ep.6
それから数日後の昼休み。僕たちはいつも通り学食の席へ集まった。一緒の席に着いたからといって、同じメニューを食べるわけではない。奏多は大盛りの塩ラーメンをすすり、僕は普通盛りのチャーハンをつつく。隣では中原さんが鶏胸肉のサラダと豆乳だけという、それで午後まで持つのか心配になるような昼食を口にしている。
彼女は基本、自分で作ったお弁当を持ってきていて、僕たちが普段食べている購買のパンやおにぎりには手を伸ばさない。そういうところまできっちりしている。
修行僧、という言葉が浮かんできた瞬間に考えるのをやめた。
「やっぱ、塩ラーメンが一番だな」
ふいに奏多が箸を置き、腕を組んで考え込むように言った。確か、いつもは味噌ラーメンを食べていたような気がするのだけれど。
『なんで』
僕と中原さんは揃って聞いた。声のトーンから喋るタイミングまで同じでなんだか恥ずかしくなる。
「店の実力が分かる。出汁の取り方で全部味が決まるから、誤魔化しが効かねーんだよ」
奏多は博識ぶって、レンゲを手に取り掲げる。こいつはたまにどこで仕入れてきたのか分からない蘊蓄を披露することがある。今がまさにそれだ。
「学食のラーメンで語るな」
僕が呆れて返すと、中原さんがくすっと笑う。ラーメン評論家はそんな反応も気にせず、満足げに残りのスープを飲み干した。
騒がしかった昼休みが終わり、退屈な午後の授業が二つ過ぎるころには、教室の空気全体が眠っていた。机の上には、シワが寄ったプリントと、半分だけ閉じられた筆箱。黒板の文字はもう誰も見ていない。ホームルームの終わりの合図を待つだけの時間が、だらだらと伸びていた。
チャイムが鳴って、ようやく教室の空気が動き始めた。鞄を肩に掛けて廊下に出ると、笑い声と足音が飛び交っている。その中をぼんやりとした頭で美術室へ向かう。すっかり日は長くなって、階段の踊り場に落ちる影も短くなっていた。
扉を開けても、誰もいない。いつも通りの景色だ。開け放たれた窓からは初夏の柔らかな風が入り、カーテンを揺らしている。
机の方を見ると、先生が置いたのかクチナシの鉢植えがあった。深い緑の葉をつけた枝の頂点には、雪のように白い花が咲いている。その花から放たれる、甘くもったりとした香りが室内に満ちていた。
自分の席について頬杖をつくと、自然と隣の空いたままの椅子が目に入る。
中原さんは最近、ドラマの撮影が立て込んでいて忙しそうだった。『初めて主演のドラマやるんだ』と意気込んでいた彼女は、昼休みに会ってもどこか眠たげにしていたし、午前の授業で早退したり、学校自体来ないこともあった。
……今日は、来ないのかな。
机にできた細かい傷を指でなぞりながら、そんなことを考える。
彼女を待つよりも、僕にはやるべきことがあるだろう。僕は席について鞄を置き、デッサン帳を開いた。せっかくだからクチナシを描いてみることにした。ねじれて重なった白い花びらは影も形も取りにくい。だからこそ良い練習になるはずだ。
この花を、枯れない花にしてみせる。
鉛筆を手に取り、花の中心を軽く決めてから外側の花びらを追う。手前の一枚は縁が内側に巻いていて、隣の花びらに潜り込んでいる。そこまでは拾えるのに、その先で形が途切れた。
白い花びらは、光で輪郭が溶けてしまっている。輪郭ではなく、重なり合った部分の影で取るしかない。花びらの付け根に落ちる影をなぞる。
白く乾いた紙の上に、ゆっくりと花が咲いていく。
線を重ねていると、また隣の椅子が目に入った。空いたままのそれに一瞬だけ意識が引かれて、手が止まりそうになるけれど、また紙へ向かう。
