ep.21
十月の半ば、という提出期限は想像しているよりもずっと早く僕に迫ってくる。安田さんたちから押し付けられるようにして決まったコンクールへの出品。最初は義務感だけで、適当な風景を描いてお茶を濁そうと考えていた。
中原さんは自分の人生の大きな岐路になるかもしれないオーディションに一歩を踏み出している。僕はどうだ。いつまでも自分の欠落の裏に隠れて、傷つかない安全な場所から周囲を眺めているだけではないか。
何かを描かなければならない。彼女と同じように、僕なりの答えをキャンバスの上に残さなければならない。
ただ、最初から決めていたことが一つだけあった。描くモチーフは風景でなければならない、ということだ。
人物という選択肢は、最初から頭になかった。理由は明快だった。どれだけ技術を磨こうとも、僕の脳は他人の顔を一つのまとまった形として認識してくれない。いざ誰かの姿を配置しようとした瞬間、記憶の中の輪郭が泥のように溶け出して、手のひらの筋肉が強張る。その恐怖を、僕はこれまで何度も味わってきた。
だから、風景だった。風景は僕の欠落を責め立てない。黙って線を引けば、世界は正しく形作られるはずだった。
放課後の美術室にこもり、ひたすらキャンバスに向かい続けた。
最初のモチーフは放課後の校庭だった。遠近法は正確で、光の方向性も一貫していた。悪くない構図だ。技術的な破綻はどこにもない。
けれど、描き終えたキャンバスを壁際に立てかけて眺めた瞬間、胸の奥から奇妙な感覚がせり上がってきた。
「違う」
構図のバランスは保たれているのに、とにかく違う。どこかの観光パンフレットか、美術の教科書の隅に載っているような「よくある絵」の域を出なかった。
キャンバスをイーゼルから外し、新しい一枚をセットした。今度は夕暮れの商店街。その次は古い公園。また次。何枚描いても、完成した絵を前に立つたびに、同じ落胆が僕を押し潰した。
小綺麗で、正確で、そして徹底的に死んでいる絵。
ある深夜のことだった。学校での制作だけでは時間が足りず、自宅の部屋にキャンバスを持ち帰って机の前に座り込んでいた。
その日、ようやく描き終えたのは、街外れの古い川に架かる橋の絵だった。夕暮れの光が川面に反射し、赤茶色に錆びついた鉄の欄干が逆光の中でシルエットとして浮かび上がっている。
筆を置き、マグカップを手に取って数歩後ろに下がった。壁に立てかけたその絵をじっと眺めた。
その時、絵の一点に視線が引き寄せられた。
橋の欄干のすぐ横、歩道の端のスペース。何かしらの背景が描き込まれているべき場所なのに、そこだけがぽっかりと空いていた。色彩の階調は周囲と合わされているのに、構図としてあまりにも不自然な空白。
ちょうど、一人の人間がそこに立ち、欄干に手をかけて遠くを見つめるのに十分な余白。
マグカップを持つ手の指先が微かに震えた。
無意識だった。僕は絵を描いている間、その場所に何かを配置することを、徹底的に避けていたのだ。まるで、そこに誰かが立つことが最初から決定事項であるかのように。
消さなければならない、と思った。こんな不自然な空白を残しておけば、絵としてのまとまりが崩れる。マグカップを床に置き、絵筆を握り締め、パレットに残っていた暗い絵の具を筆先に馴染ませてキャンバスへと近づく。
その空白を周囲の闇と同じ色彩で塗り潰そうとした。
けれど、筆の毛先がキャンバスに触れる数ミリ手前で、手が完全に動かなくなった。脳からの「塗れ」という命令を腕の筋肉が明確に拒絶していた。呼吸が浅くなり、額から冷たい汗が伝う。どうしても筆を入れることができなかった。
諦めるように手をゆっくりと下ろした。
翌日の放課後、美術室に奏多が来た。
「おう、朔。完全復活だぜ」
