ep.8
メニュー表には「レモンスカッシュ」や「クリームソーダ」といった見慣れた名前に並んで、「ばらの花」や「銀座」など、不思議な名前がひっそりと息づいていた。名前の下には詩のような紹介文が書いてある。
言葉の響きだけでどんな味なのか、どんな見た目なのかが知りたくなる。絵を描く人間として、そういう余白のある遊び心には無条件で惹かれてしまう。
「ここのコーラフロート、すっごく美味しいんだよ」
中原さんが顔を寄せて囁く。その声には宝物を見つけた子供のような純粋な熱がこもっていた。
「コーラも上のアイスも、マスターの手作りなの。クラフトコーラ? っていうのかな。スパイスが効いてて、甘さも控えめで……とにかく、市販のとは全然違うんだ」
有無を言わさない、確信に満ちた響き。「それだけ言うなら」と、彼女の言葉に背中を押され僕は頷いた。彼女は満足そうにメニュー表を閉じ、背もたれに体を預ける。
「はい。お冷とおしぼりね」
マスターがグラスと丸められたおしぼりをテーブルに置いた。滑らかな曲線で縁取られたグラスの表面には、店内の温かな光を吸い込んだ水滴が並んでいる。
「そういえば、雫ちゃん」
「はい」
マスターの声に中原さんが顔を向ける。
「この間、雫ちゃんがファンだって言ってた人が来たよ。『黒川瑠依』さんだっけ?」
「えっ……!?」
ガタッと椅子が鳴り、彼女の体が前のめりになる。
「ほんとに!? く、黒川さんが、ここに?」
「ああ。あともう一人女の子も一緒だったな。ボブぐらいの髪の長さで童顔の……名前は忘れちゃったけど」
「ボブの子……!」
中原さんはカバンからスマホを取り出すと、何かに取り憑かれたような速さで画面を叩き始めた。カチカチカチ、と画面とネイルが奏でる音が響く。やがて彼女はスマホをマスターへ突き出した。
「もしかして……『白石小春』さん? この人ですか?」
「ああ、うん。そうだね。この子だよ」
「嘘でしょ……!」
「ホント」
マスターの言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女の呼吸が一段と深くなった。
「二人、何を飲んでましたか……!?」
「ええっと……黒川さんはアイスコーヒーで、もう一人の子はカフェラテだったかな」
「なるほど……! 黒川さんはやっぱり大人なイメージ通り。ああ……カフェラテ飲んでるのも白石さんらしいな……!」
中原さんは聖告を受けた信者みたいに深く、重々しく頷いている。彼女は背筋をぴんと伸ばし、まっすぐにマスターを見上げた。
「今日はアイスコーヒーでお願いします」
「あれ、今日はコーラフロートじゃないのかい?」
「はい。今日はアイスコーヒーがいいんです」
鉄の芯を無理やり通したような声で中原さんが頷く。
「……僕はコーラフロートをお願いします」
僕がそう付け足すと、マスターは少しおかしそうに鼻を鳴らし、「はいよ」と短く答えてカウンターの奥へ戻っていった。
店内に静寂が戻ってくる。窓から差し込む西日がモルタルの床をオレンジ色に焼き、中原さんの影を僕の足元まで伸ばしていた。
「……神崎くん、さっき笑ってたでしょ」
「笑ってないよ」
「絶対笑ってる。今も声が笑ってるもん」
図星だった。声の端々に滲む感情を、彼女もまた敏感に感じ取っている。僕は誤魔化すように、冷たいお冷のグラスを手に取った。
やがて、カウンターの向こうでカランと氷がぶつかる音がして、マスターが二つのグラスを運んできた。
僕の前に置かれたのは、深い茜色のコーラに丸いアイスが浮かんだコーラフロート。アイスの上には鮮やかな緑をしたミントとシロップ漬けのチェリーが飾られている。そして中原さんの前には、一切の混じり気がない漆黒のアイスコーヒー。
「お待たせ。コーラは下にシロップ溜まってるからよくかき混ぜてね。……雫ちゃんは、本当にこれでいいんだね?」
マスターが言うと、中原さんは「もちろんです」と、軍人のような硬い声で答えた。マスターは「そうかい」と笑いながらキッチンへ戻っていく。
中原さんは迷いのない動作でストローを手に取ると、一息にそれを啜った。直後、彼女の身体が微かに硬直した。ストローを通る液体が途切れ、彼女の喉が小さく動く。
「…………」
「……中原さん?」
「ぐうっ……ああっ……」
そんなナイフで刺されたみたいな声を出さないでほしい。マスターに聞こえるから。中原さんは喉元を両手で押さえながらこちらを向いた。
「想像の三倍は苦い……。こんなに容赦ないの?」
「無理するから。ガムシロップ持ってきてもらおうか」
「いい。大人の味だから」
彼女は再び戦場へ赴く悲壮感を漂わせてストローに口をつけた。けれど、二口目もまた、彼女の肩を小さく震えさせる結果に終わったらしい。彼女の影がどこか恨めしそうに、僕のグラスの方へと揺れている。
「……交換する?」
僕がそう問いかけると、彼女の身体がぴくりと反応した。
「え、でも」
「コーヒー、嫌いじゃないから。それに」
少し言い淀んでしまう。でも、彼女には言った方がいいと思った。
「コーラフロート勧めてる時の方が中原さんらしかったし」
彼女はしばらくの間、自分のグラスと僕のグラスを交互に見ていた。迷っている。その沈黙が、なんだか微笑ましい。
「ふうん……じゃあ。神崎くんがどうしてもって言うなら」
僕たちは、それぞれのグラスを入れ替えた。中原さんのアイスコーヒーが僕の前に来る。一口飲んでみると、確かにそれは脳を直接叩く鋭い苦味があった。けれど、その奥にはしっかりと焙煎されたコーヒー豆の甘く香ばしい香りがあって、決して嫌な味ではない。
「あー……やっぱこれ。生き返ります」
中原さんの声が一気に体温を取り戻した。さっきまでの張り詰めた気配はどこへやら。彼女の周囲には、柔らかい空気が戻っていた。
「黒川さん、これ飲んでたんだよね」
「うん」
「……やっぱり遠いなあ」
彼女は僕の前に置かれたアイスコーヒーを眺めながら、自嘲気味に呟いた。
「いつか、黒川さんと共演するのが私の夢なんだけど……まだ無理かな」
「僕も、中原さんのこと笑えないよ。安田さんたちのデッサン見て、いつも自信無くしてるし」
「そうだね。お互い、道のりは長そう」
中原さんは、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえばさっきの白石さん。中学生のときに『ゴースト』っていうドラマで共演したことあるんだ。彼女が主演で、私はその妹役」
「へえ」
「美人なのはもちろんなんだけど、とにかく演技が凄くてさ。その場にいるだけで全部持っていくっていうか……。今サブスクにあるはずだから、暇なときにでも見てみてよ。私の言ってること、すぐ分かると思う」
自慢するでもなく、淡々と彼女は言った。才能の差を目の当たりにしながら、それでもなお同じ場所を目指そうとする。執念のようなものに、僕は少しだけ気圧される。
「分かった。探してみる」
「あ、私のシーンは飛ばしてもいいからね」
照れ隠しのような言葉に僕は小さく笑った。
「飛ばさないよ。中原さんが出てるなら」
中原さんはストローの先を弄びながら、喉の奥でくすりと笑った。
「……神崎くんって、過保護だよね」
「そうかな」
「うん。過保護」
西日はさらに傾き、店内の白い壁を赤く染め上げていく。モルタルの床の上で、僕たちの影はさっきよりも少しだけ、近くに並んでいた。