少しだけ右腕に疲れを感じ始めてきた頃、廊下の向こうで足音が止まって、ガラガラと扉が開いた。
「おつかれー」
少し眠気をはらんだ声に顔を上げると、中原さんが立っていた。手には細いパウチのゼリーが握られている。コラーゲンとビタミンなんとか入りのやつだ。前に勧められて食べてみたら、信じられないくらい苦かったのを覚えている。その苦さが何に効くのかは分からないけれど、中原さんが続けているのだから効果はあるはずだ。きっと。
「あれ、今日仕事じゃなかったの」
「うん。この間の日曜日で撮影終わったんだ。しばらく休み」
中原さんは隣の席に座り、そのまま机にべたっと突っ伏した。顔だけをこちらに向けてくる。
「だから、やっと普通の高校生に戻れます」
「数日だけでしょ」
「そういうこと言わないの」
ばしばしと机を叩く彼女に、思わず笑ってしまう。中原さんは起き上がって、少しだけ伸びをした。
「休みなら家で寝てた方がいいんじゃない。最近、元気無いし」
「やだよ。せっかく自由なんだから」
「美術室来るのが自由なの」
「うん」
中原さんは小さくあくびをして、書きかけのデッサンに顔を向ける。
「仕事してるとさ、思ってるように青春できないんだよ」
「青春って、例えば?」
「友達とカラオケ行くとか、クラスのみんなで文化祭の準備するとか。色々あるよ」
「普通だな」
「その普通が私にはむずかしいの」
「外歩いてると、結構バレるし」
「ああ……」
「写真撮られたり、声かけられたり。気を付けてないと、変な記事出されて世間様から色々言われるんだよ」
さらっと言ったけれど、そこには僕の知らない面倒がいくつもあるのだろう。起きてから寝るまで、ずっと誰かに見られているような生活。考えるだけでも全身がむず痒くなる。
「だから、こうやって美術室でだらだら喋ってるだけでも、青春なんだ」
「それは、流石に基準低くない?」
「うるさいなー。楽しいからいいの」
そう言って中原さんは立ち上がり、棚に飾られていた仮面を手に取った。
先生がアフリカ旅行で買ってきた謎の民族の仮面。ライオンのような獣の顔に尖った嘴が付いていて、目はくり抜かれている。民族たちが信仰する神様を模しているらしいけれど、どう見てもゲームに出てくる敵のようにしか見えない。
「はい、これでバレませーん」
中原さんがふざけてそれを顔に当てて、こちらを向いた。
仮面のくり抜かれた穴。その奥には、光に透かした琥珀のような、茶色の瞳があった。
「え……」
「え?」
僕が気づいた瞬間、中原さんの瞳は黒に飲み込まれてしまった。
……今のは、きっと気のせいだ。そういうことにした方が、気持ちが楽だった。
「もしかして、呪いの仮面とかだったりする……?」
中原さんは怯えたような声で仮面を外した。仮面を持つ彼女の手は、小さく震えていた。冷えた心の底が、一瞬で温かくなる。突飛な勘違いをする彼女のことを、なぜだか無性にからかいたくなった。少しだけ間を置いて、僕は口を開く。
「それ、下手に触ると祟られるって先生が言ってた」
「……ほんと?」
「全然嘘だよ」
「ちょっと! 本気で信じたんだけど」
「ごめん。でも騙されやすすぎだって」
「もう。神崎くんが真顔で言うからでしょ」
中原さんは仮面を棚にそっと戻す。位置を直して、もう一度だけ触れてから手を離した。少しだけ彼女の声のトーンが落ちる。
「……責任取って」
「何の」
「びっくりしたダメージの回復。甘いもの補給したい」
「購買行けば」
「違う」
そこで中原さんは一瞬黙った。
肩まで垂れる黒髪を、指先でくるくると巻きつける仕草が見えた。彼女はゆっくりと息を吸って、もう一度口を開く。
「喫茶店、付き合って」




