ep.4
無理やり押し出されるようにして部室を後にした僕たちは、並んで階段を下り始めた。
古い校舎の階段は、二人分の体重を乗せて一段踏むたびに、きしみともつかない乾いた音を返す。傾きかけた西日が踊り場に橙色の四角い光を落とし、空気中に漂う細かい埃を透かして見せていた。そこへ僕たちの影が長く伸び、階段を降りるリズムに合わせて、揺れながら重なったり離れたりしている。
「ごめん。部活、邪魔になっちゃったね」
「全然。真面目に絵描いてるの、僕だけだし」
「それ、美術部として大丈夫なの?」
「うーん、多分だいぶ駄目。でも、先生も全然怒らないんだよな。部員が減りすぎて、もう居てくれるだけでいいみたいな扱いになってる」
中原さんが隣で小さく笑い、肩の力が抜けた。
「神崎くん」
「ん?」
「さっきの話」
彼女の足音が、一段ぶん遅くなる。それに引きずられるように、僕も自然と歩幅を緩めた。追い越すでもなく、離れるでもなく、同じ速さで隣に並ぶ。トン、トン、と二人の足音が重なる。
「顔のこと、よく言ってくれたね」
「別に……成り行きというか」
「あー、誤魔化してる」
「してないよ」
「してる」
即答で見抜かれて悔しくなる。階段の途中、開け放たれた窓の外ではグラウンドを走る陸上部の姿が見えた。遠くで顧問の吹く笛の音が短く鳴り、それに呼応する誰かの太い返事が夕方の風に流されて消えていく。
「人に言うの、苦手なんじゃないの」
「まあ。そうだね」
隠してきたというよりは、相手にどう受け取られるかを想像するのが怖くて、説明することをずっと避けてきただけだ。「見えない」という世界を、見える人間に理解してもらうことの途方もなさに、最初から諦めていた。
誰が誰だか判断するために、声のトーンや、歩くときの足音の癖、靴の種類、制服の着崩し方、カバンについているキーホルダーなど、顔以外のあらゆる情報にすがりつかなくてはならないこと。
それを打ち明けたとき、向けられるであろう戸惑いや、哀れみや、気味の悪いものを見るような様子を察知するのが恐ろしかった。
窓から斜めに差し込む光が中原さんの髪の輪郭を淡い金色に縁取っていた。肩にかかる髪の揺れ方が自然と目に入る。彼女が少し俯き加減で歩くたび、絹の糸のように柔らかく解けて揺れるその光の束を見て、不意に『綺麗だな』という純粋で、そして不純な感想が浮かんでしまう。
「でも、嬉しかった」
「何が」
「ちゃんと理由、知れたから」
昨日、桜の木の下で俯いていた彼女の小さな声が頭をよぎる。僕は自分が傷つかないことばかりを優先して、閉じこもり、彼女に肝心なことを一つも言えなかった。彼女がどれだけ不安だったか、気づいていたはずなのに。
「昨日、言えばよかった」
「ほんとだよ。ちょっと泣いたし」
「ごめん」
「今日三回目だよ。もう謝るの禁止」
「……うん」
彼女の声に咎めるような響きはなかった。むしろ、僕がこれ以上余計な罪悪感を引きずらないように、わざと少し明るい調子を作ってくれているような気がした。声がわずかに上がり、空気を軽くするような配慮。彼女の優しさが伝わってくる。
窓の外から今度は吹奏楽部の音合わせのメロディが聞こえてきた。どこか不安定で、何度も同じフレーズを繰り返すトランペットの音に、思わず意識が向く。金属的な響きが、夕焼けの空に吸い込まれては消える。
「それより、バレなくてよかったね」
「ああ……知ってたんだ。女優、やってること」
中原さんの足がピタリと止まった。上履きのゴムが床を擦る短い音が鳴る。僕も足を止めた。彼女の体が、急に強張ったのがわかった。
「あ、いや。少し聞いただけで。でも、あんまり学校の人には知られたくないのかなって思ったから」
