ep.11
中原さんが指差したのは、棚の最上段にある、厚い埃を被った石膏像だった。
「……見えない」
僕は絞り出すように答えた。
「石膏像なのに? これ、人間じゃないよ」
「人間じゃなくても、『顔』はダメなんだ」
中原さんは軽やかな足取りで棚へと近づいた。
「じゃあ、近くで見てみようよ。下ろしてあげる」
「……いいよ、重いから。僕がやる」
僕は椅子から立ち上がり、彼女の隣に立った。
棚の奥に手を伸ばし、石膏像を抱え上げる。ずっしりとした重さが腕にのしかかった。それは、僕が抱えている「見えない」という現実の重みそのもののようだった。冷たく、硬く、それでいてどこか脆そうな白い石の塊。僕はそれを慎重に、自分の机の上へと運び、真っ白なデッサン帳の前に置いた。
「見えないなら、触って描けないかな?」
中原さんの突拍子もない提案に、僕は一瞬、自分の耳を疑った。
「触って、描く?」
「凹凸をなぞって、その感覚を鉛筆に乗せるの。神崎くんでも描けるんじゃないかなって」
彼女の言葉には抗えぬ力があった。昨日、ドラマの中で僕を釘付けにした「成瀬雫」が、今の彼女からも微かに漏れ出している気がした。
僕は戸惑いながらも、震える右手を黒く塗りつぶされた石膏像の表面に這わせた。指先に伝わるのは、ざらついた石の質感と冷たさ。
眉間の力強い隆起、深く窪んだ眼窩、固く結ばれた唇の端。指先でなぞるたびに、頭の中に「形」の情報が断片的に流れ込んでくる。けれど、それを画用紙に転写しようとした瞬間、僕の視界は一切の役割を放棄した。
真っ白だったはずのデッサン帳が黒い泥に侵食されていく。石膏像の表面をなぞればなぞるほど、その「正体」を掴もうとすればするほど、視覚的な情報は意味を失い、ただの不気味な黒い空洞へと変わっていく。
「っ……」
呼吸が速くなる。肺に吸い込む空気が足りない。心臓が肋骨の内側を激しく叩き、冷や汗がこめかみを伝った。
手に持った鉛筆が、自分のものではないかのように激しく震える。画用紙の上が、真っ黒な靄で塗りつぶされていく。怖い。何も描けない。恐怖飲み込まれそうになった、その時だった。
「私がいるから、大丈夫だよ」
背後から確かな体温が迫り、僕の身体を包み込むように中原さんの腕が伸びてきた。彼女の細く、しなやかな指が僕の震える右手にそっと重ねられる。
温かい。死者のように冷たい石膏像の温度と、僕を現世に繋ぎ止めるような彼女の手の温もり。そのコントラストに、呼吸を忘れそうになる。
彼女の髪が僕の肩に触れ、あの香水が鼻腔をくすぐる。耳のすぐそばで感じる彼女の吐息。その柔らかさが僕の中に渦巻いていた黒い靄を押し流していく。
「力を抜いて、指先の感覚だけに集中して」
中原さんの手に導かれるまま、僕の鉛筆が動きを見せた。彼女の手には迷いがなかった。僕の指を石膏像に沿わせて動かし、画用紙の上に確かな線を残していく。
すべての感覚が研ぎ澄まされ、彼女という存在を介して、僕の世界が色を取り戻していく。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。日はすっかり傾いて、美術室は深い茜色に染まりつつあった。中原さんがゆっくりと手を離すと、そこには一枚のデッサンが出来上がっていた。
僕は、おそるおそるその絵を見つめた。
……そこに描かれていたのは、誰もが言葉に詰まる、歪な代物だった。
目は左右で高さが違い、唇はどこかあらぬ方向を向いている。鼻のラインも途中で不自然に途切れていた。石膏の凹凸を忠実に追ったはずなのに、出来上がったのは「人間」とは程遠い化け物だった。
「…………」
あまりの出来栄えに、僕は絶望する気力さえ失って、ただ黙り込んでしまった。中原さんはその絵をまじまじと見つめた後、耐えきれないといった様子で声を漏らした。
「……ぷっ、あははは! ごめん神崎くん、最高に面白い!」
彼女はお腹を抱えて笑い転げている。
「見てよ、この口。ひょっとこみたいになっちゃってる!」
「……笑いすぎだよ。せっかく頑張ったのに」
僕は項垂れながらも、不思議と嫌な気分ではなかった。彼女の笑い声が先程までの重苦しい気分を完全に消し去ってくれたからだ。
「でも、綺麗だね。形は……まあ、アレだけど。線の一本一本がすごく優しい」
彼女は笑い声を収め、デッサンの端を人差し指でそっと触れた。歪んだ唇の線のところを一度だけなぞる。
「この絵。……もらってもいい?」
「え? こんな失敗作を?」
「失敗作じゃないよ。神崎くんが『見よう』とした証拠だもん。私にとっては、どんな名画よりも価値があるよ」
中原さんはそう言うと、その画用紙を壊れ物を扱うような手つきで丁寧に折り畳んだ。それを鞄の奥へと仕舞い込む仕草は、誰にも見せたくない秘密の宝物を隠すかのようだった。
窓の外、空の境界線が完全に夜へと移り変わっていく。僕は椅子に座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。彼女の手の温もりがまだ皮膚に残っている。
ふと、脳裏に一つの思考が掠めた。
(普通の恋愛って、もっと簡単なんだろうか)
相手の顔を見て、微笑み返し、流れるように言葉を交わす。ただ穏やかに距離を縮めていく。そんな世界。
なぜ、そんなことを考えたのかは自分でも分からなかった。今の時間が不満なわけではない。むしろ、中原さんと過ごすこの美術室の空気は、僕にとって大切な場所になりつつある。
それなのに、唐突に浮かび上がったその言葉は僕の意識に深く静かな波紋を広げた。
顔が見えないから? それとも、「成瀬雫」の演技に触れてしまったからだろうか。
答えは出なかった。理由も分からず、ただ、自分の中に生まれたその疑問の出処を突き止めることができなくて、僕は少しだけ胸のあたりを締め付けられる感覚を覚えた。
「どうかした?」
帰り支度を終えた中原さんが不思議そうに僕を覗き込んできた。靄に覆われた彼女の髪がわずかに揺れる。
「……いや、なんでもない」
僕は立ち上がり、カバンを肩にかけた。美術室の鍵を閉める音が無人の廊下に冷たく響き渡る。並んで歩き出すと、時折触れそうになる肩の近さがさっきまでの思考を塗りつぶしていく。
校門を出ると、街灯がオレンジ色の光で辺りを照らしていた。僕は十メートル先を歩く彼女の背中を見つめながら、理由の分からないあの問いを脳の底へと深く沈めた。
いつか、意味が分かる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。ただ今は、この不自由な特別を抱えたまま、彼女と同じ夜道を歩いている。その事実だけが僕を辛うじて繋ぎ止めていた。




