ep.18
終業式の昼休み、クラスの入り口に現れたのは奏多だけだった。
「おつかれぃー」
奏多は右手に持ったビニール袋を小さく揺らしながら、僕の席へと歩み寄ってきた。前の席に、腰を下ろす。
「雫ちゃん、仕事で休みだってよ。芸能人って、ほんといそがしーのな」
奏多の声は、いつものようにどこか他人事だった。
「……そうなんだ」
机の木目に視線を落とすと、そこには誰かが彫刻刀で付けたような、細い傷跡が白く残っている。
奏多は袋から焼きそばパンを取り出し、無造作に包装を破った。それ以上、彼は中原さんの話題を深掘りしようとはしなかったし、僕の反応を詮索するような仕草も見せなかった。
ホームルームで、担任が黒板に連絡事項を書き連ねている間も、生徒たちの意識はすでにここにはなかった。
「旅行、どこ行くの?」
「花火したい」
「補習だりいなぁ」
あちこちで言葉の破片が散らばっている。最後の挨拶が終わった瞬間、椅子が床を擦るけたたましい音が重なった。
いつもなら、このまま廊下を出て階段を上がり、美術室の扉を開けるところだった。
「……誰もいない、しな」
呟いた言葉は誰に届くこともなく自分の耳へと戻ってきた。僕は美術室に向かおうとしていた足を止め、そのまま昇降口へと向かう階段を下りた。
そうして、僕の夏休みが始まった。
昼と夜の境界が曖昧になっていた。学校から出された宿題を義務的にこなし、気の進まないまま絵を描き、眠れないまま朝を迎える。そして昼過ぎに起きる。その繰り返しだった。
部屋の隅では、扇風機が首を振りながらカタカタと小さな摩擦音を立てていた。その生ぬるい風が吹くたびに、机の上に開かれたままのデッサン帳のページが、ぱらぱらと頼りなく乾いた音を鳴らす。
僕は鉛筆を握り、窓の外の景色に視線を向けた。幾重にも交差する黒い電線、直射日光を浴びて白くひび割れた隣家の屋根、その遥か向こうで沸き立つ巨大な入道雲。
電線の直線。屋根の瓦の重なり。雲の陰影。
景色は僕の目を裏切らない。
描き進めるうちに、電線の下、陽炎が揺らめく無人の路地。そこに、僕は一つの「人影」を描き加えようとしていた。
細い肩のライン。少し長めの髪が夏の風に揺れる軌跡。鉛筆の先がその人物の首筋のあたりまで達した瞬間――僕の指先がピタリと止まった。
顔。
デッサン帳の上でその人物の顔の部分だけが白い紙の地肌のまま、ぽっかりと取り残されていた。
僕は握っていた鉛筆を机の上に転がした。カラカラと軽い音がして鉛筆は転がり、数学の参考書にぶつかって止まった。
『科学部で花火大会行くけど、朔も来る?』
七月の終わり、奏多から花火大会の誘いが来た。
『ごめん。ちょっと最近忙しくて』
そんな嘘が通用しないことくらい、奏多なら分かっているはずだ。数秒の後、『りょーかい』とだけ返ってくる。
スマホを机に戻した、その時だった。別の通知が滑り込む。
『成瀬雫、新作映画出演決定』
反射的にその画面を押しそうになる。けれど、やめた。知ったところで何になるんだ。
何も変わらないまま、八月になった。窓の向こうから聞こえる蝉の鳴き声は日を追うごとにその切迫感を増していた。彼らは僅か一週間という寿命を鳴くことに捧げる。それに比べて、僕はどうだと思う。
夜のことだった。麦茶を取りにリビングへ降りると、梓さんがつけっぱなしのテレビをぼんやりと眺めていた。
聞き覚えのある声がテレビのスピーカーを通して耳に飛び込んできた。
中原さんが主演のドラマが始まっていたのだ。
顔は見えなくても声だけで分かった。春から何度も隣で聞いてきた声だ。それが今、液晶の向こう側から、何百万という人間に向けて発信されている。