言い訳のように早口で言葉を継ぐと、中原さんは少しの間だけ黙った。それから、ゆっくりと階段の手すりに指を滑らせる。冷たい金属を硬い爪がなぞる細い音が人気のなくなった踊り場にチリチリと響く。
「……中学校の頃、からかわれたり、学校バラされたりしたことあるから。結構気にしてるんだ」
「そっか」
それしか言えなかった。テレビの中の、明るく華やかな世界。その光が強ければ強いほど、現実の彼女に落ちる影もまた濃くなるのだろう。彼女がどれだけのものをすり減らし、どれだけ息を潜めて、波風を立てないようにこの学校生活を送っているのか。僕には想像することもできない。
下手な共感や気の利いた慰めの言葉なんて、どうせ今の彼女には薄っぺらく響くだけだ。僕にできるのは、ただ彼女の言葉をそのまま受け止めることだけだった。
「だから、ありがと」
一呼吸置いてから発せられたその言葉は空気に溶けてしまいそうだった。
「……さっきの二人はそんなことしないと思うけど、うまく誤魔化しとくよ」
「なにそれ、頼もしいじゃん」
「別に、そんなんじゃないよ」
「そういうこと言う人って、だいたいちょっと頼もしいんだよ」
「初めて言われた」
「じゃあ記念日だね」
「何の」
「神崎くんが頼もしくなった記念日」
謎の記念日がこんな薄暗い階段の途中で創立される。意味が分からないのに、言葉のキャッチボールのテンポが心地よくて、ふっと自然な笑いが漏れる。
再び二人で階段を下り始める。一階へ近づくにつれて、外の音が次第に大きく、はっきりとした輪郭を持って聞こえ始めた。陸上部のスパイクが土を蹴る鋭い音、遠くのコートから響くテニス部の声、教師が生徒を呼ぶくぐもった声、どこかの教室で机を引きずる音。放課後特有の色んな音が幾重にも混ざり合い、僕たちを日常の温度へと引き戻していく。
「ねえ、仕事無い日さ、美術部行ってもいい?」
一階の廊下が見えてきたところで、彼女が唐突に尋ねてきた。
「いいよ」
「ほんとに?」
「うん。駄目な理由ないし。さっきの二人も、何も言わないと思うよ。むしろ喜ぶんじゃないかな」
「やった」
中原さんの上履きの踵が床を叩くリズムがさっきよりも軽快になっている。そのまま階段を下りきり、昇降口の近くまで来ると、夕方の強い光が床一面に広く溜まっていた。開け放たれた入り口から吹き込む風で、床を転がる砂埃が乱反射して金色に光って見える。
靴箱の並ぶ鉄の棚が夕日を受けて長い影を落としていた。
「じゃあ、お昼ご飯とかは」
「それもいいよ。奏多もいるけど、嫌じゃなければ」
「奏多……あ、杉本奏多くん?」
「うん。一応、言っとこうかと。大体いつも一緒にいるから」
「平気。むしろ安心した」
「安心?」
「神崎くんと二人きりだと、なんだか緊張するし」
さらりと言ってのけた彼女の言葉に、僕は一瞬呼吸を止めた。
「……僕もする」
口に出してから、随分と正直すぎる感想だったことに気付いた。言い訳を考える余裕もなく、顔に熱が集まっていく。
それから、中原さんが声を出して笑った。昇降口に高く響く、澄み切ったはっきりと分かる笑い声だった。空気が震え、僕の鼓膜を心地よく揺らす。
「じゃあ、オアイコだね」
振り返った彼女の顔は見えない。目鼻立ちも、どんな感情を浮かべているのかも、相変わらずただののっぺりとした黒い靄のままだ。
それでも、弾むような声のトーンから、軽やかな足取りから、そして彼女の周囲を包む温かい空気の揺らぎから。
間違いなく、彼女が心から笑っているのだということが僕にははっきりと分かった。
声だけで、こんなに表情が分かる人は初めてだった。




