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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第四章「剥落」
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17/35

ep.17

 カランカラン、と乾いた鈴の音が静まり返った店内に響いた。


 カウンターの奥から、マスターがゆっくりと顔を出した。僕たちの顔ぶれを見て、布巾で拭いていたグラスを置いた。


「いらっしゃい。……おや、雫ちゃん。今日はまた、アイスコーヒーかい?」


 その言葉には明らかなからかいのニュアンスが含まれていた。いつぞやの彼女が、背伸びをして注文したブラックコーヒーに撃沈したことを指す。


「……今日は、そういう気分じゃないので」


 中原さんの声は低く、拒絶の色を含んでいた。マスターは「そうかい」と笑って、手際よく準備を始めた。


 僕たちは窓からの光が届かない、少し離れた奥の席に座った。


「ラムネフロート二つ、と……クロックムッシュも二つで」


 彼女はメニューを広げることもなく、マスターに注文を告げた。マスターが「はいよ」と短く返してキッチンの方へ消えると、再び店内に静寂が戻ってきた。


「クロックムッシュって何」


 有無を言わさず注文された、聞きなれない異国の名前が気になる。僕は沈黙を埋めるように聞いた。


「ここの名物なんだけど、食べれば分かると思う。ほんと美味しいから」

「へえ」


 やがて運ばれてきたラムネフロートは切り取られた夏空そのものだった。グラスの底には青空を閉じ込めたような優しい水色のシロップが沈み、その上を透明な炭酸水が満たしている。グラスの頂には入道雲のような丸いアイスが浮かんでいた。


 後からクロックムッシュが届く。ずっしりとした厚切りのトースト。その表面を覆い尽くしているのは、こんがりと焼き固められたベシャメルソースと溶けたチーズだ。その上には、粗挽きのブラックペッパーが散らされている。


 僕は添えられていたナイフを手に取り、厚手のトーストに刃を入れた。ザクッ、という小気味よい音がして、熱い蒸気がゆらりと立ち上る。一口運ぶと、ベシャメルソースの濃厚なコクとチーズの塩気、そしてブラックペッパーの刺激が口の中に広がった。


ジャンクなのにどこか上品な味わいだった。気がつけば、二人とも無言になって口を動かしていた。


 お互いに皿を空にする頃には、額に滲んでいた汗もすっかり引いていた。熱を帯びていた口内を落ち着かせるように、僕はラムネフロートへ手を伸ばす。



「……ちょっと、疲れた」


 中原さんの声からは先ほどの刺々しさが薄れ、代わりに年齢相応の頼りなさが覗いていた。


「ここに来ると、外のこと忘れられるの」


 彼女はそう言って、細いストローからゆっくりと青い液体を吸い上げた。店の奥でカチカチと時を刻む古い柱時計の音が、僕たちの沈黙を静かに埋めていく。


「ねえ、神崎くん。進路のこと、もう決めたの?」


 彼女が、アイスを細長いスプーンですくいながら聞いた。


「……いや。まだ、迷ってる」

「神崎くんなら、美大に行けると思う」

「無理だよ」


 遮るように僕は言った。


「なんで? 才能あるのに」

「……試験に、人物デッサンあるから」


 僕は空になった自分のグラスを見つめたまま答えた。


「顔が見えるなら、多分選んでるよ」


 もし、顔が見えるなら。こんなことで迷わなかったのに。


「でも、慣れれば描けるようにならないの? この前だって……」


 あの日の光景が蘇る。放課後の美術室。彼女は僕の手をゆっくりと導き、石膏像の額に触れさせた。ひんやりとした石膏の感触。額の広さ、鼻梁の線、唇の起伏。見えないものがゆっくり形になっていった。


 彼女に左手を預けたまま、僕は右手の鉛筆を走らせた。あの瞬間だけは、僕は「顔」を描くことができたのだ。


 彼女がいなかったら僕は──。


「……中原さんには分かんないよ」


 中原さんの指先がグラスの縁で止まる。


「分かろうとはしてるよ」


 消え入りそうな、けれど確かな重みを持った声だった。


「……全部は無理でも、一緒に考えたいと思ってる」


 彼女の優しさが、今の僕には息をさせてくれないほどに重たい。


「僕は、中原さんみたいに前には進めないから」


 無意識にやすりのような言葉がこぼれ落ちる。その言葉を吐き出した瞬間、中原さんの指先が微かに震えた。


「……私だって、進めてないよ」


 中原さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、溶けかけたアイスをスプーンで崩すこともなく、視線を落としたまま動かない。


 ……僕が言葉で彼女を傷つけるのは、これで一体何回目だ。


 二人とも、次の言葉を探そうとしなかった。


 店を出ると、外はまだ西日が暮れないまま、淀んだ熱を帯びていた。冷房で鈍っていた汗が一気に吹き返してくる。


 ドアのすぐ脇で中原さんが足を止めた。彼女は僕の方を見ようとはせず、ただ自分のつま先を見つめている。


「ごめん、事務所寄らなきゃだから」

「……うん」


 短く、それだけを告げると、彼女はいつもとは逆の方向──華やかなメインストリートの方へ振り返ることもなく、歩き去っていく。


 僕はその背中を引き止めることはしなかった。


 喧嘩をしたわけでもないのに、僕たちは互いに背を向けたまま歩き出した。

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