『初めて主演のドラマやるんだ』、と彼女が微かに弾んだ声で言っていたのを思い出す。あの時の僕は、どう答えただろうか。彼女のその大きな一歩に気の利いた言葉一つかけられなかったのではないか。
気づけば、一時間という枠を最後まで一言も発さずに見入っていた。主題歌と共にエンドロールが流れ、クレジットされた『成瀬雫』という四文字の活字が、何よりも色濃く見えた。
彼女は今、僕からどうしようもなく遠い場所にいる。
数日後、画材を買い足すために駅前へ出た。逃げ込むように駅ビルの書店に入ると、冷えた空気が火照った身体を包み込む。
美術書のコーナーへ向かおうと通路を歩いていた時、平台に平積みされた女性向けファッション誌の束が視界の端を掠めた。
『今季大ブレイク女優 成瀬雫』
表紙に大きく踊るその見出しを脳が認識するより先に僕の足は止まっていた。
壊れ物を扱うかのように、そっとその雑誌を手に取った。そのままレジへ持っていくことはどうしてもできなくて、戻した。別の本を見るふりをして数分をやり過ごし、周りに人がいないことを確認してから、もう一度その雑誌を手に取る。
ページをめくると、中盤に彼女の特集が組まれていた。誌面には僕の知らない「成瀬雫」としての言葉が行儀よく並べられていた。
『最近お気に入りの場所は?』
── 昔ながらの喫茶店。静かなところが好きです。
その一文を読んだ瞬間、記憶の蓋が開いた。いつかの放課後、少し背伸びをして頼んだブラックコーヒーの苦さに撃沈していた彼女の姿。
そして、すぐにそんな個人的な記憶を全国誌のインタビューと勝手に結びつけたことを後悔した。別の喫茶店かもしれないのに。……別の誰かと行っているかもしれないのに。
ふと、一つの質問に目が止まった。
『最近、ハマっていることは?』
── 和歌です。古典の授業で見て、素敵だなって思ってハマりました。恋愛漫画より好きです。
『一番好きな和歌は?』
── 小野小町の詠んだ、「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」です!
古典の授業で見た、と言っている。彼女も同じ高校の生徒なのだから、同じ時期に同じ教科書でその歌に触れたはずだ。それでも、誌面の中の中原さんはもう僕の全く知らない遠い場所で、僕の知らない感情を抱いて生きていた。
♢♢♢
夏休み最終日。
気がつけば、あれほど鬱陶しかった蝉の声もいつの間にか秋の虫のものへと変わりつつあった。
夕暮れ時の自室。開け放った窓からは昼の熱をまだ僅かに孕んだ生ぬるい風が流れ込んでくる。机の上には古典の教科書が無造作に放り出されていた。
机の上のスマホが震える。美術部のグループラインだった。
『県コンクール、先生が部から一人出せって』
室井先輩からのメッセージに続いて、安田さんたちが次々とスタンプや短い言葉を投下していく。
『神崎しかいないじゃん』
『だね。神崎よろしく〜』
『頑張れ!次期部長!』
通知がポポン、ポポンと軽快な音を立てて増えていく。僕が選ばれることは最初から決まっていたようなものだ。けれど、そこに喜びもプレッシャーも湧いてこない。
「了解です」と打とうとして指が止まった。結局何も文字を打ち込めず、そっと返信欄を閉じる。
そのまま画面をスリープさせようとした指先が止まった。トーク一覧画面。中原さんの名前があった。
表示されている日付は夏が始まる前のままだった。こんなふうに距離が開いてしまうなんて、想像もしていなかった。
いや、本当は少しずつ開いていく距離に気づいていながら、見て見ぬふりをしていただけかもしれない。
トークルームを開く勇気はなかった。今の僕から彼女にかける言葉なんて、何一つ見つからなかったからだ。
僕たちは同じ街にいるはずだ。それなのに、彼女はどうしようもなく遠い場所にいる。




