ep.20
放課後のチャイムが鳴り、周囲の生徒たちが一斉に席を立ち始める。カバンに教科書を詰め込む音、廊下へと向かう足音、それらの喧騒を背中で受け止めながら僕はゆっくりと立ち上がった。
向かう先は中原さんと約束した場所だった。
『美術室、また行ってもいい?』
その問いに、僕は「うん」と答えた。ならば、あそこへ行くのが今の僕たちにとっての正解だ。
美術室の前に立つ。躊躇いはなかったけれど、心臓がいつもより少しだけ速いリズムを刻んでいる。金属の冷たさを、手のひらに感じながらゆっくりと扉を開けた。
中原さんは、すでにいつもの席に座っていた。夏服の白いブラウスの背中が傾いた西日に照らされて白く浮かび上がっている。机の上には何かの冊子が広げられていた。
僕が中に入ると、がたっと椅子が小さく鳴って彼女がこちらを振り向く。
「あ、神崎くん」
届いた声はいつもの柔らかさを帯びていた。旧校舎の階段で交わした、あの消え入りそうな声とは違う。
「おつかれ。杉本君、休みなんだね」
「うん。馬鹿は風邪引かないはずなんだけど」
「彼、確か学年二位だよ」
「……そうだっけ」
僕は、中原さんの隣に腰を下ろした。彼女の前に広げられていたのは台本らしき冊子だった。何箇所か蛍光ペンで線が引かれている。彼女がそれを静かに閉じ、机の端へと片付ける動きを僕はぼんやりと見つめていた。
二人の間に短い沈黙が広がる。気まずい、というわけではなかった。それでも、何か言葉を探さなければならないという微かな焦燥が僕の口を動かした。
「中原さん」
「ん?」
「……夏休み、何してたの」
何気ない、ごくありふれた質問のつもりだった。高校生が二学期の始めに交わす、定型句のような会話。
中原さんは少しだけ身を乗り出し、机の上に両肘をついた。彼女の手首に巻かれた細いブレスレットが小さく光る。
「スイカ食べて、宿題して……人殺した」
平然としていた。まるで「コンビニに行って、パンを買った」とでも言うような。
「……え?」
僕の掠れた声を聞いて、中原さんの肩が細かく揺れた。クスクスと笑い声が聞こえてくる。
「映画の中でだよ。びっくりした?」
彼女は少しおどけるように首を小さく傾げてみせた。声の調子が一段高くなり、楽しそうな響きが室内に広がる。
その瞬間、僕は思い出した。一学期の終わり頃、奏多が学食でカレーパンを齧りながら話していたことを。
あの時は実感が湧かなかったけれど、目の前にいるこの少女は誰かの命を奪う役割を演じているのだ。
「びっくりするよ、普通に言われたら」
「あはは、ごめんごめん。でも、本当にそんな感じだったんだよ。夏休みの前半はずっと撮影で地方の山奥に行ってて。ロケバスの中で宿題して、現場に入ったら無表情でナイフを振り回す、みたいな」
中原さんは、自分の指先を見つめながら話し始めた。常にカメラに見られ、誰かの意図した通りの人間になりきり、そして消費されていく。そんな日々を彼女はこの長い休みの間、ずっと過ごしていたのだ。
「大変、だったんだね」
「まあ、それが私の普通だから。でもね、ちょっと今回はいつもと違うんだ」
中原さんの声からおどけたような響きが消えた。彼女は机の上に置いた自分の手をぎゅっと握り締めた。
「十月にね、またオーディションを受けることにしたの」
「オーディション?」
「うん。『白嶺』っていう事務所の」
その名前は僕でも聞き覚えがあった。テレビを見ない僕でも、ニュースやネットの広告で頻繁に見かける、国内でも最大手の芸能事務所。
中原さんは言葉を続ける。
「前に話した、白石さんとか黒川さんとかが所属してるところ。知ってる?」
「名前くらいは」
「そこがオーディションやるの。滅多に募集しないのに」
彼女の声は微かに震えていた。それは恐怖によるものではなく、大きな波を目の前にした時のような、武者震いに近いもののように聞こえた。
「今の事務所も、私を大切にしてくれてる。でも、もっと上に行きたくて。たくさんの人に、私の演技を見てほしい。……見られないと、生きていけない気がするから。チャンスがあるなら、絶対に掴みたくて」
