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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第五章「補彩」
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19/35

ep.19

 二学期、最初の日。


 風が少し冷たく、遠くの木立から聞こえるセミの声は力を失っている。夏と秋の境界線はどこにあるんだろうか。


 始業式が終わった教室は久しぶりに再会した生徒たちの発する熱気と湿っぽさで満ちていた。飛び交う笑い声が僕の鼓膜の表面を滑り落ちていく。


 別クラスにいる奏多の姿は今朝の昇降口にも、体育館での列の中にもなかった。


 朝、スマホの画面に届いた、


『わりい熱出た』

『今日休むわ』


という短い二つのメッセージ。


 返信を打つ指がなんだか重たく、僕はただ『お大事に』という文字だけを送信して画面を伏せた。


 昼休みのチャイムが鳴り響いた途端、教室内が騒がしく動き出す。いつもなら奏多がやってきて「学食行くぞ」と僕の机を叩く時間だ。


 一人で学食に向かう気にはなれず、僕はカバンから小銭入れを抜き取って席を立った。


 二階の購買はすでに生徒が押し寄せていた。一番手前にあった適当なサンドイッチとお茶を掴み、硬貨を落として早々にその場を離れた。


 きしむ階段を上り、薄暗い廊下を進む。足は自然と美術室へと向かっていた。そこへ行けば何かが許される気がした。


 美術室の扉の前に立つ。ドアノブに指を伸ばしかけた。けれど、その指先が触れる寸前で、僕の動きは止まった。


 もし、中に中原さんがいたら。


 放課後でもないこの時間に彼女が来ている確率は低い。それでも、僕の指先はそれ以上動かなかった。


 夏休み前のあの気まずい空気のまま、彼女と二人きりになったらどんな声をかければいいのか。


 扉を開ける勇気を持てないまま、その場を離れる。


 行くあてを失った僕は、旧校舎へと足を向けた。古い書庫や備品が押し込まれているだけの場所で、生徒も教師も滅多に近づかない。


 ひび割れたコンクリートが、剥き出しになった廊下を進む。突き当たりにある、重い鉄扉を押し開けると、ギイ、と錆びついた音を立てた。


 階段を登って踊り場へと出る。僕は階段の光の届かない段の一つに腰を下ろした。


 コンクリートの冷たさが体温を奪っていく。目の前には、錆が浮いた手すりが伸び、鉄の香りがする。


 膝の上で袋を開け、サンドイッチを一口かじる。


 パサパサとした食感だけが口の中に広がり、いくら咀嚼しても一切の味を感じられない。お茶で無理やりそれを胃へと流し込んだ。


 これが、本来の僕の生活だったはずだ。奏多がいなければ、あの美術室がなければ、中原さんという存在がいなければ。僕はただこうして、誰の記憶にも残らない時間を消費していくだけだったはずだ。


 二口目のパンを口に運ぼうとした、その時だった。


 ギイ、と鉄扉が軋んで開く音が聞こえた。


 見回りの教師だったら相応めんどくさいことになる。立ち上がり壁の影に身を隠そうとしたが、足音はすでに階段を上り始めていた。


 階下から迫ってくる音に僕の心臓が脈打ち始める。身体の奥にある感覚がその音の主を理解していた。


 最後の一段を踏みしめる音が響き、踊り場に姿が現れた。


 一番会いたくて、一番会いたくなかった人。


 肺が、凝固したように動かなくなる。


 彼女は、僕の姿を見た瞬間、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。真っ直ぐに近づいてきて、手が届きそうな距離でピタリと足を止めた。白いブラウスの肩口は乱れ、少し息切れをしている。


「……なんで」


 彼女はすぐには答えなかった。視線が僕の足元から、手にある食べかけのサンドイッチ、そして僕の顔へと移動していく気がする。張り詰めた沈黙の中、彼女は言葉をそっと置くように言った。


「探した」


 その一言が、踊り場に吸い込まれて消えた。彼女はスカートの裾を押さえながら、僕の隣に腰を下ろした。コンクリートに直に座ることを少しも躊躇う様子はなかった。


 すぐ隣で布の擦れる音がする。少し身体を動かせば、制服の布同士が触れそうだった。彼女の香水の香りがこの場所に漂っていた鉄の匂いを静かに覆い隠していく。


 学食にも、教室にも、美術室にもいない僕を彼女はこの広い校舎の中を歩き回って探し出したのだ。あの気まずさを抱えたまま、どれだけの時間をかけて。


 その事実が、僕の胸を静かに締め付けた。


 ここでは風が雑木林を揺らす音と、僕たちのわずかにズレた呼吸の音しか聞こえない。


 口の中がカラカラに乾いていた。どんな言葉を口にすればいい。彼女は何も言わず、膝を揃えて両手を重ね、ただ前を見つめていた。


「……怒ってないから」


 中原さんが言った。棘はなかったけれど、明確な温もりもない声。


 ただ、その事実だけを僕の前に差し出していた。夏休み前の、あのぎこちない別れ方についても、今日僕がここに隠れていたことについても。


「……ごめん」


 僕の短い謝罪は風の音に掻き消され溶けていく。


 中原さんはすぐには返さなかった。


 風が止み、一瞬の無音が踊り場を支配する。彼女は重ねていた手を解き、両腕で自分の膝を深く抱え込んだ。


「……私の方こそ」


 消え入りそうな声だった。まだ何かが言葉の裏に残っている、後悔とも躊躇いともつかない揺らぎ。


 僕は、手の中のサンドイッチを静かにビニール袋に戻した。


「美術室、また行ってもいい?」


 中原さんが膝を抱えたまま言った。その声のトーンは、さっきよりも少しだけ柔らかさを帯びていた。


 彼女もまた、美術室の扉を開けることができなかったのかもしれない。


「うん」


 中原さんは何も言わず、隣で小さく息を吐き出した。僕の隣に座ったまま、同じ景色を見つめている。


 遠くの校舎から、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が響いてきた。


 現実に引き戻される、間延びした電子音。


 このまま、鳴り続けてくれたらいいのに。

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