ep.5
中原さんと友達になってから、早くも一ヶ月が経とうとしていた。僕たちは昼休みになると、奏多も入れて三人で昼食を取るようになっていた。
中原さんの仕事が休みの日は、美術室で雑談をする。別に何か特別な約束をしたわけじゃない。ただそうするのが当たり前みたいに続いている。取り止めのない話をして、たまに少し真面目な話をして。そんな日々が重なっていた。
桜はいつの間にか散って、木々は花びらの代わりに明るい緑の葉を抱えている。開け放った窓からは微かに夏の匂いがした。植物の青々とした匂いに呼吸が深くなる。そのうち、蝉も鳴き始めるのだろう。夏が近づくと、どこか胸がざわめく。何かが始まりそうで落ち着かない、この焦燥が好きだ。
安田さんと室井先輩は「新作のBL映画の公開日だから」と謎の使命感を燃やして、颯爽と消えていった。二人よりはまだ真面目だったはずの高橋さんは、最近できた彼氏との時間に忙しいらしく、幽霊部員への階段を順調に上っている。
結局、残されたのは僕一人。なぜかサボった三人の分までデッサンを仕分けさせられている。バイト代を払ってほしいぐらいだ。画用紙の端を揃え、月ごとにクリップで留めていく。
そんな単調な作業の繰り返しの中、目の前に眩い光を放つ物体が差し出された。
「この間、インスタのフォロワー10万人いったんだ」
中原さんが弾んだ声でスマホの画面をこちらに向けてくる。画面の中では、『成瀬雫』という名前の横に、青いチェックマークと10.3万という数字が並んでいた。
一瞬、それが誰のことか分からなくて、僕は彼女の方へ首を傾げた。数秒の沈黙の後、ようやくその名前と、目の前に座っている「中原さん」が重なった。彼女の芸名か。
モノクロのアイコンの中では、黒く長い髪を垂らした女性が壁にもたれかかっていた。その下の投稿には、透き通るような白いドレスに包まれた彼女の姿がある。
ドレスのドレープや、細い指先のライン。それは確かに『綺麗』だと言える要素の集まりだった。けれど、肝心な中心部分は、抜け落ちている。
これが中原さんだと言われなければ、僕は決して気づくことはないだろう。
「それは……すごいの?」
「すごいよ。去年の今頃は2万人ぐらいだったから。5倍だよ? 5倍」
手のひらを広げながら不満そうに返される。SNSにはめっぽう弱い僕からすると、正直、数字の大きさに実感が湧かなかった。10万人。目の前の彼女を見たいと思う人が、10万人もいる。それはすごいことなんだろうけれど、僕は隣で喋る彼女しか知らない。
僕の知っている中原さんは話しているとすぐ脱線するし、急に拗ねるし、たまに驚くほど子どもっぽい。そういう、ごく普通の女子高生だった。
落差、なんて言葉を使ったら失礼だけど、なんだか不思議な気持ちになる。僕は、「へえ」と曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
ぱらり、と画用紙をめくる音が静かな室内に響く。中原さんはまだ何か言いたげに、自分のスマホを弄りながら椅子の脚を小さく鳴らしていた。
やがて手持ち無沙汰になったのか、彼女はスマホを机に置き、立ち上がった。そのまま、ふらりと部屋の隅へと歩いていく。
向かった先は古い傘立てだった。そこには歴代の生徒たちが忘れていった置き傘が押し込まれている。骨のひしゃげたビニール傘や、色の褪せた布傘が絡み合う、くすんだ塊。
「……」
彼女はその前に立ち止まった。じっとその傘の山を見つめていたが、やがてゆっくりと僕の隣へ戻ってくる。なぜかさっきよりも少し距離が近い。
また一枚、紙をめくったところで中原さんが身を乗り出した。がたっと椅子の音がして、彼女からあの香水がふわりと漂う。
「これ、神崎くんが描いたの?」
中原さんは随分と驚いた様子で机の上のデッサンに顔を寄せる。
「いや、それは安田さんのだよ」
「えっ」
「で、これが室井先輩の」
デッサンを何枚かめくった後、中原さんは感心したように声を漏らした。
「すご……生きてるみたい」
画用紙の中では頬杖をついた老人がこちらを見ていた。深く刻まれた皺と薄くなった髪、細かな陰影まで描き込まれている。
「先輩、人物画が一番得意だから」
さらに一枚めくる。
「これは安田さん」
窓辺に座る女子生徒のデッサンだった。太く濃い線で書き込まれた輪郭は大胆だ。それでいて空気をそのまま切り取ったような繊細な絵になっている。
「こっちも人だ」
「安田さんもそういうの好きなんだよ」
中原さんは感心して見つめていた。
「あれ?」
「なに」
「神崎くんのない」
「何が?」
「人の絵」
言われてみれば、僕のページは風景や静物ばかりだった。窓から見える街並み、空、使い古したスニーカー、窓際の植木鉢。そんなものが続いている。
「苦手だから」
「……顔?」
「顔」
「そっか」
数枚後ろの、荒く線の残るデッサンを中原さんに渡す。二人のものと比べると、改めて自分の下手さが浮き彫りになる。影の取り方、小さくブレる線。何から何まで劣っていて悔しくなる。
「二人のと比べると、全然ダメでしょ」
「そんなことないよ。十分上手いじゃん」
「……ありがとう。でも、まだ足りないんだ」
足りない、という言葉は便利だ。悔しいとか、羨ましいとか、そういう押し殺した感情まで全てまとめて入れられる。
机に置かれた室井先輩のデッサンが目に入る。二つに切り分けられたオレンジ。形も、影の取り方も、何から何まで正確だ。断面から溢れ出す果汁のみずみずしさ、皮の表面にある無数の微細な凹凸。白と黒だけで構成されているはずなのに、そこには確かな色彩と、酸っぱい匂いさえも存在していた。
「二人とも、いつもふざけてるのにこれだけ描けるから。正直、才能に嫉妬する」
「なんか、分かる気がする」
「中原さんはそういう側じゃないの?」
僕がそう聞くと、中原さんは言い淀んだ。机の上に置いたスマホへ視線を落とす。さっきまでの得意げな様子とは、少し違って見えた。しばらくして、こちらに向き直る。
「私も、夜中まで台本読んで覚えても、本番で台詞飛ぶ時あるよ」
「……へえ」
意外だった。何でも器用にこなす人だと思っていた。芸能界のような眩しい場所に立っている人間は、生まれ持った容姿と才能ばかりで、努力なんてものとは無縁なのだと、勝手に決めつけていたのかもしれない。
「なのに、一回読んだだけで全部頭に入る人とかいてさ。しかも演技まで上手いの。私の努力はなんなんだ!ってなるよ」
中原さんは肩をすくめるように笑った。
「結局さ、人間って自分よりできる人を見ちゃうんだよね」
「……うん」
「だから苦しくなる」
そう言って、僕のデッサン帳を指先でとんとんと叩く。
「似てるね。私たち」
同じだと言われたかったわけじゃない。けれど、眩しすぎる光に目を細め、届かない場所に手を伸ばし続けているのが自分一人ではないのだと知って、胸の奥が温かくなった。
それきり会話は途切れ、僕は再び鉛筆を握った。中原さんも鞄から台本を取り出し、文字を追うように指を動かし始める。紙を擦る音と、静かにページをめくる音。夕闇が迫る美術室に、二つの孤独なリズムが重なり合っていた。




