ep.3
午後の授業はいつも通り過ぎていき、気がつくと放課後になっていた。黒板の文字を書き写し、先生に当てられれば答え、チャイムが鳴れば次の授業が始まる。何も変わらない一日のはずなのに、一日がとても長く感じた。
席を立って、美術室に向かう。すれ違う生徒の何人かがこちらを見た気がして、無意識に俯いてしまう。
「あの人だよ」
そんな声が聞こえた気がした。もちろん空耳だろう。誰も僕なんか見ていないのに。分かっていても、朝からまとわりついている居心地の悪さはまだ抜けていなかった。
誰かの笑い声が背中を伝う。それを振り返って確認する勇気もなく、ただ階段を足早に上る。
窓から差し込む西日が踊り場の床を細長く照らしていた。部活へ向かう生徒たちの影がその上を横切っていく。みんな行き先が決まっているように見えて、少し羨ましかった。
美術室の扉を開けると、まだ誰もいなかった。じっとりとした湿気と共に紙と絵の具の香りが空間を満たしている。窓を開けると、遠くに野球部がランニングをしているのが見えた。ユニフォームの白とグラウンドの茶色がコントラストをなしている。規則正しく動く列を見ていると、少しだけ気持ちが静かになる。
自分の席に着いた途端、身体の奥に溜まっていた疲れが一気に押し寄せてきた。朝から大したことはしていないはずなのに。カバンを机に置いて、枕がわりにして伏せる。
部員たちが来るまで少し眠りたい。
目を閉じると、走馬灯のように朝からの景色が繰り返される。女子二人の尖った声。奏多の呑気な声。いちごミルクの甘さ。どうでもいいことばかり鮮明で、肝心なことほど上手く整理できない。昨日の桜が浮かんだところで、思考を止めた。今はもう、何も考えたくなかった。
眠りに落ちそうになった瞬間、ガラガラと扉の開く音がした。静かな室内に小さな足音が一つ、二つと入ってくる。足音はゆっくりと近づいてきて、僕のすぐ近くで止まった。
「……神崎くん」
小さく控えめな声に眠気を引きずりながら顔を上げると、目の前に女子が一人立っていた。彼女の身体には少し大きい、黒いパーカーの上にブレザーを着ている。内履きの装飾が緑色だから僕と同じ二年生だ。安田さんはもっと声が低いし、高橋さんよりは髪が長い。美術部の生徒じゃないのは分かる。どこか聞き覚えのある声だけれど、思い出せない。
「えっと、どちら様、でしたっけ」
「え……中原。中原雫」
失礼な問いかけに対して悲しそうな声で名乗られ、一気に息が詰まる。目の前にいるのは、昨日僕が振った人だ。聞き覚えのある声だと思っていたけれど、すぐに思い出せなかった。気まずさに視線が泳いでしまう。
「……ごめん。中原さん」
「うん……顔ぐらいは覚えててほしかったかな」
「好きな人には」と軽く刺すように付け加えられる。中原さんは隣の椅子を引いて腰を下ろした。その瞬間、柑橘に似た、澄んだ匂いがした。香水だろうか。甘ったるくない、目の前で静かに小さく白い花が揺れているような静かな香り。昨日は気付けなかった。
落ち着かない。彼女から漂う清廉な香りに意識を持っていかれそうになる。ふと、自分が汗臭くないか気になり、気づけば襟を寄せて嗅いでいた。大丈夫、臭くはないはずだ。
中原さんは側から見て、だいぶ変なポーズを取る僕を気にも留めない様子で「昨日のことなんだけど」と続けた。
「急にあんなこと言って、ごめん。ちゃんと話したくて」
その一言で責めに来たわけではないのだと分かる。
「ちょっとしか話したことないのに、びっくりしちゃったよね。優子と美奈のことも。根は良い子達なんだけど、気強くて」
『ちょっとしか話したことない』という言葉が引っかかる。中原さんとは昨日初めて話したと思っていたけれど、きっとそうなのだろう。きっと、僕たちは、どこかで話したことがある。そして、僕だけが覚えていないのだ。
女子二人が怒っていたのも、友達を傷つけられたからだ。僕だって、どんな理由であれ奏多が傷つけられたら怒る。そんな当たり前のことを分からずに、関係無いと頭の中で二人を切り捨てた自分が恥ずかしく思えてくる。
「いや、こっちこそ。突き放すような言い方しちゃって、ごめん」
昨日、追いかけもしなかったくせに。謝る資格なんて、本当は無いのかもしれない。
言わなければ、このまま終われる。昨日、少し感じの悪い男子として振った相手。今日、気まずさを埋めに来てくれた優しい女子。そこまでだ。このまま適当に謝って、時間が経てばそのうち他人に戻る。
それでいいはずだった。なのに、胸の奥がざらつく。昨日の桜の下で俯いた中原さんの姿がどうしても頭から離れない。走り去っていく足音も、今朝僕を責めた女子たちの声も、全部、僕が何も言えなかったせいだ。違う、と言えたはずなのに。嫌いだったわけじゃない。迷惑だったわけでもない。
けれど、『それ』を話したところで何になる。気味悪がられるかもしれない。冗談だと思われるかもしれない。面倒なやつだと引かれるかもしれない。今こうして隣に座っている距離が、一瞬で遠くなるかもしれない。
それでも。何も言わずにまた誤解されたまま終わる方がもっと嫌だった。
握った拳に力を込める。
「昨日、どうして付き合えないって言ったのか、ちゃんと話したい」
そう切り出すと、中原さんは小さく頷いた。
「うん」
「嫌だったわけじゃないんだ。本当に」
「……うん」
「ただ、僕は中原さんのことをほとんど知らなくて」
「それは、私も同じじゃない?」
