ep.7
「外出たら、ちょっと距離あけよ」
昇降口のタイルの上、靴を履き替えていた中原さんがふいに言った。
「なんで」
「……一緒に歩いてると、撮られることあるから」
俯いたまま、砂を噛むような不満げな声が返ってくる。その一言で、彼女が今置かれている面倒で窮屈な状況を察した。
彼女は厚底のスニーカーを軽く叩いて足に馴染ませると、僕の返事を待たずに、午後の強い光の中へと踏み出していく。
校門を出る直前、彼女はバッグのポケットから黒いマスクを取り出した。手慣れた動きで耳にかけると、一度だけこちらを見て、すぐに前を向いて歩き出す。
最初は、どの程度の距離が正解なのかが掴めなかった。近づきすぎれば歩調を緩め、離されそうになれば慌てて速度を上げる。試行錯誤を繰り返すうち、十メートルほどの「安全圏」が僕たちの間に定まった。見失わないように、彼女の背中だけを標識にして進む。
中原さんがスマホを片手にこちらを振り返る。何かあったのかと思った瞬間、ポケットの中で小さい振動があった。取り出して画面を見ると、「しずく」からのメッセージが届いている。そういえば、いつかの昼休みに連絡先を交換したんだった。
『そのくらいで大丈夫』
顔を上げると、彼女はもう歩き出していた。
大通りに出ると、人の流れが一気に増えた。帰りの生徒と駅へ向かう人が混ざり、歩道は絶えず揺れている。アスファルトは昼の熱を残していて、立ち上る熱気にシャツが汗ばむ。
肩が触れそうな距離で人がすれ違い、避けるたびに歩幅が乱れる。その合間で、中原さんが顔を横へ向けているのが見えた。通りの端や停まっている車、建物の影。視線を走らせて、すぐ前を向く。同じ動きを何度か繰り返しているのを見て、周囲を気にしているのだろう。
ビル風が吹き抜け、中原さんの髪が肩で広がる。その動きに目が引っ張られたまま足が遅れて、前から来た人と肩がぶつかってしまった。
「すみません」
反射的に頭を下げる。顔を上げたときには、彼女の背中が少し遠くなっていた。見失わないように視線を上げたまま、人の流れを縫って歩幅を広げる。駅の前を通り過ぎて、人の流れが少し落ち着いたところでまたスマホが震えた。
『右曲がるね』
なんだか、カーナビみたいだなと思いながら中原さんを追いかけて角を曲がると、音がふっと弱まった。さっきまで耳の奥に残っていたざわめきが、引き剥がされるように消えていく。建物同士の距離が急に近くなり、そのぶん空が高く見えた。外壁は色褪せ、閉まったままのシャッターが続いている。
急に足音が自分のものだけになり、どんどん辺りの景色が淋しくなっていく。このまま進んでいいのか、不安になる。前を見ると、中原さんは迷いなく歩いている。立ち止まる様子もない。遅れないように、同じ速さで歩き続ける。
路地の突き当たりで中原さんは立ち止まった。少し辺りを見て、それからこちらへ手を振る。
その先にあったのは、コンクリートの壁に埋もれるような白い木製のドアだった。その上には丸く大きな電球が一つ取り付けられていて、曇ったガラスの中でアルファベットが浮かんでいる。足元には小さな植木鉢が二つ並び、壁際の手書きの看板が影を落としていた。
「分かりにくいな、ここ」
淋しさの向こう側にあった喫茶店に、思わず声が漏れる。
「でしょ」
「よく見つけたね」
「……撮影の帰りに、迷子になって見つけた」
中原さんは小さく笑いながら、金色のドアノブに手をかける。ガチャリ、と重たい金属の音に引かれるようにして二人で中へ入った。
ドアが閉まると、背後で鈴が小さく鳴った。店内は、白いペンキで荒く塗られた壁と、グレーのモルタルの床という無骨な造りだった。天井にはむき出しの梁が通り、簡素なペンダントライトがいくつか吊るされていた。深く焙煎されたコーヒーの香りに呼吸が深くなる。
「いらっしゃい。……おや」
カウンターの奥から声がした。視線を向けると、肩のあたりまで届きそうなほど髪を伸ばした男性が、布巾でグラスを拭きながらこちらを見ている。年齢はまだ若そうだが、その落ち着いた佇まいはこの空間に溶け込んでいた。多分、彼がここのマスターなのだろう。
「珍しいね、雫ちゃんが男の子連れてくるの」
グラスを拭く手が止まらないまま、マスターはこちらを見ている。
「彼氏?」
茶化すような口調に、隣を見れない。何か言葉を探そうとしたけれど、隣に立つ中原さんの反応の方が早かった。
「違いまーす」
彼女は耳にかけていたマスクを外しながらフロアの奥へと歩き出す。僕はマスターに向けて曖昧に会釈だけを返し、彼女の背中を追うようにモルタルの床を踏みしめた。
店内は、外観から想像したよりもずっと奥行きがあった。入り口すぐ右手のカウンターに目を向けると、焼き菓子が並ぶガラスケースが置かれ、その横では銀色のノートパソコンが開かれている。
室内の至る所は確かに古びていたけれど、不思議と荒んだ空気は感じられない。どれもが清潔に保たれている様子からは、マスターが手入れを続けていることが伝わってくる。
僕たちは、フロアの隅にあるテーブル席を選んで腰を下ろした。
中原さんが三つ折りのメニュー表を手に取り、ゆっくりと開く。




