ep.16
駅へと続く緩やかな坂道。白く灼けたアスファルトの上をつかず離れず、いつものように十メートルの距離を保ったまま歩いていく。僕の視界の先では、中原さんの細い肩と絹のような黒髪が歩調に合わせた一定のリズムで揺れていた。
じりじりと肌を焦がすような日差しが降り注いでいる。照り返しの熱が靴底を突き抜け、足の裏からじわじわと体温を上げていく感覚があった。
僕はもう、その背中を追いかけるだけの歩き方に、すっかり慣れきっていた。いつの間にか、隣を並んで歩くということすら考えなくなっている。
夏に染まった駅前は肺の奥まで焦がすような熱気と、行き場のない喧騒に満ちていた。息を吸い込むたび、埃っぽい空気とアスファルトが焼ける匂いが混ざり合った熱い塊が、喉元を通り過ぎていく。
制服姿の生徒たち、買い物帰りの人々、足早に通り過ぎる会社員。そして、蝉の鳴き声に負けじと絶え間なく交わされる話し声や、遠くで響く踏切の警報音。
無数の音と色が混ざり合い、一つの巨大な生き物のように蠢いている。人の流れは川のように、駅の改札という河口に向かって、ゆっくりとうねり続けていた。
混濁した人混みの中で、僕は中原さんの背中を見失ってしまった。
ほんの一瞬、信号待ちの車の列に視線を逸らしただけのつもりだった。しかし、再び前を向いたとき、彼女の姿はどこにもなかった。
姿を求めて視線を彷徨わせ、反射的に彼女の名を呼びそうになる。けれど、この雑踏の中で大声を上げ、彼女を呼び止めることなんてできはしない。
絶え間なく流れる人波に肩をぶつけられながら、僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
けれど、彼女はすぐに見つかった。
駅ビルの巨大な日陰。ガラス張りのエントランスに沿って落ちる濃い影の一角に、小さな人だかりができている。
中原さんはその中心にいた。すでに数人の女子高生たちに半ば囲まれるような形になり、黄色く浮き足立った歓声を浴びていた。
「あれ、成瀬雫じゃない?」
「えっ、マジじゃん。顔ちっさ」
若いカップルがひそひそと声を潜め、僕の横を通り過ぎていく。
中原さんは詰め寄るファンたちに対して、丁寧な、それでいて決して一定のラインからは踏み込ませない絶妙な物理的で心理的な距離感を保っていた。差し出された手には流れるような無駄のない動作で応じ、高く透き通った、よく通る声で言葉を紡いでいる。
僕は街灯の影で立ち止まり、その光景をただ黙って眺めていた。数メートルしか離れていないはずなのに、彼女の周囲だけが目に見えない分厚く透明な膜で完全に隔てられた、舞台の上にあるように見えた。
やがて、偶然の遭遇に興奮を隠しきれない様子の少女たちは何度も振り返りながら、波が引いていくようにそれぞれの目的地へと去っていった。駅前には何事もなかったかのように再び無機質で雑多な日常の喧騒が戻ってくる。
ファンたちの姿が完全に雑踏に紛れた途端、中原さんの華奢な肩から憑き物が落ちたようにふっと力が抜けた。ピンと張っていた背筋がわずかに丸まり、首の角度が下がる。彼女はスニーカーのつま先をぼんやりと見つめたまま、微動だにしなくなった。
ポケットの中でスマートフォンが短い振動を刻んだ。画面を開くと、短い文字列が浮かび上がる。
『ごめん。待った?』
ディスプレイの中で淡く光るその文字からは先ほどまでの出来事の熱量は微塵も感じられない。ごく普通の、待ち合わせに少し遅れただけの友人が送ってくるようなありふれたメッセージ。僕は震える指先でキーボードを叩く。
『大丈夫だよ お疲れ』
送信ボタンを押すとすぐに既読のサインがつき、クマのキャラクターのスタンプが送られてくる。
顔を上げると、彼女が再びゆっくりと歩き出すところだった。僕もそれに合わせて足を踏み出す。再び、十メートルの距離が、僕たちの間に生まれた。
さっきまでの光景が本当に同じこの駅前で起きていた現実の出来事なのか、僕にはなんだか曖昧なものに思えてきた。夏の暑さが見せた幻覚だったのではないか。そう思いたくなるほど今の彼女の背中は小さく、どこにでもいる普通の少女のそれと何ら変わりがなかった。
けれど、胸の奥で早鐘を打つ鼓動だけはあの瞬間の彼女の美しさをどうしても忘れさせてはくれなかった。その背中に触れようとしても、指先はきっと届かないのだと。そんなことまで思ってしまうほどに。
僕たちはそのままの歩調を保ち、目的地のあの喫茶店へと向かっていく。駅ビルの巨大なガラス窓に、離れて歩く僕らの姿が淡い黒い影となって滑るように映り込んだ。
同じ目的地を目指して歩いている。同じ時間、同じ空気を共有している。それなのに、けっして重なることのない二つのシルエット。僕が歩幅を広げれば、彼女は気づかないふりをして歩幅を広げ、僕が立ち止まれば、彼女もまた立ち止まる。
この距離はやがて喫茶店の狭い店内へ、そのまま持ち込まれていく。そこへ持ち込まれたとき、この距離がどう壊れてしまうのか。僕は熱い息を吐き出しながら、ただ彼女の揺れる黒髪を見つめ続けていた。




