ep.14
浴室のタイルを叩く水音が止まると、途端に心細い静寂が降りてきた。鏡は結露で真っ白に曇り、僕の顔も水滴の中に隠してくれている。自分の顔すら見る勇気はなく、逃げるように脱衣所へ出た。
湿った髪をタオルの上から適当に揉み、半乾きのまま部屋に戻る。濡れた髪の冷たさが現実と悪夢の境界線をなぞっているようだった。しかし、自室のドアを開けた瞬間、その境界線は呆気なく崩れた。
そこには、僕の日常にはあり得ない光景が広がっていたからだ。
「……え、何してんの」
思わず声が漏れた。画材や本が積み上がっているはずの床が綺麗さっぱり片付いていて、そこに二組の布団が隙間なく並べて敷かれていた。シーツのシワを豪快な手つきで伸ばしていた怜奈が振り返る。
「今日はこっちで寝るの。あんなヤバい感じでうなされてたら、放っておけないし」
「いや、大丈夫だから。だいぶ落ち着いたし。それに、狭いって」
「ダメ。またあんな叫び声出されたら、隣の部屋で私が気になって寝れないっしょ。ほら、四の五の言わずにさっさと入る。拒否権とかないから」
怜奈はなかば強引に僕を布団の端へと追いやり、隣の布団に潜り込んだ。彼女のTシャツからは香水の匂いがほのかに香る。
「またうなされたら、ビンタして起こしたげるからさ。なんなら、トイレも一緒に行ってあげよっか?」
「……いいよ、それは。逆に出なくなるから」
「あはは、ウケる。冗談だって。そんな顔しないでよ」
彼女はケラケラと笑いながら、枕元にあるライトのスイッチに手を伸ばした。天井の照明が消える。部屋は一気に濃い闇に包まれた。
静寂が戻ってくると、冷水で洗い流したはずの悪夢が再び足元からじわりと這い上がってくるのを感じた。
暗闇の中、怜奈が口を開いた。
「ねえ。さっき、どうしたの?」
怜奈の声から、先ほどまでのふざけたトーンが消えていた。湿り気を帯びた、夜の底に沈んでいくような低い声。僕は暗闇を見つめたまま重い唇を動かした。
「……あいつの夢」
隣で、怜奈が息を呑む気配が伝わってきた。
「最悪じゃん。よりによってあいつなの」
「はっきり見えた。目も、口も鼻も全部。……でもさ、おかしいんだよ。目が覚めたら、怜奈の顔は見えなくて」
僕は自分の顔を両手で覆った。自分の皮膚の乾ききった感触がする。
見えるのは、消し去りたい過去の怪物の顔だけ。僕を愛してくれる人も、僕が守りたいと思った人も、その輪郭の中心にはいつも底なしの闇が居座っている。画家として生きたいと願いながら、その先にある色彩を僕の目は拒絶し続けている。
「中原さん……、この間のドラマに出てた同級生を描こうとしたんだ。でも、ダメだった」
喉の奥が、じわりと熱くなる。
「……もう、壊されたままなんだよ」
自嘲気味に溢した言葉が暗い部屋の中に虚しく消えていく。長い、長い沈黙が流れた。外を走る車の走行音が遠くで響き、部屋の時計が時を刻む小さな音が僕たちの間に滑り込んでくる。やがて、衣擦れの音がして、怜奈が僕の方に身体を向けた。
「あのさ、さく。今まで言わなかったけど。っていうか、言う必要ないと思ってたんだけどさ」
怜奈の声は、どこか遠くを見つめているような、不思議な響きを湛えていた。
「私も同じだったんだよ」
予期せぬ言葉に僕は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。暗闇に慣れた瞳が彼女のいるはずの場所を探る。
「……怜奈も、見えなかったの?」
「うん。誰の顔を見ても、のっぺらぼうっていうかさ、ただの肉の塊にしか見えなかった。コンビニの店員さんも、学校の先生も、さくの顔だって。マジでこの世の終わりだと思ったよ」
怜奈は自嘲するように小さく笑った。いつも強気で、何事も楽しそうに笑い飛ばしている姉の口からそんな言葉が出るなんて思いもしなかった。
彼女が髪を明るく染め、派手な爪と香水で飾るようになったのは、自分自身を少しでもこの世界に繋ぎ止めるための抵抗だったのかもしれない。
「……それだけじゃないし。今だって、完全に治ったわけじゃないんだよ」
「え……?」
「ストレス溜まったり限界きたりすると、信号の赤とか、コンビニの看板とか、全部灰色になるんだよね。色がどっか行っちゃうの」
怜奈の声は震えてはいなかった。
「完全に元通り、なんて嘘。私は今でも、そういう『無理』を抱えたまんま、毎日笑って、生きてるから」
暗闇の中で、怜奈の存在がいつもよりずっと大きく、そして脆く感じられた。僕だけが暗闇に閉じ込められていると思っていた。僕だけがあの男の呪いに縛られているのだと。
けれど、彼女もまた、僕と同じように欠けた世界を歩んでいたのだ。それを僕に見せず、僕の手を引くために、ずっと仮面を被り続けて。
「だからさ、わかるよ。どれだけさくが不安で怖いのかも、知ってるよ」
怜奈の手が布団の上から僕の腕を探し、見つけると、痛いくらいの強さでぎゅっと握りしめた。その指先は少し冷えていたけれど、伝わってくる力強さが僕の崩れかけた心を固く繋ぎ止める。
「でもね、さくは幸せになっていいんだよ。全部が完璧に治らなくたって、人生は続くんだし」
彼女の声が鮮やかに刻まれていく。
「人の顔が見えなくたって、ちゃんと心を通わせることくらいできる。顔が見えないから描けないなんて、そんなの誰が決めたわけ? さくが感じてるその熱とか、匂いとか、声とか……全部ぶつければいいじゃん」
怜奈の言葉は乱暴だった。僕の心臓の奥にある、ずっと閉ざされていた場所を土足のまま踏み抜いてくるみたいに。心が弱りきった今、その荒々しさが心地良いと思ってしまう。
「あのくそったれに壊されたまんまで人生終わるとか、だるいじゃん」
その言葉と一緒に、握る力が少しだけ強くなる。
「絶対、さくも前に進めるから。私が保証する。……だからさ、もう安心して寝な」
握られた手の温もりが心の中に沈殿していた毒を少しずつ中和していくようだった。僕は何も答えられず、ただ怜奈に握られた腕に意識を集中させた。
左手にまだ微かに残る、中原さんの春の陽だまりのような柔らかな熱。そして右手を力強く掴んでいる、姉の不器用で誇り高い熱。二つの異なる温度が冷え切った僕の肉体を、内側からゆっくりと溶かしていく。
夜が明ければ、またあの真っ黒な靄が支配する世界が始まるだろう。人の顔は判別できず、僕は迷子のように立ち尽くすのかもしれない。けれど、この静かな暗闇の中で二つの温もりに守られながら、僕はほんの少しだけ、明日という時間を拒絶せずにいられる気がした。
「……ありがとう、怜奈」
小さな声で呟くと、「おやすみ」という少し照れくさそうな声が返ってきた。僕はゆっくりと目を閉じ、穏やかな眠りの淵へと、静かに深く沈み込んでいった。




