ep.12
夜風で少し冷えた手には、まだ中原さんの体温が残っている。自宅に帰るまでの途中、僕は何度か自分の左手を撫でた。それはただの冷え切った僕の肉体でしかない。けれど、彼女のことを思い出すたびに熱を帯びる。
玄関のドアを閉め、静まり返った自室に戻る。僕はその熱を逃したくない一心で、吸い寄せられるように机の前へ向かう。
デスクライトのスイッチを入れると、白い光が机の上に鋭い四角形を映し出した。その光の中にデッサン帳を置く。照らされた紙面が闇の中に浮き上がり、机の隅に置いた鉛筆立てが壁に向かって長く影を伸ばす。
椅子に深く腰を下ろし、一番柔らかい鉛筆を握る。目を閉じれば記憶は鮮明に蘇る。
美術室の石膏像の冷たさ、彼女の手のひらの柔らかな体温、喫茶店に漂っていた、深く焙煎されたコーヒーの匂い。
僕はまず、彼女を囲む「世界」を紙に定着させることにした。
テーブルの上のコーラフロート。分厚いガラスにびっしりと付いた結露がレトロなペンダントライトの照明を反射して真珠のように鈍く光を放つ。
暗い茜色の液体の中で、白いアイスクリームがゆっくりと溶けて混ざり合っていく質感。氷の隙間に閉じ込められた炭酸の泡。それらを、研ぎ澄まされた鉛筆の先が正確に追いかける。
次は、彼女の制服だ。喫茶店の椅子に腰を下ろしたとき、肩口に寄った微かな布の弛み。少しだけ着崩した襟元が作る、ゆるやかな三角形の影。テーブルに置かれた彼女の白い両手。ネイルの表面をなぞる光の筋。細く、しなやかな指先がストローを弄んでいた。
手が動く。揺れる髪の曲線、肩に垂れる一房の毛先もすべて覚えている。
喫茶店の隅に溜まっていた、どこか温かみのある影。彼女が動くたびに、その影が制服の紺色に溶け込んでいく様子を炭素の粉を塗り重ねることで再現していく。
デッサン帳の上に「中原雫」が組み上がっていく。
彼女を包む空気、彼女が触れたもの、彼女を照らしていた光。
――けれど。
いざ、その中心。彼女の「顔」へと鉛筆を向けた瞬間、すべてが止まった。描き込もうとした刹那、さっきまであんなに鮮明だった記憶が、急激に解像度を失っていく。
彼女が楽しそうに声を弾ませていたことは分かっている。驚いて息を呑んだことも、困ったように少しだけ俯いた首筋の角度も、確かにこの身で感じていたはずだ。なのに、それを「線」に変換しようとすると、情報のすべてが指の間から零れ落ちる砂のように形を失ってしまう。
僕は歯を食いしばり、強引に鉛筆を動かした。輪郭はこのあたりだったか。前髪の隙間から覗く肌は、もっと滑らかだったはずだ。
あの日、仮面から一瞬だけ覗いた瞳。
僕の意思に反して、鉛筆の先は紙の表面をただ汚していくだけだった。練りゴムを叩きつけるが、消せば消すほど、そこには顔ではなくただの汚れが蓄積していく。
気づけば、あんなに丹念に描き込んだコーラフロートや制服の中央に、どろりとした黒い淀みが立ち込めていた。あの黒い靄が僕の絵にまで侵食してきている。
「……違う」
僕は呻き、そのページを乱暴にめくった。新しい真っさらで白いページ。もう一度。最初から、彼女の「存在」だけに集中して。
描こうとすればするほど、視界は「彼女の顔」という空白によって塗り潰されていった。
一枚、また一枚と、デッサン帳の白い肌が僕の焦燥と絶望を吸い込んで黒く汚れていく。
これまで、顔を認識できないことは僕にとって、救いのようなものだった。見えなくなった日から、この世界はそういうものなのだと諦めてきた。
見えないものは、無理に見なくていい。描かなくていい。背景を描き、光を描き、空気を感じれば、それで表現は完結する。そうやって欠落した世界と折り合いをつけてきたはずだった。
けれど、今は違う。
描きたい。
中原さんがあのとき、どんな表情をしていたのかをこの手で確かめたい。
「寂しい」と零した唇の形を。
「私がいるから大丈夫だよ」と囁いたときの眼差しを。
僕のすべてを注ぎ込んで、紙の上に留めておきたい。それができないという事実に、喉の奥が焼けるように熱くなった。心臓が肋骨の内側を激しく叩き、肺に吸い込む空気が足りなくなる。
「……っ!」
僕は鉛筆を握りしめ、力任せに紙の上に一線を引いた。ガリッ、と嫌な音がして、芯が折れた。同時に、デッサン帳の表面が荒々しく引き裂かれた。それは、彼女の顔があるべき場所を無慈悲に貫く傷跡だった。
震える手で、そのページを掴んだ。静まり返った部屋に、ビリビリと紙を引き裂く乾いた音が自分の神経を切り刻む音のように響き渡る。
破り取った紙をクシャクシャに丸め、床に投げ捨てた。それでも収まらない。次のページも、その次のページも。
失敗し、黒く汚れ、塗り潰された「彼女の不在」を僕は次々とデッサン帳から剥ぎ取っていった。
足元には、無惨に丸められた白い紙屑が降り積もっていく。描きたいのに、描けない。「彼女を描きたい」と心から願うことが、同時に「自分は彼女を永遠に見ることができない」という現実を突きつける刃になるなんて。
僕に見えている「彼女」は、いつだって中心の欠けた空虚な輪郭でしかない。どれほど僕が手を伸ばしても、その中心にあるはずの色彩を僕の目は拒絶し続ける。
折れた鉛筆の芯が指先に刺さって赤黒く血が滲んでいく。僕はその痛みに縋るように拳を固く握りしめ、呼吸の仕方も忘れて震えていた。
描きたい。
描きたい。
描きたい。
その渇望は声にならずに僕の心の中にこだましていた。丸められた紙屑の中で、彼女の指先や、髪の房が皮肉なほど美しく、僕を見捨てたままそこに転がっていた。
夜が明けるまでには、まだ十分すぎるほどの時間がある。今の僕には、その時間がただひたすらに重く、冷たい絶望の塊にしか感じられなかった。僕はライトを消し、深い闇の中に沈み込んだ。




