ep.22
二学期が始まってからの校舎は、まるで季節の変わり目の不安定な天気のように、どこか慌ただしく、落ち着かない空気が常に漂っていた。
そんな喧騒から切り離されたかのように、僕と中原さんの距離は離れつつあった。
あれほど毎日のように放課後の美術室で言葉を交わし、時に沈黙を共有していたはずなのに、九月に入ってからの僕たちは、ほとんど顔を合わせることがなくなっていた。
理由は明白だった。彼女は「白嶺」のオーディションに向けて、一学期の頃とは比較にならないほど多忙な日々を送るようになっていた。足早に昇降口へと向かっていく彼女の白いブラウスの後ろ姿を遠くから見かけることが数回あっただけだ。
彼女の手に台本らしき冊子が握られているのが見えた時、僕は声をかけることすら躊躇ってしまった。彼女はすでに僕の足の届かない高い場所へとその足を進めているのだという現実が、冷たく僕の胸に迫ってきたからだ。
そして僕自身もまた、美術室のイーゼルの前に縛り付けられていた。
提出期限という無慈悲なタイムリミットが刻一刻と近づく中、僕は放課後のすべての時間をキャンバスへと注ぎ込んでいた。奏多に指摘されて以来、僕の制作は完全に迷走の極みに達していた。床に積み上がったボツ作品の山は僕の頭の中の混乱をそのまま体現するようにその高さを増していくばかりだった。
僕と中原さんの繋がりをかろうじて維持していたのは、LINEの短いメッセージだけだった。
『セリフ頭に入らなくて、先生にめちゃくちゃ怒られた』
『こっちは三枚目のキャンバスを塗り潰した。どうしても気に入らなくて』
『根詰めすぎ。ちゃんとご飯食べてる?』
『そっちこそ。サラダだけで乗り切ろうとしないで』
互いに自分の置かれた状況を報告し合う。そこには夏休み前のあの名付けようのない気まずさはもうなかったけれど、文字だけの会話は、彼女の柔らかな声を伴わない。
液晶のフォントはどこまでも平坦で、彼女が今、どのようにその言葉を打っているのかを、僕が推し量ることは不可能だった。それでも、一日の終わりに届く通知が僕にとっての微かな救いになっていたこともまた、紛れもない事実だった。
ある夜のことだった。
時計の長い針が数字の12を指し、日付が変わったことを告げる。部屋の窓を少しだけ開けると、外からはすっかり鈴虫の声が聞こえるようになっていた。昼間のジトジトとした暑さは影を潜め、流れ込んでくる風には肌寒さを覚えるほどの秋の冷気が混じっている。
机の上に置いたスマホが短く震えた。
画面を点灯させると、中原さんの名前が表示されていた。いつもよりも少しだけ遅い時間の連絡だった。
『明後日のオーディション、緊張してる』
これまでどれだけ弱音を吐くようなことがあっても、彼女の言葉の裏には常に、自分の未来を自分で掴みに行くという明確な意志が感じられた。その彼女がただ一言「緊張してる」とだけ送ってきたのだ。その文字列から、彼女が今、どれほど巨大なプレッシャーの前に立たされているのかが、生々しい質感を持って伝わってくるようだった。明後日。ついに、彼女の最大の勝負の瞬間がやってくる。
親指をキーボードの上に置く。けれど、そこから先、指がどうしても動かなかった。文字を入力しようとしては消し、また別の言葉を打とうとしては消す。
返し方が、分からなかった。
「頑張って」という言葉は無責任に思えた。彼女はもう、他人に言われるまでもなく、自分の限界を超えるほどに頑張り続けている。僕のそんなありふれた一言が彼女の背中を余計に重くしてしまうのではないか、という恐怖があった。かと言って、「リラックスしてね」なんていう言葉も、今の彼女の張り詰めた覚悟の前では薄っぺらい気休めにしか響かないような気がした。
数分間の沈黙の後、僕は結局、最大公約数のような、誰の傷にもならない無難な言葉を選んで入力した。
『うまくいくといいね』
送信ボタンを押す。画面の端に僕の打った文字が吸い込まれていく。
これでよかったのだろうか。彼女の抱える孤独や恐怖に対して、僕はただ、安全な観客席から拍手を送るような、そんな冷たい対応をしてしまったのではないか。
液晶を消し、机の上に伏せる。静まり返った部屋の中で僕は自分の手のひらを見つめた。
思い出すのは、二学期の最初の頃、あの西日の差し込む美術室での記憶だ。
コンクールへの出品を押し付けられ、自分の無力を並べ立てて逃げようとしていた僕に向かって、彼女は言ったのだ。
『じゃあ、展覧会行くよ』
僕が無理だと言っても、彼女は引かなかった。僕の手の上に自分の冷たい手を重ね、あの黒い靄の奥にあるはずの強い瞳で僕の意識をまっすぐに掴んで離さなかった。
