ep.10
……結局、ドラマは最終話まで夜通し見てしまった。
穏やかな寝息を立てる怜奈を起こすわけにもいかず、僕は途中でテレビの電源を落とした。足音を殺し、爪先立ちで自室へと逃げ込む。
カーテンを隙間なく閉め切った暗闇の中で、タブレットの画面が剃刀のような鋭い光を放っていた。画面の中の「成瀬雫」は鏡の中から這い出る幽霊として主演の「白石小春」と対峙している。
ストーリーが面白かったことも手伝って、僕は夜が白むまで何度も同じシーンを巻き戻し、一時停止し、辺りを凍りつかせるような演技に身を浸し続けた。
気づいた時には、カーテンの隙間から薄い灰色の光が漏れ、時計は午前四時を告げていた。僕はそのまま、ろくに眠りもせず学校へ向かった。
午前中の授業は意識が飛んだまま受けた。チョークの音は遠く、教科書の文字はただの黒い記号として頭に入ることもなく目を滑っていった。
ようやく辿り着いた放課後。僕は美術室の扉を開け、使い古された硬い木製の椅子に身体を沈める。
窓の外からは、夏を目前に控えた高い空から、まだ勢いを失わない白っぽい光が降り注いでいた。
部室の隅では、安田さんと室井先輩が持ち寄った大量の漫画を机に積み上げ、熱心に読み耽っている。ポテチを咀嚼する音と共に、抑えきれないような短い声や、乾いたページをめくる性急な音が聞こえてくる。
僕は自分の席でデッサン帳を広げた。研ぎ澄ました数本の鉛筆を机に並べる。練りゴムを指先で細かく千切り、形を整え……そこから先の記憶がぷつりと途絶えている。
「うわっ!」
突き刺すような冷たさが耳元を走り抜け、僕は飛び上がった。横を見ると、中原さんが座っていた。結露して水滴の滴るアルミ缶のサイダーを持っている。
「ああ……びっくりした。心臓止まるかと思った」
「ふふ。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、つい」
一切悪びれることもない、鈴を転がすような声が静かな室内に響く。昨日の夜、鏡から這い出す幽霊を演じていたあの声とは全く違う。僕のよく知っている、美術室の空気に溶け込んだ彼女の明るく柔らかな響きだった。
僕は重たい頭を抱えた。使い慣れた机の上には、一線も引かれていない真っ白なデッサン帳が横たわっていた。描く準備だけを完璧に整えて、そのまま意識の糸が切れてしまったらしい。
視線を部屋の隅にやると、安田さんと室井先輩の姿は、積み上げられた漫画と一緒に消えていた。さっきまでの二人は幻だったのかもしれない。そうじゃなくても、そうだったことにする。あの二人には、常識が何一つ通用しない。深追いして考えるのは無益だ。
「はい、これ差し入れ」
「……ありがとう」
中原さんから手渡されたサイダーの缶は冷たかった。指先に移った水滴が肌を滑り落ちていく。
「昼ご飯の時もずっと眠そうだったもんね。一緒に食べたの、覚えてない?」
「……ごめん。正直、あんまり記憶にない」
「重症だ」
中原さんの声が楽しげに揺れる。僕はプルタブを引き上げた。冷たい液体を一口流し込むと、喉を抜ける痛快な刺激と共に、ぼやけていた視界が少しずつ元の形を取り戻していく気がした。
「夜更かしでもしたの?」
「……昨日、中原さんが話してたドラマを見てたんだ。最後まで」
「え、全部見たの?」
中原さんの声が上擦った。それきり、気恥ずかしさと熱が入り混じったような、居心地の悪い沈黙が美術室に広がる。
「……ど、どうだった?」
平静を装っているつもりだろうが、その問いかけは少しだけ早口で僕の反応を慎重に探るように宙に浮いている。
「面白かったよ。止めるタイミング見失って、気づいたら朝だった」
「ほんと? 嘘じゃない?」
「本当。凄すぎて、少し怖いくらいだった」
「……どのシーンが一番そう思ったの?」
「病室の鏡のところかな」
「えっ、そこ?」
中原さんは肩を揺らし、我慢しきれないといった様子で声を漏らして笑った。
「もっと他にあるでしょ。もっとこう、感動するところとかさ」
「冗談抜きで結構怖かったんだよ。演出もだけど、鏡から這い出してきた時圧が凄すぎて」
「あれホラーじゃないんだけどなあ」
笑いながら言う彼女の声はどこか安心しているようにも聞こえた。自分の演技が正しく誰かに届くというのは役者にとって大切なことなんだろう。
本当は、もっと血の通った感想を伝えたかった。画面の中で彼女が放っていた、魂を削り取って形にしたような演技のこと。泣き出す直前の世界すら止めるかのような絶妙な間の取り方のこと。台詞の語尾に混ざる、消え入りそうな、凛とした吐息のこと。それを言葉にしようとすればするほど、掬い上げた砂が指の間から零れ落ちていくように、形にならない。
あの病室の白い壁、暗い鏡の中に浮かぶ影のような姿。そこにいたのは、僕の知っている中原さんではなかった。声の高さも、言葉の置き方も、纏う空気さえも。別人。その二文字がこれ以上なくしっくりくるほど、画面の中の彼女は僕から遠い場所にいた。
僕が黙ったままサイダーの缶を見つめていると、中原さんは窓際の方へと顔を動かした。
「感想、言いにくいやつ見せちゃったね」
「そんなことないよ」
中原さんはしばらく黙っていた。美術室の開け放たれた窓から、遠くの野球部が発する威勢のいいかけ声が微かに響いてくる。それが、この静止した空間をより一層際立たせていた。
「……でもやっぱり、顔を見てもらえないのはちょっと寂しいかも」
ぽつりと零れ落ちたその言葉が胸の奥を刺した。彼女がどんな瞳をして、どんな唇の動きで今の言葉を紡いだのか。その答えを、僕の瞳は映し出すことができない。
「はい、その顔禁止」
「え?」
「今、たぶん謝ろうとしたでしょ」
中原さんは遮るように手のひらで制した。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
それから、中原さんは何かを思いついたように、美術室の棚の片隅を指差した。
「ねえ、あれも見えないの?」




