ep.25
俯いてベッドの上で涙を拭っていると、枕元に置いてあったスマホがブー、ブー、と音を響かせた。
突然の音に私は驚いて顔を上げた。涙で視界がぼやける中、震える手でスマホを手に取る。ディスプレイに表示された文字を見た瞬間、私の心臓はドクンと大きな脈動を打った。
画面に映っていたのは、担当マネージャーの名前。
一気に頭が冴え渡る。この数週間、私が生きた心地がしないほどに張り詰め、挑んできた運命のオーディション。
それは、今いる小さな事務所から、業界最大手であり、数々の実力派俳優を擁する憧れの芸能事務所「白嶺」へと移籍するための、特別なオーディションだった。
もし、これに合格すれば私は「白嶺」という最高の環境で、本当の意味での役者としての第一歩を踏み出せる。けれど、もし落ちていたら、移籍の話は完全に立ち消えになり、私はこれからも「ただ顔が綺麗なだけの女」として、安っぽいドラマやバラエティで消費され続けることになるだろう。
あの時の監督が言った『中身が空っぽの人形』という言葉が、現実の呪いとして一生私に刻みつけられてしまう。私にとってはこれからの役者人生のすべて、そして自分の存在価値そのものを懸けた、絶対に負けられない戦いだった。
生唾を飲み込み、震える指先で通話ボタンを右にスライドさせた。スマホを耳に押し当てる。声が掠れてしまわないように、私は必死に喉の奥を引き締めた。
「……もしもし、中原です」
受話器の向こうから、いつもは冷静なマネージャーの昂ぶった声が飛び込んできた。
『雫! やったわよ!』
その声で、私の思考は真っ白に弾け飛んだ。言葉の意味が頭の上をただ通り過ぎていくような感覚。
『最終審査、通過よ! 満場一致で移籍が決定したわ!』
「……え」
私の口から、情けないほど小さな声が漏れる。
『本当に凄いわよ。さっき、「白嶺」の代表と、オーディションの審査員をしていた映画監督から直接連絡があったの。監督ね、今回の雫の審査での演技を見て、大絶賛だったのよ! ……雫? 聞いてるの? 雫!』
受話器の向こうでマネージャーが興奮気味に捲し立てている声が、遠くの波音のように聞こえる。
合格。
あの「白嶺」に行ける。役者として、ずっと憧れていた、あの果てしなく高い舞台へ、ついに手が届いたのだ。
けれど。
その圧倒的な事実を突きつけられた私の胸を真っ先に満たしたのは、目標を達成したというプロとしての達成感でもなければ、憧れの事務所に移籍できるという未来への歓喜でもなかった。
喜びよりも先に、私の心で暴風のように狂おしく吹き荒れたのは、ただ一つ。
神崎朔という男の子への、どうしようもないほど強烈な恋心だった。
涙が目尻から次々と溢れ出し、頬を伝って顎の先から落ちる。
私がオーディションの舞台であの「白嶺」の厳しい審査員たちの心を震わせるような演技ができたのは、私自身の才能なんかじゃない。私の心が動いたのは、形だけの綺麗な芝居を捨てて、醜くも美しい感情を剥き出しにできたのは、間違いなく、神崎くんと過ごした時間があったからだ。
私はただの一人の女の子として、笑い、怒り、傷つき、そして本気で恋をすることができた。彼の不器用な優しさが、空っぽだった私を変えてしまった。
「白嶺」への切符を手に入れた今、私の頭の中は、その成功の未来ではなく、ただ神崎くんのあの見えない顔、あの優しい声、あの鉛筆の匂いだけで完全に満たされていた。
私はただ一人の女の子として、彼の腕の中に飛び込みたかった。その恋心が私の全身の細胞を激しく沸騰させていく。
「あ……、ありがとうございます……。ありがとう、ございます……っ」
私は開いた口を何度も手で押さえ、溢れ出てくる、喜びを遥かに追い抜いた激しい恋の衝動を必死に抑え込もうとした。
『本当におめでとう、雫。明日、さっそく「白嶺」のスタッフとの顔合わせがあるから、体調を整えておいてね』
「はい……はい、分かりました。本当に……ありがとうございました」
マネージャーの事務的な業務連絡をなんとか聞き終え、私は通話を切った。
静まり返った部屋の真ん中で私はただ一人、立ち尽くしていた。
涙の跡が乾いて、皮膚が少し突っ張るような感覚がある。けれど、私の胸の奥に灯った熱はもう誰にも消すことはできないほど、激しく、鮮やかに燃え上がっていた。
顔なんて、どうでもいい。
神崎くんが私の顔を正しく捉えられなくたって、同じクラスになれなくたって、そんなことは、私たちの間に何一つの障害にもならない。私が見てほしかったのは、私の外面の美しさなんかじゃない。私が彼と過ごした時間、彼を想って胸を痛めた時間、そのすべてが、私を形作っている。私は彼が世界をどう認識しているか、その歪んで、けれど誰よりも鮮烈な世界の一部になりたかった。
合格の通知を受けてもなお、私の心はどこまでも彼を求めて、狂おしいほどに叫んでいた。白嶺への移籍という輝かしい未来の光さえも、彼への恋心の前では、ただの背景の色彩に過ぎなかった。
「……神崎くんに、会いたい」
その名前を呟いた瞬間、胸の奥の熱い塊がさらに深く、私の輪郭を内側から優しく満たしていく。
私はあなたに会いたい。




