僕の大切な家族だ。
夕飯と風呂を済ませた後、僕は自室には戻らずにリビングのソファに腰を下ろしてテレビの電源を入れた。サブスクを開き、検索窓に『ゴースト』と打ち込む。出演者の欄に『成瀬雫』という名前を見つけ、再生ボタンを押した。
物語は幽霊が見える女性の探偵を主人公にしたミステリーだった。僕の目には人物たちの顔はすべて黒く塗りつぶされたようにしか見えない。台詞のトーンや息遣い、足音といった「音」の情報がすべてだった。
中原さんが名前を出していた『白石小春』という主演の女優。その演技に思わず息を呑む。画面越しで顔も見えないというのに、声の強弱や、ほんのわずかな間の取り方だけで、彼女が他のキャストと違うことが痛いほどに伝わってきた。周りを惹きつけて離さない魔性と揺るぎない存在感。これがプロの役者なのか。
やがて、中原さん──いや、『成瀬雫』の出番が来た。彼女の役柄は幽霊になった探偵の妹。スピーカーから聞こえてきた彼女の声は普段僕が隣で聞いている「中原さん」の声よりもずっと低く、冷たかった。声の端々にまだ若い響きは残っているものの、白石小春の演技に決して呑まれていない。必死に喰らいついて、堂々と自分の役を生きている。
主演が二人いるみたいじゃないか。あの細い身体のどこにこんなエネルギーが隠されているのだろうか。
画面の中の彼女の熱演に見入っていたとき、玄関の方でガチャガチャと騒がしい音がした。鍵穴にキーを何度も乱暴に差し込もうとする音に続いて、ガンッ、という鈍い音と「痛っ」という間抜けな声が響く。
「たっだいまぁ……」
疲れ切ったハスキーボイスで頭をボリボリと掻きながらリビングに入ってきたのは、姉の怜奈だった。相変わらず、事前の連絡もなくいきなり帰省してくる。目が痛くなるほど明るい金髪だった彼女の髪色が、今度は鮮やかなピンクに変わっている。声を聞かなかったら、多分誰だか分からないだろう。
「おかえり。相変わらず突然だね」
「んー……。あー、死ぬ……」
怜奈はボストンバッグを放り投げ、怜奈はソファの空いているスペースに倒れ込んだ。
「一週間くらい居座るからよろしく……」
「 珍しいね。いつもはすぐいなくなるのに」
「次の作品まで丸々オフなの。やっと休める……」
アルコールの匂いに混じって、嗅ぎ慣れない香水の香りがふわりと漂ってきた。クラスの女子がつけている、お菓子や花を連想させる甘さとは正反対だった。海外のモデル男性が纏っていそうな、洗練された「大人の男」の匂いがする。
世間一般的に「ギャル」などと形容される人種は、バニラや花の強く甘い香りを纏っているものだと思っていた。けれど、この姉にその手の法則は通用しない。
「……また香水変えた?」
僕が尋ねると、怜奈はだるそうに手元に引き寄せたバッグの中から一つの小さなボトルを取り出した。
「んー、これ。撮影の合間に買ったんだけどさ」
差し出されたのは、滑らかな曲線を描く撫で肩の平たいガラス瓶。真っ白なラベルが貼られただけの、潔いほどシンプルなデザインだ。
「まだ小さいブランドなんだけど、ディレクターさんがお店で直々に接客してくれてさ。……やっぱり、何かを作る人って、お互い応援したくなるじゃん? 」
そう言って彼女は手の中のボトルを愛おしそうに撫でた。女性が身につけるには強すぎるその香りが、なぜか彼女という人間にしっくりと馴染んでしまう。
派手な色に染め上げた彼女の髪と、一切の装飾を削ぎ落としたそのボトル。極端なその対比が、今の僕にはどこか皮肉めいて見えたし、それでいて、何色にも染まらない彼女の強い芯を表しているようで、なんだか腑に落ちた。
このどうしようもない酔っ払いが、映像制作の個人事務所『NEØN』を主宰する『天才映画監督 神崎怜奈』などと持てはやされ、軽く億を超える額を稼ぎ出しているのだから、世の中は本当に分からない。
両親が残したあの莫大な借金も、怜奈がその稼ぎで一括返済してしまった。今でも彼女は梓さん宛てに多額の仕送りを続けているが、倹約家の梓さんは「もったいなくて使えないわよ」と困ったように笑い、ほとんどを貯金に回している。
怜奈は生活のすべてを直感と仕事に捧げ、他人の都合などお構いなしに振る舞うほどに奔放だ。せめて顔ぐらいは悪くあってくれれば、少しは救いがあるのにと思う。けれど彼女は、ラフな服の上からでも分かるほど抜群のスタイルを持ち、監督業の傍らでモデルまでこなしている。
神様は怜奈にどれだけの才能と資質を与えれば気が済むのだろう。そんな彼女の顔にもまた、他の人々と同じく黒い靄が漂う。幼い頃は、まだ人の顔が見えていた。怜奈の顔は、綺麗に整っていた気がする。けれど今となっては、その記憶すらも曖昧だ。
「さくがドラマ見るなんて、珍しいじゃん」
クッションを抱きかかえながら、怜奈がテレビ画面を指差した。ろれつが少し回っていない。
「たまたま。同級生が出てるから」
「えー、何、好きな子?」
「……ただの隣の席の人だよ」
適当にあしらいながら、喫茶店でのことを思い出す。本当は、中原さんに自分の姉が映画監督であることを伝えたかった。でも、どうしても言えなかった。憧れの世界に僕の家族がいるなんて知られたら、中原さんとの間に築かれつつある関係が壊れてしまう気がした。
その時、テレビの中で成瀬雫の声が響いた。隣にいた怜奈の空気が変わる。さっきのだらしない雰囲気は消え失せ、まっすぐに画面を見つめている。
「……いいね、この子。表情管理完璧だし、セリフ無い時間の使い方も分かってる」
怜奈は真剣な声で呟くと、手元のスマホを素早く操作し始めた。
「事務所ミラなんだ。……ちょっと勿体無いかな」
スマホの画面から顔を上げ、怜奈は再びいつもの飄々とした態度に戻って、僕を見た。
「この子、絶対伸びるから。仲良くしておきなよ」
言い残すと、怜奈はふいっと画面から視線を外し、深いため息を一つ吐いた。その拍子に、また香水の香りがふわりと広がる。返事を待つまでもなく、彼女は抱きかかえていたクッションに顔を埋めた。
「怜奈?」
声をかけてみたけれど、返ってくるのは穏やかな寝息だけだった。さっきまでの鋭い気配はなく、そこにはただ、仕事と酒に疲れ果てた一人の女性が転がっているだけだ。
僕は怜奈に毛布をかけて、テレビの音量を下げた。




