ep.15
打ち下ろすような蝉時雨が聞こえる。それは規則的な波となって鼓膜の奥に突き刺さり、思考の端々にまで滑り込んでくる。
開け放たれた窓から流れ込む風は、ちっとも涼しさを運んでこない。代わりに、運動場から舞い上がる乾燥した砂の混じった不快な熱風と、プールの塩素の匂いを教室に充満させていく。クラスメイトたちは机に突っ伏したり、下敷きで生ぬるい空気をかき回したりして、ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。
視界の隅でゆらゆらと揺れる陽炎のせいで、窓の外の世界そのものが歪んで溶け出しているように見えた。
このまま全てが夏の重力に捕まって、底抜けの青い空に溶けていく。二度と呼吸の仕方を思い出せないまま、そこから永遠に抜け出せなくなる。黒板の前で口を動かしている教師の単調な声を遠くに聞きながら、僕はそんな妄想をしていた。
怜奈は一週間の帰省を終え、数日前に元の仕事に戻っていった。滞在中は昼夜逆転の生活で家中を散らかし、梓さんを呆れさせながらも、嵐のように去っていった。
夜、彼女が派手なヒールを鳴らして出かけていく音を、自室の暗闇の中で聞いた。あの悪夢の夜、彼女が僕の隣で眠ってくれたあの日以来、父親という怪物の夢を見ることはなかった。
けれど、代わりに僕の視覚を蝕む黒い靄はさらに密度を増しているようだった。中原さんの顔も、怜奈の顔も、朝起きて洗面台の鏡に映る自分の顔でさえも。重苦しい墨だまりのように、そこにあるべき輪郭を侵食し続けていた。
「進路希望調査票、配るぞー」
朝のホームルーム。担任が教卓を叩き、気怠さに沈んでいた教室に声を張り上げた。前列から後ろへと、カサカサと乾いた音を立ててプリントが回ってくる。
「金曜の放課後が最終提出期限だ。いいか、三者面談前の大事な資料になる。親御さんとよく話し合って、第一希望から第三希望まで、ちゃんと埋めてこい。適当に書くなよ」
僕の机に回ってきたプリントは、真夏の容赦ない光を反射して、目に痛いほど白かった。将来の自分を定義し、何者かになろうとするための、真っさらな空白。シャープペンシルを手に取ったまま、僕はその空白をじっと見つめる。
美大。
一瞬、脳裏を掠めたその言葉を、僕は無意識のうちに塗りつぶした。付属の大学の名前で、三つの枠を順番に埋めていく。
怜奈は「学費なら私が出すから、好きなとこ行きな」と言ってくれた。彼女がどれほどのプレッシャーと戦い、身を削って稼いできたお金なのか、僕は知っている。だからこそ、それを自分の呪いを再確認しに行くような場所に使わせたくなかった。
人の顔が見えない僕が美大に足を踏み入れる。他人の顔を捉えられない僕が、キャンバスに向かって人物を描こうとする姿は、筆を握ることさえ罪に思えるほど惨めで滑稽に映るはずだ。そんな毎日に耐えられる自信はなかった。
その未来を書かせようとする白い紙を折り畳み、カバンの奥底に押し込んだ。退屈な授業を終えたいつもの美術室。古びたエアコンは唸り声を上げているだけで、室温を下げる役目をほとんど果たしていない。空の青さを切り取ったような窓からは、角ばった強い光が差し込んでいた。
室内には、僕と中原さんの二人だけ。激しい陽光が、僕たちから黒い影を切り出して床に並べている。筆を動かす僕の影と、椅子に深く腰掛けて項垂れる彼女の影。
無心にキャンバスの地色を殺していると、隣で彼女が小さく溜息を吐いた。
「……ねえ、神崎くん。私、向いてないのかな」
彼女の声のトーンはいつもの快活さを失い、ひどく沈んでいる。
「何が」
筆を止めずに、僕は応えた。
「オーディション。また落ちちゃった。最終まで残るとさ、勝手に期待しちゃうじゃん」
「……そっか」
「監督さんの反応、悪くないと思ってたんだけどな」
椅子がぎしりと鳴った。僕には彼女がどんな顔をしてその言葉を吐き出しているのかは分からない。けれど、少し掠れた声の響きや、衣擦れの音から、彼女の落胆が伝わってくる。
「……昨日のドラマ、見たよ」
僕はキャンバスに視線を向けたまま、筆を握る手に力を込めて言った。昨晩放送された、彼女が「成瀬雫」として端役で出演する恋愛ドラマだ。
「え、見たの?」
中原さんの声が少しだけ小さくなった。
「うん。……たまたまだけど」
「最悪。……きもかったでしょ? 自分でも見てられなかったんだけど」
ヒロインの友人という立ち位置で、画面のどこにいても愛想を振りまく、クラス中から好かれる「あざとい女の子」の役柄だった。
「いや、大変そうだなと思って」
「大変?」
「うん。声のトーン、いつもよりずっと高かったし。息の吸い方とか、笑い声の立て方とか、全部計算してるみたいだったからさ。わざとあざとく演技ができるのって、すごいことなんじゃないかなって」
「……」
しばらくの間、隣から返事がなくなった。
「神崎くんの感想って、ときどき変」
やがて、中原さんが小さく笑い声を漏らした。声にいつもの張りが戻った気がした。
「ごめん。変なこと言ったよね」
「ううん、ありがと。みんな『可愛かった』としか言わないから。……ちゃんと見ててくれたんだなって、なんか安心した」
上履きが床を叩く音がして、彼女が立ち上がる。
「あーあ。夏休みか」
彼女は窓の外で白く輝く積乱雲を見上げていた。
「嬉しくないの?」
「レッスンとかオーディションばっかりだしね。周りが遊んでるの見ると、羨ましいんだよね。神崎くんは?」
「家で絵を描くくらい。いつもと変わらないよ」
「いいな。そういうのが一番羨ましい」
彼女は窓に深く寄りかかり、ため息をついた。その音は、ドラマの中で演じていた女の子のものではなく、ただ疲れ果てた、等身大の十七歳の少女の弱音だった。
「……一日くらい、夏っぽいことしたいな」
「夏っぽいこと?」
「うん……あ、あの喫茶店、夏だけラムネフロートやってるんだって。グラスの中が真っ青で、上にアイスが乗ってるやつ。……今日この後、付き合ってよ。二人で夏休みの作戦会議」
逆光の中で、その細いシルエットが眩しく縁取られていく。光の加減で、黒い靄が一層濃く浮き彫りになる。
手を伸ばせば届くような距離。近づけば近づくほど、彼女の「顔」が見えないという現実が、僕の心を鋭利に抉る。
「……いいよ。ラムネフロート、飲もう」
まっすぐに彼女の方を見ることができなくて、窓の外の青空へと逃がした。




