ep.24
夢を見ていた。
一年生の初夏。激しい土砂降りの雨の日。
校舎の屋根を激しく叩く雨音は私の鼓膜を震わせ、アスファルトに衝突して跳ね返る無数の水飛沫が霧のようだった。
傘を忘れた私は、その昇降口の冷たい軒下に一人で立ち尽くしていた。
いつもなら天気予報を念入りにチェックし、折りたたみ傘を鞄に忍ばせているはずなのに。
その日に限って、私の頭の中は別のことで完全に飽和していた。
午前中、私はある映画の重要な役の撮影に参加していた。物語の鍵を握る大切な役どころ。台本を読み込み、家の鏡の前で何度も練習し、完璧な演技を見せるつもりで意気揚々と現場に臨んだ。
けれど、そこで待っていたのは、監督からの容赦のない拒絶だった。
『君の演技、なんか……つまんないんだよね』
監督の低く苛立ちを含んだ声が雨音に混じってリフレインする。ため息をつくスタッフたちの冷ややかな視線、舌打ちをする音声さんの態度。そのすべてが無力な私を四方八方から責め立てているように感じた。
『綺麗に見せる芝居はよく分かっているみたいだけどね、中身が完全に空っぽなんだ。そんな薄っぺらい芝居じゃ、観客の胸には何も届かないよ?もっと自分を出してほしいんだよね』
「……申し訳ありません」
『こんなんじゃ顔も覚えてもらえないよ? 透明人間みたいなもんだね』
何も言い返せなかった。ただ唇を噛み締め、何度も「申し訳ありません」と震える声で頭を下げ続けることしかできなかった。
幼い頃から常に「見られること」を意識し、周囲の大人が求める「成瀬雫」を演じることで自分を形作ってきた私にとって、その殻を無理やり剥ぎ取られた中身の自分なんて、どう表現すればいいのか全く分からなかった。
存在の根底から否定されたような気がした。
学校に戻ってきたものの、午後の授業の内容なんて一文字も頭に入らなかった。放課後になり、クラスメイトたちが楽しそうに連れ立って帰っていく中、私は一人、昇降口のコンクリートの床に視線を落としたまま動けずにいた。
家に戻れば、両親がいつも通り私を迎えてくれる。けれど、今のこの無惨に切り刻まれた心を抱えたまま、どんな顔をして会えばいいのか分からない。
泣きたくない。
学校の玄関という、いつ誰が通りかかるかも分からない場所で制服を着たまま泣き崩れるつもりなんて、毛頭なかった。そんな姿を誰かに見られでもしたら、すぐに噂になり、変な尾ひれがついて学校中に広まってしまう。隙を見せてはいけない。常に完璧でなければいけない。それは、私が自分に課した鉄則のはずだった。
胸の奥から急激に突き上げてくる、情けなくて、悔しくて、悲しい感情の濁流をどうしても抑え込むことができなかった。
一度視界が歪むと、もう止められない。大粒の涙が溢れ出し、頬を伝ってコンクリートの床にぼたぼたと落ちていく。私は制服の袖で必死に目元を擦った。
拭っても拭っても、新しい涙が後から後から溢れてくる。呼吸が上手くできなくなり、喉の奥がひっく、と小さく鳴った。
「あの、大丈夫ですか」
不意に、頭上から声が降ってきた。
静かな男の子の声。
私は咄嗟に顔を伏せ、袖で思い切り涙を拭った。
見られた。誰か分からないけれど、同じ学校の人に、こんな無様で醜い姿を見られてしまった。パニックになりそうな頭を必死で抑えつけ、私は「成瀬雫」の壊れかけた仮面を無理やり顔に貼り付け直した。
ゆっくりと顔を上げ、声のした方向を見る。涙で視界が酷くにじんで、相手の顔が判然としない。私は精一杯、唇の端を持ち上げて、確実に引き攣っているであろう愛想笑いを作った。声が震えないように、喉の奥にぎゅっと力を込める。
「あ……、大丈夫です! ちょっと、目にゴミが入っちゃっただけだから……全然、本当になんでもないですから!」
早口で捲し立てたその言葉がどれほど空虚で、どれほど嘘臭く響いたか、自分でも痛いほど分かっていた。赤く腫れた目をして、涙の跡がはっきりと残った顔で「なんでもない」と必死に言い張る私をどう思っただろう。軽蔑されるか、気味悪がられるか、あるいはもっと深く詮索されるか。私は身体を硬くして身構えた。
しかし、声をかけてきた彼は私のそんな見え透いた強がりに眉をひそめることも、驚くことも、あるいは同情の視線を向けてくることもしなかった。
「そうですか」とだけ短く呟くと、彼はそれ以上何も言わず、私の隣、わずかに距離をあけた場所に静かに立った。
彼は私を見るのではなく、ただ前方の、白く激しく煙る校庭の雨を眺めていた。
普通、泣いている女の子を見かければ「どうしたの?」「誰かに何かされた?」と理由を聞きたがるものだ。
それか、相手が成瀬雫だと気づいて、下世話な好奇心や親切心を押し付けてくる。それでも、彼は私の嘘を暴こうともせず、ただ激しい雨音だけが二人の間に満ちている空間を、そのまま共有してくれた。