彼女の身体全体から立ち上る、張り詰めたような覚悟が空気を通じて僕の皮膚に伝わってくる。
「自信はないよ。全国から、ものすごい数の人が応募するだろうし、私なんて足元にも及ばないかもしれない。でも、やるしかないの」
そう言いながら、彼女は冊子を引き寄せた。
「もう、応募は済ませちゃったんだ」
彼女は、自分の未来を大きく変えるかもしれない勝負を仕掛けようとしている。中原さんは僕の方へと顔を向けた。
「神崎くんは? 夏休み、どうだった?」
僕は自分の手元に視線を落とした。机の表面には、歴代の部員たちが残していった絵の具の跡や無数の傷が刻まれている。彼女の抱える大きな世界に比べたら、僕の過ごした時間なんて、小さなものでしかない。
「何もしてないよ。絵描いてただけだし」
「それなら、十分立派だよ」
僕は夏休みの終わりに起きた、小さな出来事について口を開いた。
「……十月に、県のコンクールがあるんだ」
「コンクール?」
「夏休み前、三人に押し付けられちゃってさ」
美術部のグループLINEを思い出す。僕より描ける三人のこと。
「受賞者の作品だけが、展覧会に飾られるんだって」
中原さんはオーディション。僕はコンクール。
規模も賭けているものの重さも全く違う。彼女は、役者人生のすべてを懸けて、広い世界へ飛び込もうとしていて、僕はただ、押し付けられた役割を果たすために小さな画用紙に向かっている。
それでも僕たちは二人ともこの季節に、何かしらの線を引こうとしている。
そんな共通点が僕の胸の奥へと積もっていった。言葉には出さないけれど、彼女の隣にいる自分の足元がほんの少しだけ地面に深く根を下ろしたような、そんな錯覚を覚える。
ただ、自分の現状を説明しただけで、慰めてほしいわけでも応援してほしいわけでもなかった。なのに、中原さんは机を小さく叩いて身を乗り出した。
「じゃあ、展覧会行くよ」
その言葉は迷いがなく、まっすぐに僕の鼓膜へと飛び込んできた。彼女が何を言っているのか分からずその顔の靄を見つめ返す。
「え?」
「神崎くんの絵が飾られる展覧会。私、絶対に行くから。日程決まったら教えて」
彼女の声には確信めいた響きがあった。まるで、僕の絵がそこに飾られることが最初から決まっている未来であるかのように。
僕は、慌てて首を振った。
「絵が飾られるのは受賞者だけだよ」
「うん。だから?」
「僕の絵が飾られるわけないよ。何百人も応募するんだから」
現実を突きつけるように、僕は声を少しだけ尖らせた。自虐ではなく、客観的な事実として。自分の実力は分かっている。部室内での評価だって、先輩たちに比べれば線も荒く、影の取り方も未熟だ。そんな僕の絵が、美術館の壁に掛けられるはずがない。
「じゃあ、受賞して」
静かな、けれど拒絶を許さない強さを持った声だった。そして、あまりにも理不尽で勝手な要求。
「無理だよ」
僕は即座に答えた。苦笑することすらできず、ただ自分の無力を認めるように声を低く落とす。
「簡単に言うけど、本当に無理なんだ。他の学校にはもっと上手い人がたくさんいるだろうし……」
自分の限界を自分で決める。そうしなければ、期待して傷つくのが怖かった。人と同じ景色が見えない自分が、表現の場で認められるなんて、そんな奇跡みたいなことが起きるはずがない。
それでも、中原さんは諦めなかった。
彼女は僕の手に自分の手をそっと重ねた。彼女の指先は冷たかった。なのに、その中心からは確かな体温が伝わってくる。
「できるよ。神崎くんなら」
胸の最も深い場所を貫かれるような感覚がした。
なぜ、彼女がそこまで僕を信じられるのか、僕には分からなかった。僕自身すら信じていない僕の可能性を、彼女はなぜ、そんなにも簡単に口にできるのだろう。
彼女がどんな目で僕を見ているのか、視覚的には何も捉えることはできない。
「私もオーディション頑張るから。二人で勝とうよ」
黒い靄の奥の瞳は、僕を掴んで離さない。
彼女の言葉が何度も僕の耳の奥で繰り返される。重ねられた中原さんの手の力が強くなった。
無理だ、と拒絶する言葉は、もう僕の喉までは上がってこなかった。




