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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第三章「陰影」
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13/35

ep.13

 ……強烈なアルコールとタバコの匂いが鼻腔を突く。


 古い畳の湿気た匂いと澱んだ空気が混ざり合っている。


 不意に空間を震わせたのは、低く重苦しい怒声だった。視界が大きく揺れ、僕は不格好に硬い床板へと転がり落ちた。本能的に両腕で頭を庇い、体を小さく丸めた。息を吐く間もなく浴びせられる罵声と、手当たり次第に物が壊される衝撃音。


 理不尽な怒りの波が僕という存在を部屋の隅へと追いやる。抗うことなどできない力の差の前に、僕はただ呼吸を殺し、心が乱暴に引きちぎられるような絶望に耐えるしかなかった。


 暗闇の底で重たい足音が動いた。


 巨大な影が視界を覆い隠し、すぐ頭上から苛立ちを孕んだ舌打ちが聞こえる。


 涙で完全に霞む視界の先、暗がりに巨大な黒い塊が立ちはだかっていた。理性を失い、ただ怒りという本能のままに動く獣のような影が怯え震える僕を楽しげに見下ろしている。


 じっとりと湿った生温かい息遣いが迫る。


 苦しい。


 怖い。


 逃げなければ。


 体は深い泥の底に埋められてしまったかのように指先ひとつ動かない。怪物が荒れた巨大な手を伸ばしてきた。そして、僕の首を絶対に逃がさないと言わんばかりに掴み上げた。気道が塞がれ、無理やり首を持ち上げられる。強制的に、その恐ろしい影の全貌と引き合わされる。


 それは、僕の父だった。


 その絶望的な認識が脳裏に焼き付けられた直後、


 パン、という乾いた破裂音が耳元で響き、頬の表面を鋭い衝撃が走り抜けた。


「……っ!」


 痛みに突き飛ばされ、泥沼のような意識が一気に現実の世界へと引きずり戻された。


 はっと息を吸い込むと、肺を通り抜けたのは酒の臭いでも焦げた肉の匂いでもなく、エアコンの効いた清潔な部屋の空気だった。


 激しく脈打つ視界の焦点が定まると、目の前には、右手を振り抜いた格好のままの怜奈がベッドの縁に座り込んでいた。僕の頬を叩き起こしたその手はそのまま膝の上に下ろされたが、その小さな指先は、小刻みに震えていた。


「いって……普通、ビンタで起こす?」


 現実を確かめるように、僕は叩かれた頬に手を当てた。ジンジンと熱を持っている。


「どんだけ揺らしても、起きなかったから。さく、死んじゃうかと思った」


 震える声を押し殺すようにして彼女は言葉を紡いだ。その声のトーンには底知れない不安が張り付いているのがわかった。


「死ぬ前に……そっちの衝撃で死ぬって」


 冗談めかして言ってみたけれど、僕の呼吸はまだ浅く、声もひどく掠れていた。心臓は暴れ狂っており、背筋から流れ落ちる冷や汗がシーツを湿らせている。


「なんか怖い夢でも見た? ほら、水」


 彼女はベッドサイドのテーブルからペットボトルを取り上げ、僕の方へ差し出した。


 差し出されたペットボトルを震える手で受け取った。キャップを捻る指先にも力が入らない。なんとか口に含み、冷たい水を喉の奥に流し込む。食道を通る冷感が自分が安全な場所にいるのだという事実を少しずつ体に教え込んでいく。


 ペットボトルを離し、息をついて、改めて怜奈の顔を見上げた。


 その瞬間だった。さっきまでの悪夢とは全く質の違う、強烈な悪寒が走る。


 彼女の顔を覆う「黒」が、かつてないほどに濃くなっている。黒に黒をべったりと塗り重ねた黒。すべてを吸い込んでしまうようなその不気味な淀みは、彼女を侵食し、存在そのものを底なしの闇の奥深くへと沈ませていた。


 僕は言葉を失い、ペットボトルを握る手にじわりと力がこもった。この「黒」が何を意味するのか、確たる証拠はない。決して良いことは起きないという直感が警鐘のように脳内で鳴り響いている。


 僕の異変など知る由もない彼女は僕の汗だくの姿を見て、少しだけ呆れたような声を出した。


「めっちゃ汗かいてんじゃん。シーツまで濡れてるし。早くシャワー浴びてきな」


「……うん。そうする」


 僕は視線を逸らし、ふらつく足取りでベッドから立ち上がった。全身に嫌な冷や汗がまとわりつき、着ているTシャツが皮膚にべったりと張り付いてひどく重い。足を踏み出すたびに、膝が頼りなく震えた。


 重い扉を開けて脱衣所に入り、Tシャツを引き剥がすようにして脱ぎ捨てる。


 視線を落とすと、二の腕の皮膚に刻まれた痕跡が目に入る。


 あの夢の中で、父親という名の怪物に押し付けられたタバコの火傷の跡。何年経とうと消えることのないそのケロイドは、今も醜く、赤黒くミミズのように僕の肌の上を這いずっている。


 視線をそらし、浴室に入る。温度調節のレバーを水側に振り切り、蛇口を捻った。シャワーヘッドから勢いよく冷水が噴き出す。躊躇うことなく、その冷たい滝を頭から直接浴びた。


 刺すような水の冷たさが全身を引き締める。脳裏にこびりついて離れない父の形をした怪物の輪郭を洗い流していく。


 指で頭皮を強く擦り、何度も顔を洗い、過去の亡霊を排水溝の奥深くへと押し流そうと必死にもがいた。水滴が全身を伝い落ち、呼吸が次第に落ち着きを取り戻していく。


 それでも。


 どれだけ冷たい水を浴びようと、どれだけ目を強く閉じようと。


 怜奈の顔を完全に飲み込んでいたあの深い闇だけは、水に流されることも薄れることもなかった。それは消えない染みのように、僕の心臓の一番深い奥底に、重たく、冷たく沈殿していた。

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