『できるよ。神崎くんなら』
あの一言が、僕の胸の奥にどれほど深い楔として打ち込まれていたか。
「無理だ」と諦めることで、自分を守ろうとしていた僕の防壁を、彼女はあの言葉だけでいとも簡単に粉砕してしまった。あの日から今日に至るまで、僕がどれだけボツ作品を量産しようとも、筆を折らずにキャンバスに向かい続けられたのは、間違いなく彼女のあの一言があったからだ。彼女の理不尽なまでの信頼が、僕の不甲斐ない背中をずっと後ろから押し続けてくれていたのだ。
彼女はあんなにも真っ直ぐに僕の心へと踏み込んできてくれたのに。
僕はどうだ。彼女が一番弱音を吐きたいかもしれないこの瞬間に、「うまくいくといいね」などという、距離を置いた、他人事のような言葉で済ませようとしている。
その自分の不甲斐なさと狡さが、急に嫌悪感となって足元から這い上がってきた。
僕は弾かれたように立ち上がった。スマホの画面はもう見なかった。今更メッセージを送り直したところで、言葉の軽さは変わらない。今の僕が彼女に返せるものは、言葉の羅列なんかではないはずだ。
僕は部屋の隅に置かれていた、描きかけのキャンバスへと歩み寄った。
パレットを取り出し、チューブから油絵の具を絞り出す。マゼンタ、ウルトラマリン、バーントシェンナ。頭の奥を刺激するような独特の酸化臭が、一瞬にして部屋の空気を塗り替えていく。
筆を握り締める。手のひらの筋肉が心地よい緊張感を持って強張るのを感じた。
言葉で返せないのなら、描くしかなかった。
彼女が明後日のオーディションに向かうその時までに、僕もまた自分の限界と向き合い、一つの答えを出さなければならない。
キャンバスに向かい、僕は頭の中に浮かぶ風景をひたすら絵の具で追いかけ始めた。
最初に描こうとしたのは花の絵だった。
彼女がいつも身にまとっている、あの柑橘と白い花が混ざり合ったような澄んだ香水の匂い。その匂いを視覚的なイメージとしてキャンバスの上に固定できないかと考えた。
しかし、筆を動かし始めてすぐに、手の動きが鈍くなった。パレットの上でどれだけ白や薄紫色の絵の具を混ぜ合わせても、それはただの「植物の写生」にしかならなかった。花びらの脈、茎の曲線、それらをどれだけ精密に描こうとも、僕が求めている、彼女の存在に伴うあの独特の空気感はどこからも立ち上ってこない。違う、これではない。僕はペインティングナイフを握り直し、まだ乾いていない絵の具の層を削り落とした。麻布の白い地肌が、無惨に露出する。
次に描いたのは喫茶店の絵だった。
二人で歩いたあの路地の突き当たり。コンクリートの壁に埋もれるように佇んでいた、白い木製のドア。カウンターの奥で響いていた、ストローが氷をかき回すカランという涼やかな音。
僕は記憶の糸をたぐり寄せるように、筆先に茶色と黄色の絵の具を馴染ませて画面の上にあの空間を構築していった。
技術的には今までのどれよりも上手くいっているように思えた。店内の薄暗さと、ペンダントライトの光が作り出すコントラスト。それは一つの絵として、十分に成立しているように見えた。
けれど、描き終えて、数歩後ろに下がってそれを眺めた瞬間、激しい虚しさが僕を襲った。
その絵にもやはり、あの「余白」が存在していた。二人が座っていたはずのカウンターの席の周辺。そこには誰もいない。ただ空っぽの椅子と主を失ったグラスが描かれているだけだった。
奏多の言葉が耳の奥で蘇る。
『お前、ずっと同じ場所描いてね?』
そうだ。僕はあの日から一歩も前に進めていない。ただ、彼女と過ごした過去の記憶に閉じこもって、その心地よさを反芻しているだけだ。そんな後ろ向きな絵で、明後日の未来へ向かおうとしている彼女に一体何を返せるというのか。
僕は再び太い筆に濃いグレーの絵の具を浸し、その喫茶店の風景を上から塗り潰した。キャンバスの上が泥のような濁った色で覆われていく。
夜が更けていくのも忘れ、僕は三枚目のキャンバスに取り掛かった。
今度は、美術室の絵だった。
毎日、嫌というほど時間を過ごしているあの場所。削りたての鉛筆の匂い、床の傷、窓から差し込む西日の角度。そして、彼女がいつも座っている席。
僕は狂ったように筆を動かした。腕の筋肉が疲労で悲鳴を上げ、視界の端がチカチカと明滅し始める。それでも、手を止めることはできなかった。今、手を止めてしまえば、僕は二度と絵を描けなくなってしまうような、そんな得体の知れない焦燥が僕の背中を叩き続けていた。
ガサ、という音がして、足元に置いてあった画用紙の束が崩れた。けれど、それを拾い上げる余裕すらなかった。