昨日まで熱を出して丸二日間学校を休んでいた奏多がカバンを片方の肩にだらしなく引っかけて立っていた。声のトーンはいつも通り軽そうだったけれど、歩く足音がいつもより響かない。まだ病み上がりなのだろう。
「体調、もういいの?」
「昨日の夜には平熱まで下がってたんだよ。だから午後から来た」
奏多はカバンを長机の上に放り投げると、床や壁際に乱雑に積み上げられている大量のキャンバスと画用紙の山に目を落とした。
「うわ、何だこれ。何枚あんだよ」
感心したような声を出しながら床にしゃがみ込む。長い足を器用に折り曲げ、僕のボツ作品を一枚ずつ、ガサガサと音を立ててめくり始めた。
「すっげ、写真かよ……」
何も言えず、僕は抱えていた橋の絵をイーゼルの横にそっと立てかけた。彼が僕の絵に触れるたびに、自分の内面を無理やり覗き見られているような、奇妙な気恥ずかしさが広がっていく。
やめてくれ、と言おうとした、その時だった。
何枚目かのキャンバスをめくっていた奏多の手が止まった。彼の身体が微動だにしなくなる。重たい沈黙が降りてきた。窓の外から運動部の遠い掛け声が僕たちの間を通り抜けていく。
奏多は床に並んだ橋の絵、商店街の絵、路地の絵を、交互に見比べるように顔の向きを小さく動かしていた。
そして、静かに僕の方を振り返った。
「なぁ、朔」
届いた声からさっきまでの軽薄な響きが完全に消え失せていた。
「お前、ずっと同じ場所描いてね?」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、頭の奥で何かが弾け飛んだ。
夕暮れの橋。古いアーケードの商店街。薄暗い建物の隙間に続く、細い路地。
それらはすべて、一学期のあの放課後、中原さんに連れられて歩いた、あの喫茶店へと続く道のりの周辺の景色だった。彼女が午後の強い光の中を先頭切って歩いていったあの街並み。僕が彼女の白いブラウスの背中を見失わないように必死に追いかけていた、あの場所。
僕は無意識のうちに、彼女と過ごしたあの世界の断片をキャンバスの上に再現しようとしていたのだ。
そして、すべての絵に残されていた不自然な余白。そこに立つべき存在が誰なのか、もう疑う余地はなかった。
分かっていた。分かっていたのに、認めたくなかった。
顔を知らない。表情を視覚的に捉えることができない。だから人物として描き込むことは絶対にできない。その欠落と恐怖が僕の手に風景を描かせ、同時に、彼女の存在を諦めきれない無意識がその風景の特等席を「余白」という形で死守し続けていた。
僕は何も言えなかった。「違う」と否定する言葉も、「どうして分かったのか」と問い返す言葉も、何一つ喉の奥から上がってこない。自分の裏切りを知られた罪人のように、強張った身体のまま立ち尽くし、木製の床の木目をただ意味もなく見つめていた。
奏多はしばらく黙って僕を見つめていた。それから、ふっと肩の力が抜けるような音がして、ポケットから手を引き抜き、自分のパーマのかかった黒髪をがしがしとかき回した。
「あー、腹減ったな。今日はコンビニ寄って帰るわ。あんま頑張りすぎんなよ」
奏多はカバンを肩に引っ掛け、僕の横を通り過ぎた。扉へと向かう足音。少し引きずるようなリズムが扉の向こうへ消えていき、やがて重い木の扉がバタンと静かに閉まった。
僕は一人、その影の中に立ち尽くしていた。
床に並んだキャンバスをもう一度だけ眺めた。橋。商店街。路地。喫茶店への道。全部、あの日歩いた場所だ。
誰かが立つはずの場所が空いたままの、死んだ風景画。こんな風に、彼女への割り切れない感情を風景の裏に隠して、余白という名の逃げ道を作っているだけの僕に、一体何が描けるというのだろう。




