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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
最終章「額縁」
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26/35

ep.26

 次の日、私は母親が運転する車の助手席に深く身体を沈め、六本木にある芸能事務所「白嶺」のビルへと向かっていた。


 高く澄み切った青空も、信号待ちで横断歩道を渡っていく人々も、フィルムの向こう側で再生されている映像のように、私の中に入ってこない。


「雫、忘れ物はないわよね? 印鑑もちゃんと持った?」


 ハンドルを握る母親が上擦った声で確認してくる。その横顔には、娘が業界最大手の事務所に移籍するという興奮と誇らしさが、隠しきれないほどに滲み出ていた。


「持ってるよ」


 私は短く答え、窓枠に頬杖をついた。


 白嶺。数々の実力派俳優やアーティストを擁し、業界内で強大な影響力を持つ巨大な城。私がこれまで所属していた小さな事務所とは、天と地ほどの差がある。その門を叩くことができるのは、ほんの一握りの選ばれた才能だけだ。


 やがて車は、ガラス張りの巨大なビルに到着した。中心は切り取られたように窪んでいて、どこか芸術品のようにも見える。地下駐車場に車を停め、専用のエレベーターでオフィスフロアへと上がる。


 エレベーターの扉が開いた瞬間、そこは別世界だった。大理石が敷き詰められた広大なエントランス。すれ違うスタッフたちは皆、隙のないプロフェッショナルの顔つきをしており、電話の応対一つ、書類を抱えて歩く足音一つとっても、無駄がなく洗練されていた。


 案内された応接室は高級ホテルのスイートルームのように広々としていて、分厚い革張りのソファが向かい合っていた。


 しばらくして現れたのはチーフマネージャーだという初老の男性と、これから私の担当になるという、三十代前半の切れ長の目をした女性スタッフだった。


「この度は移籍の合意、誠にありがとうございます。オーディションでの成瀬さんの演技は、審査員全員の心を打つ素晴らしいものでした。白嶺としても、貴方のような将来性のある女優を迎え入れることができて非常に嬉しく思っています」


 チーフマネージャーの流れるような挨拶に母親は深く頭を下げて恐縮しきっていた。私も慌ててそれに倣った。


 そこからは移籍に伴う権利関係、報酬の割合、スケジュール管理のシステム、そして「白嶺」のタレントとしての自覚と規則についての説明が延々と続いた。担当の女性スタッフが契約書の条項を一つ一つ指差しながら、抑揚のない事務的な声で読み上げていく。


 私は背筋を伸ばし、真剣な表情を作って相槌を打っていた。時折「はい」「分かりました」と返事をし、重要な箇所では母親と一緒に書類を覗き込んだ。


 けれど、頭の中ではその大人の言葉たちが右の耳から左の耳へと、ただ空虚に通り抜けていくばかりだった。


 内容が全く頭に入ってこない。契約書の細かい文字の羅列を追っていても、意味を持たないただの黒い染みのように見えた。私の意識は、目の前の現実と、胸の奥で渦巻いている神崎くんへの想い、そしてこれから自分が立たなければならない途方もなく巨大な舞台への漠然とした恐怖の間であてどなく漂っていた。


「では、こちらの箇所にご署名とご捺印をお願いいたします」


 促されるままに私は万年筆を受け取り、「成瀬雫」ではなく「中原雫」という自分の本名を、契約書の署名欄に記した。朱肉に印鑑を押し、赤い印影を書類に残す。


 これで私は白嶺の人間になった。


 これまでの私を殺し、新しい私として生きていくための誓約書。


「今後の具体的なスケジュールについては、また改めてご連絡いたします。この後、簡単に社内をご案内しますね」


 担当の女性の言葉に促され、私たちは応接室を出た。


 その邂逅は、突然のことだった。


 長い廊下を担当者に続いて歩いていた時のことだ。こちらに向かって歩いてくる一つの人影があった。


 足音が近づくにつれて、その姿が廊下の照明の下に浮かび上がる。


 白石小春。


 私が、というよりも、日本中の誰もが知っているであろうトップ女優。そして私にとって彼女は、絶対的な「憧れ」そのものだった。


 私がまだ何者でもなく、読者モデルを細々とやっていた頃から、彼女はずっと私の指針だった。彼女が表紙を飾る雑誌はすべて買い集め、ページが擦り切れるほど何度も読み返した。


 彼女が使っていると公言していたアイシャドウをお小遣いを貯めて買い、彼女のメイクのやり方を鏡の前で何百回、何千回と真似した。少し跳ね上げたアイラインの引き方、淡い血色感を演出するリップの塗り方、前髪の絶妙な分け目。すべてをコピーしようと必死だった。


 私が作ってきた「成瀬雫」という存在は白石小春という神様への強烈な模倣と崇拝でできていると言っても過言ではなかった。


 その神様が今、私の数メートル先を歩いている。


 驚くべきことに、今日の彼女は完全な私服姿だった。


 それも、女優がオフの日に着るようなお洒落なブランド物の服ではなく、どこにでも売っていそうなグレーのオーバーサイズのパーカーに黒いジャージのズボンという、信じられないほどラフで無頓着な格好だった。足元は靴紐を緩めたスニーカーだ。


