ep.23
締め切りまで、あと三日。僕は自分の部屋の真ん中で、数時間前まで「これこそが正解だ」と信じ込もうとしていた風景画を前にして、ただじっと立ち尽くしていた。
イーゼルの上にあるキャンバスには、僕がこの数日間、寝る間も惜しんで描き継いできた風景が定着している。明暗の対比も完璧、色彩の調和も美しく取れている。美術部で培ってきた技術のすべてが、その画面には過不足なく注ぎ込まれていた。それなのに、画面から立ち上がってくるのは空虚さだけだった。
まるで主のいない空き家。窓から差し込む光さえ、ただの記号としてそこに配置されているだけの命の通わない空間。
「やっぱり、違う……」
こんなものを描きたかったわけじゃない。どれだけ表面を綺麗に整えても、どれだけ「正しい風景」を模倣しても、このキャンバスの中には僕の魂が、僕だけの視界が欠落している。中原さんに見せたい世界はこんな模範解答のような絵では断じてない。頭を掻きむしりたくなるような、じっとりとした絶望感が足元から這い上がってきた。
僕はイーゼルの前から一歩退き、力なく足元に視線を落とした。そこには、ここ最近よりも前、今までの高校生活の中で僕がひたすらに描き散らかしてきた、何冊ものデッサン帳が乱雑に転がっていた。
手元の一冊を拾い上げ、諦めきれない悪あがきのようにページをめくる。
どのページをめくっても、そこには僕の視界が捉えたはずの風景が克明に記録されていた。線の太さ、陰影の濃淡、どれをとっても教科書的な正解に違いない。だが、それらはすべて最初から死んでいた。
胸の奥にあった何かが音を立てて焦げていく。
デッサン帳の端を両手で掴んだ。
バリッ、という乾いた音が深夜の部屋に響いた。紙が中央から引き裂かれる。破る。次のページも。その次も。
手が動く間、何も考えていなかった。音だけがあった。バリ、バリ、バリ。一定のリズムで紙が割れ、白い欠片が床に落ちていく。
気が済むまで破いて、手を止めた。
床一面に白い紙の切れ端が散らばっている。窓から入る夜風がそのうちの一枚をそっと動かした。
ふと、視線が一点に止まった。
照明の下、一枚の破片の縁が薄く光を帯びていた。不規則に千切れた輪郭。白くて、軽くて、どこか儚い。
……花びらみたいだ。
その思考が脳裏をよぎった瞬間、僕の意識は半年前のあの日へと引き戻された。
四月。校舎裏に植えられた、大きな桜の木。
そこには散り落ちた花びらがじゅうたんのように一面に敷き詰められていた。僕はその、薄桃色に霞む圧倒的な光の中で立ち尽くしていた。風が吹くたびに木の上から花びらが降り注ぎ、視界を白く染め上げていく。
彼女の顔は霧の彼方に霞んでいて、どんな表情をしているのか分からない。世界からそこだけが切り取られたような欠落。僕は自分の障害を言い訳にするように、彼女を拒絶してしまった。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女は小さく息を呑み、そして弾かれたように走り去っていった。
薄桃色の光の中を遠ざかっていく彼女の背中。
その足元で地面に落ちた花びらが無残に踏みつけられていく。泥に汚れて、黒ずんで、原型を失っていく白い花びらたち。
その光景を僕は追いかけることもできず、ただ呆然と見つめていた。何かが散りゆく美しさと、それを無邪気に踏み越えていく彼女の切実な生命力。時間が不可逆な瞬間に砂へと帰っていくあの刹那、僕の胸の奥は、名付けようのない「震え」で満たされていた。
あの瞬間の、何か。
僕が描きたかったのは、そんな正しい配置の風景ではなかった。その場所に佇む特定の人物の顔でもなかった。