雨の冷たい匂いと、アスファルトが濡れる匂い、そして彼の制服からかすかに漂う、油絵具のような独特の香りが、湿った空気の中に混ざり合っていた。
私はそっと彼の顔を窺おうとした。
昇降口の外から差し込む、白く強烈な雨の光が彼の背後から彼を包み込んでいて、完全な逆光になっていた。前髪が少し長めで、制服の襟元がわずかに緩んでいる、という大まかなシルエットは分かったけれど、その目元がどんな形をしているのか、どんな表情を浮かべているのかは、光の中に溶けてしまって、全く見えなかった。ただ、その横顔の輪郭が、私の網膜に深く焼き付いていた。
しばらくして、彼は手に持っていた一本の傘を私の前にそっと差し出してきた。持ち手の部分に少し傷がついた、黒い傘だった。
「部室に使ってない傘があるので、これ使ってください」
「えっ、でも……」
「後で、傘立てにでも返してくれればいいですから」
彼は私の言葉を遮るように淡々と言い、私が戸惑いながらもその傘の持ち手に触れたのを見届けるとすぐに背を向けた。そして、引き止める隙も与えないまま、静かに校舎の奥へと戻っていった。
そこで、私は現実の世界へと引き戻された。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の白い天井だった。枕元のスマホに手を伸ばし時間を確認した。数字はすでに昼の十二時を告げていた。
頭の芯が、ずうんと重い。鉛を詰め込まれたかのようだ。手のひらに触れた自分の頬は熱く、目尻のあたりにはカサカサとした不快な感触が残っていた。
「……また、あの夢だ。」
夢だと分かっていたなら、醒めなかったのに。
神崎くんと私しかいない、昇降口の夢。周囲の雑音も、大人も、カメラのレンズも、何一つない、ただ雨音だけが優しく響いていた世界。
本当に幸せな夢だった。それ以外は見たくないと思えるほどに幸せな夢。
あの日から、私は彼のことが好きになった。
今思えば、ありふれた少女漫画の展開みたいだ。雨の日に傘を貸してくれた、名前も知らない男の子を好きになるなんて。
私は自分が思っているよりも、ずっと単純なのだ。
あの時の私にとって、彼は「成瀬雫」という虚像を求めず、ただ泣いている一人の人間としてそこにいることを許してくれた。
それなのに、私たちは同じクラスになることさえなかった。
二年生に進級した春、クラス替えの掲示板の前で、「神崎朔」の三文字を必死に探した。けれど、彼の名前は無情にも別のクラスの欄にあった。私たちは同じクラスにはなれず、廊下ですれ違うだけの、遠い存在のままだった。
それでも、少し眠たそうな目や少し猫背気味の背中を、私は違う教室の窓から、人混みの向こうから、いつも無意識のうちに追いかけてしまっていた。
彼が人の顔が分からないことを知ったのは、もっともっと後のことだった。
その欠落さえも、私にとっては愛おしい救いだったのに。
私は自分の想いを抑えきれずに、彼のその繊細な世界に土足で踏み込んでしまった。
四月のあの桜が狂ったように舞い散る校舎裏。私の人生で初めての告白。神崎くんは怯えたような、酷く傷ついたような目で私を見つめ、私を拒絶した。
私はその言葉の拒絶の痛みに耐えきれず、弾かれたようにその場から走り去ってしまった。それから、私たちの関係は歪んでしまった。同じクラスではないという物理的な距離があるにもかかわらず、周囲の勝手な憶測や心無い噂は二つの教室を跨いで瞬く間に広がり、神崎くんはクラスで悪者にされ、孤立していった。
私のせいで彼はまた世界からの距離を歪められてしまったのだ。それが申し訳なくて、苦しくて、私は彼とどう接すればいいのか分からなくなっていた。
それでも、神崎くんは私を完全に切り捨てようとはしなかった。
同じクラスにはなれなくても、美術室という、私たちだけの居場所があったから。友達から始めようと言ってくれた、照れくさそうな、まっすぐな声。
私が大人の世界への焦燥感から無理に頼んだアイスコーヒー。私が顔をしかめているのを見て、彼は自分の頼んだ甘いコーラフロートを迷わずに差し出してくれた。
どうして、そんなに優しいの。
いっそのこと、私のことをひどく罵って、拒絶して、完全に嫌ってくれればよかったのに。冷たく突き放してくれればよかったのに。
そうすれば、私は彼を諦めることも、彼のことを嫌いになることもできたはずだ。嫌いになれたら、どれだけ楽だったか。彼のことを考えるたびに、胸の奥がこんなに痛むこともなかったはずなのに。
私はまだ、神崎くんのことが大好きだ。
諦めるなんて、最初からできっこなかった。