もっともな返事だった。付き合う前から相手のことを全部知っている人なんて、きっといない。
「うん。でも、僕の場合は少し違う」
最初から、みんなと同じようにはできないんだ。何度も飲み込んできた言葉が喉元までせり上がってくる。
「……周りには、あまり言ってないんだけど」
絞り出した自分の声は小さく、掠れていた。
「僕、人の顔が分からないんだ」
「え?」
戸惑ったような小さな声が漏れる。うまく説明できる気がしなくて、僕は鞄から英語の教科書を取り出した。適当なページを開く。テニスをしている外国人のイラストに、転がっていたボールペンを走らせる。ぐしゃぐしゃと、黒く塗りつぶす。目も、鼻も、口も。何も分からなくなるまで。
「こんな感じ」
これで伝わるだろうか、と思いながら黒塗りになったトムの顔を中原さんの方へ向ける。
「昔から人の顔が認識できなくて。なんていうか、黒く塗りつぶされたみたいに見える。だから、中原さんのことも忘れてたわけじゃないんだ」
ずっと胸の奥に押し込めていたものを無理やり外へ出した気がした。中原さんはすぐには何も言わなかった。黒くなった教科書と、僕の顔を交互に見ている。
「今、私の顔も見えないの?」
「見えない」
「家族、とか……自分の顔も?」
「うん。だから人のことは声とか髪型で覚えてる。それしかできなくて」
彼女は黙ったまま教科書をそっと閉じ、机の上へ置いた。
「そう、なんだ」
「ごめん」
「なんで神崎くんが謝るの」
少しだけ中原さんが笑ったような気がする。
「昨日、ちゃんと言わずに振ったことは怒ってるけど」
「やっぱり怒ってるんだ」
「そりゃ怒るよ。好きな人に、秒で振られたんだから」
冗談めかした調子だった。けれど、その言葉の芯に本当の痛みがあることくらい、僕にも分かる。
「……ごめん」
「だから、謝りすぎ。ちゃんと話してくれたから、もういいよ」
その一言でどこかに引っかかっていた棘が抜けた。窓の外から遠く運動部の掛け声が聞こえる。
「昨日、言えなかったんだけど」
「うん」
「付き合えないと思った理由は、それだけじゃなくて」
中原さんは黙って続きを待っていた。
「人を好きになるっていう感覚も、よく分からないんだ……だから、いきなり付き合うとかは無理で」
長ったらしい言い訳に無理やり終止符を打つ。
「……友達から、始められないかなって」
振った相手に虫が良すぎる。黙って軽蔑されても仕方がないよな。中原さんは少し黙った。やっぱり無理だよな、と諦めかけた時だった。
「順番、めちゃくちゃだね。私たち」
「……うん」
「でも」
椅子が小さく鳴る。彼女がこちらへ向き直ったのが分かった。さっきより、少しだけ距離が近くなる。
「いいよ」
彼女の返事に胸の奥が波打つ。
「私のこと、覚えてほしい。声でも、髪型でも。なんでもいいからさ」
中原さんの返事に安堵した瞬間、ドアが開いた。
安田さんだった。
いつもの赤いリュックを背負って、のり塩のポテチとBL漫画を抱えている。安田さんは自他共に認める腐女子で、BL漫画を見ながらジャンルに合った味のポテチを食べることにこだわりがあるらしい。
安田さんは後ろを振り返って口を開いた。
「室井先輩。神崎が女連れ込んでます」
「退部にします。うちの部は恋愛禁止なので」
安田さんの後ろから室井先輩がにゅっと顔を出す。美術部部長にして、もう一人の腐女子。正確には安田さんの熱心な布教により腐女子になった。僕が入部した頃はただのアニメオタクでしかなかったのに。
「神崎居なくなったら人数不足で廃部ですよ。今年一年生入らなかったので」
「それは困る。じゃあそこの彼女、美術部に入りませんか」
室井先輩が中原さんにじりじりと歩み寄る。中原さんの肩がそれに合わせて強張っていく。初対面の三年生からいきなり勧誘されるのだから、無理もない。
「私、は仕事があるので……」
「仕事? アルバイト、とか?」
「あー! はい! 基本バイト週5で入れてて!」
少し上擦った、明るく誤魔化すような喋り方だった。さっきまで僕に向けていた落ち着いた調子とは少し違う。言葉の継ぎ目もぎこちない。
顔は分からない。でも、声の揺れ方でこの話題には触れてほしくないんだなと思った。芸能人なら、やっぱり学校ではバレたくないんだろうか。
「ええ、そんなに。すごいなあ。じゃあ勧誘は諦めます」
室井先輩はそう言いながらも、まだ話を続けそうな空気があった。
「室井先輩。バイトの時間、近いらしいので」
気づけば口が勝手に動いていた。
こんなやり方で良かったのか。でも、今はとりあえず中原さんを救出しないと。
「そうなんですね。頑張ってください。あ、暇な時はいつでも来てくださいね」
「ありがとうございます……じゃあ、私はこれで。神崎くん、またね」
「うん。また」
中原さんは小さく手を振って扉へ向かった。その背中をなんとなく目で追う。
気づけば立ち上がっていた。一歩踏み出したところで中原さんが振り返る。
「どうしたの?」
「いや……」
本当に僕はどうしたんだろう。引き留めたいわけじゃない。話したいことも、もう思いつかないのに。それでも、扉へ向かう中原さんの足音が遠ざかっていくのを聞いていると、このまま帰してしまうのが少しだけ惜しい気がした。
「神崎、彼女なら送ってきたら」
バリバリとポテチを咀嚼する音と共に安田さんが言う。いつの間にかポテチの袋を開けて僕の横に立っていたので驚いた。
「いや、別に彼女とかじゃ──」
「じゃあ送らなくていいの?」
「……送ります」