形のないもの。言葉にすれば嘘になり、静止画にしようとすれば指の隙間からこぼれ落ちていく、あの瞬間の衝動。僕がこれまでひたすらに無機質な風景を描き、人物を避けていたのは、単に顔が分からないからだけではなかった。あの日、桜の木の下で感じた、言葉にならない「何か」をどうすれば描き出せるのか、その方法が分からなかったからだ。
風景に余白を作り、そこに誰かを配置しようとする試みは、あの日のあの光景を、無理やりキャンバスの上に再現しようとする、あまりに幼い執着だった。
それが、僕の絵の正体だったんだ。
それを見せたい相手がいる。
中原雫。
僕の欠落を埋めようとしてくれた人。
映画やドラマの画面の向こうで、常に「見られること」を前提に生きている彼女。
彼女が明後日のオーディションの舞台に立ち、誰にも見えない場所で孤独と戦うように、僕もまた、このキャンバスに向き合わなければならない。
僕が見てきた世界がどんなに歪んでいて、どんなに不完全なものであっても、それを彼女にだけは、ただ一枚の絵として届けたい。
これで、最後にしよう。
僕は床に転がっていた筆を拾い上げた。
手の震えは、もうなかった。恐怖もない。あの日、踏まれて汚れた花びらが僕の心臓の奥で再び白く、鮮明に舞い上がる。
パレットを取り出し、絵の具のチューブを思い切り絞り出した。
僕は記憶の中の桜の木を見上げる。あの日の光。湿った土の匂い。それらすべてを、一つの画面の中に凝縮させるために、僕は真っ白なキャンバスに向き直った。
これまで描いてきた「死んだ風景」を完全に塗りつぶすように、太い筆にたっぷりと絵の具を含ませ、最初の一筆を置いた。
鋭く色が走る。記憶の破片が僕の手を通じて流れ込んでくる。
彼女の顔を想像することなく、ただ自分の内側にあった、あの美しくも汚れた記憶の結晶を、キャンバスに刻み込む。
描くたびに記憶の輪郭が削られ、キャンバスへと定着していく。キャンバスに残る色が濃くなるたびに、僕の身体は軽くなっていくようだった。これまで僕を縛り付けていた呪いすらも、この絵の中では、ただの色彩の階調の一つ、必要な光と影の一部として、深く深く飲み込まれていく。
描いてみせる。
ただ、あの日を。
時が過ぎるのを忘れていた。部屋の蛍光灯がチカチカと不規則な明滅を繰り返している。夜明け前の、青く冷たい光がカーテンの隙間から差し込み始めていた。
だが、僕の視界は眼前のキャンバスの上で混ざり合う絵の具の色だけに支配されていた。
筆を動かすたびに、パレットの上で絵の具が擦れる微かな音が響く。窓から吹き込む夜明けの風が床に散らかった紙の切れ端をそっと揺らし、カサリ、カサリと乾いた音を立てていた。その音さえも、あの日の校庭の砂の音と重なっていく。
中原さんに会いたい。
彼女の抱える焦燥も、彼女が懸命に守ろうとしている日常も、僕が直接この手で守ることはできないかもしれない。けれど、この絵に閉じ込めた、あの日僕が見たあの震えなら、彼女の心に届くかもしれない。
僕の絵はあの時、僕の世界を壊してくれた、彼女のためにある。
部屋の時計が朝の六時を回る。
外ではもう誰かが歩き出しているのだろう。手にした筆の重み、指先に残る絵の具の感触。今の僕にはその汚れが何よりも確かなものに思えた。
僕は、僕の見ている世界を描く。
描き終えた画面を前に、僕は魂のすべてを吐き出しきったような感覚に包まれていた。キャンバスの上に定着した色彩は僕の記憶そのものであり、僕たちだけの四月の真実だった。
僕は最後の仕上げのために、強く筆を握り直した。
筆の先に、一筋の、混じり気のない純粋な白い絵の具を取る。それはパレットの上で、他のどの色とも混ざり合わずに孤立した白だった。
息を整え、画面の中央に、そっと筆先を触れさせた。まだ湿っている絵の具の層の中に一点の白が吸い込まれるように沈んでいった。
キャンバスの上に、一枚の花びらが落ちた。