頭の中の風景を描いては何かが違うと確信し、それをボツにする。その不毛な繰り返しの果てに僕の部屋の床は完全に乾かない油絵の具の匂いと、無惨に汚されたキャンバスの死骸で埋め尽くされていった。
窓の外が微かに白み始めていた。
濃い紺色だった夜空が東の空からゆっくりと薄い灰色へと溶け出していく。鳥の鳴き声が遠くから聞こえ始め、世界の時間が再び動き出す。
僕は筆を握ったまま三枚目の美術室の風景が描かれたキャンバスの前に立ち尽くしていた。
画面の中の美術室は今までで一番正確だった。窓枠の金具の錆、壁に掛けられた歴代の部員のデッサン、そのすべてが、僕の持つ最高の技術で再現されていた。
けれど、その絵を見つめる僕の心は完全に冷え切っていた。
やはり、何かが違っていた。
どれだけ風景を精密に描こうとも、どれだけ光の陰影を正しく配置しようとも、そのキャンバスからは、命の気配が全く感じられないのだ。そこに描かれているのは、ただの「無人の部屋」でしかなかった。
静まり返った、冷たい箱。
なぜ、描けない。
なぜ、何枚描いてもこんなにも空っぽの絵にしかならないんだ。
僕は頭を抱えるようにして、その場にへたり込んだ。指先についた油絵の具が僕の髪や額に付着する感覚があったけれど、それすらもどうでもよかった。
コンクールで賞が欲しいわけではなかった。美術部の先輩たちに押し付けられたから、という理由ももうとっくに僕を動かす原動力としては消滅していた。
誰かに勝ちたいわけでもない。他校の優秀な生徒たちの絵と競い合って、自分の実力を誇示したいなんていう欲望も僕の中には最初から一微塵も存在しなかった。
じゃあ、なんでだ。
なんで僕はこんな夜中に、身体を壊す一歩手前まで追い詰められながら、狂ったようにキャンバスに向かい続けているんだろう。
何が僕をここまで突き動かしているんだ。
静まり返った部屋の中で自分の浅い呼吸の音だけが響いていた。
その問いに対する答えは、最初から僕の胸の最も深い場所に、剥き出しのまま転がっていたのだ。ただ、その事実を認めることが自分の欠落と正面から向き合うことを意味するから、僕は必死に目を逸らし続けていただけだった。
——誰かに、見せたい。
その思考が脳裏に浮かんだ瞬間、全身の力が完全に抜けていくような感覚がした。
そうだ。僕はただそれだけのためにのたうち回りながら過ごしてきたのだ。
他の誰でもない。コンクールの審査員でも、美術部の仲間でも、学校の生徒たちでもない。
中原さんに。
「展覧会行くよ」と言ってくれた彼女に、僕の描いた絵を見せたかった。
「受賞して」と言った彼女の期待に応えたかった。
僕の絵が美術館の壁に掛けられた時、彼女がその前に立ち、僕の描いた世界をその瞳に映してくれる。その瞬間のことだけを僕は無意識のうちに、ただひたすらに追い求め続けていたのだ。
ただそれだけだったのかもしれない、と思う。
人の顔が分からないという決定的な欠落を抱え、他者との間に常に歪んだ距離を置きながら生きてきた僕にとって、自分の内面を他人に差し出すという行為は、恐怖以外の何物でもなかった。自分の描いた絵を見せるということは、自分の魂の形をそのまま他人の前に晒すことと同じだったから。
けれど、中原さんという存在がその壁をあの一言で軽々と飛び越えてきてしまった。
彼女に見せたい。僕の目で捉えた世界がどんなに歪んでいて、どんなに不完全なものであっても、それを彼女にだけはまっすぐに届けたかった。
僕はゆっくりと顔を上げた。
薄明かりに照らされた、三枚目の美術室の絵を見つめる。窓際の席の周辺にやはり残されている、不自然な空白。
その場所の正体が今度こそ理解できた。
そこに描くべきなのは、風景なんかではない。どれだけ綺麗な景色を描き重ねても、彼女への言葉の代わりにはならない。
僕が本当に描かなければならないものは、最初から決まっていたのだ。
僕はパレットの上に残っていた絵の具を、すべて削り取った。そして、新しい、まだ何も汚されていない、純白のキャンバスをイーゼルへとセットした。
手の震えはいつの間にか止まっていた。
顔の輪郭を描こうとすれば、まだ恐怖で指先が強張るかもしれない。境界の曖昧な黒い靄しか描けないかもしれない。それでも、僕はもう、風景の裏に隠れて余白を作るような真似はしない。
中原さんは明後日、その命のすべてを懸けてオーディションの舞台に立つ。
ならば、僕もまた自分のすべてを懸けて、このキャンバスに向かうべきだった。
彼女に見せるための、僕だけの絵を描くために。