 メイクもほとんどしていないに等しかった。おそらく日焼け止めを塗っただけで、ファンデーションすら重ねていないのではないかと思えるほどの薄化粧。


 そして何より、彼女の目。


 憂いを帯びた、気だるげで世界のすべてを達観しているような、冷たくて深い瞳。その瞳に見つめられたら、どんな人間もひれ伏すしかないと思わせるような力があった。


「白石さん。お疲れ様です」


 担当のスタッフが立ち止まり、一歩脇に寄って会釈をした。母親も慌てて壁際に寄り、息を呑んで彼女を見つめている。


「お疲れ様です」


 白石さんは耳の奥を撫でるようなハスキーな声で答えた。歩みを緩め、私たちの方へ視線を向ける。


 私は震える膝を必死に堪えながら、乾ききった喉を動かした。憧れの人が目の前にいる。同じ空間の空気を吸っている。頭が真っ白になりそうだったけれど、ここで挨拶をしなければ白嶺の人間として失格だ。


 私は一歩前に出て、深く震える声で頭を下げた。


「は、初めまして……いや、お久しぶりです! 中原雫……いえ、成瀬雫です!」


 顔を真っ赤にしながら必死に言葉を紡ぐ。


「その……ゴーストで、共演させていただいた……覚えて、ますか?」


 こんな日本トップの女優が、私の顔なんて覚えているはずがない。そう思いながらも、藁にもすがる思いで私はその言葉を口にした。


 白石さんは気だるげな視線を私に留め、わずかに首を傾げた。


 長い睫毛が瞬き、憂いを帯びた瞳が私を頭の先からつま先まで、ゆっくりと、しかし確実に値踏みするように舐めた。


 やがて、彼女の唇がふわりと柔らかな弧を描いた。


「雫ちゃんでしょ。……大きくなったね」


 世界中の花が一斉に開いたかのような、美しく、優しい笑顔だった。


 覚えていてくれた。私のことを。私の名前を呼んでくれた。憧れの神様に認められて、本来なら有頂天になって飛び跳ねて喜ぶべき場面だった。


 嬉しかった。


 本当に、嬉しかったのに。


 私の胸の奥に、黒くて冷たいものが広がっていく。


 どろりとした、重くて、不快で、吐き気を催すような感触。胃の腑から込み上げてくるそれは、歓喜の感情を黒く塗りつぶし、私の心を内側から腐らせていくようだった。


 彼女のあの優しい笑顔、憂いを帯びた瞳で真正面から見つめられるたびに、私は自分が酷く安っぽくて、空っぽな「偽物」のように思えてならなかったのだ。


「あ、ありがとうございます……っ! あの、この度、白嶺に移籍することになりまして……!」


 自分の口から出た言葉が薄っぺらな紙のように響く。私は胸がいっぱいになり、泣きそうになるのを必死に堪えながら言葉を絞り出した。どんなに背伸びをしたところで、どんなに高価な化粧品で顔を塗りたくったところで、私は彼女の足元にも及ばない。


 全てを惹きつける魔性。


 貴方のそれが、どれだけ欲しいことか。


「……おめでとう。後輩として、これからよろしくね」


 これ以上、その目で見ないで。


 私は心の中で悲鳴のように叫んだ。彼女が私を優しく受け入れてくれればくれるほど、私の惨めさは際立つ。彼女の深く気だるげな瞳にすべてを見透かされているような気がして恐ろしかった。


「すみません、引き止めてしまって。お疲れですか?」


 スタッフが白石さんに心配そうな目を向ける。


 見れば彼女の手首は少し赤くなっており、指先には黒いインクの跡のようなものがついている。


「さっきまで、グッズのカレンダーに何百枚とサインさせられてて。もう腕がパンパンです。腱鞘炎になるかと思いました」

「毎年、一番人気ですもんね」

「あと三百枚ぐらい残ってて。もう今日は無理ですよ」


 彼女は冗談めかして唇を尖らせ、肩をすくめた。その何気ない仕草一つがとてつもなく色っぽくて、同性の私でさえ目が離せなくなるほど魅力的だった。


 こんなに綺麗な人が私と同じ「人間」だなんて、絶対に信じられない。信じたくなかった。そうでなければ、自分がどうして彼女になれないのか、永遠に説明がつかない。


「私、これから打ち合わせなので。雫ちゃんも、頑張ってね」


 ひらひらと手を振り、白石さんは再び歩き出した。彼女が横を通り過ぎる瞬間、ふわりと、薔薇の香りが鼻腔を掠めた。


 背中を見送りながら、私は深く息を吐き出した。


 私の存在は、一体何なんだろう。


 今まで必死に積み上げてきた「成瀬雫」は彼女のジャージ姿一つに消し飛ばされてしまうほどの、無価値なものだったのか。


 憧れの人に直接受け入れてもらって、優しい言葉をかけてもらったのに、笑顔で会話を交わしながら、こんな嫉妬と劣等感に塗れた醜いことを考えていた自分が本当に情けなくて惨めで、その場で泣き崩れてしまいたかった。


 すべての手続きと挨拶を終え、白嶺のビルを後にした。


 再び母親の運転する車の助手席に座った。ドアが閉まり、外の音が遮断された瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。


「いやあ……凄かったわね。本当に凄かった」


 エンジンをかけ、車を車道に出しながら、母親が興奮冷めやらぬといった様子で話し始めた。


「白石小春さん!生で見ると、テレビで見るより何十倍も綺麗なのね。顔なんて、私の拳くらいしかなかったんじゃない? あんなに綺麗な人、同じ人間でいるのねえ……」


 母親はまるで自分が遊園地で憧れのキャラクターに出会ったかのように、弾んだ声で話し続けた。


「しかも、雫のこと覚えててくれたなんて! すごいじゃない、あんなトップ女優に。同じ事務所に入れるなんて、本当に夢みたい。これで雫も白石さんみたいに大きなドラマや映画にバンバン出られるようになるのね」


 私は窓の外を流れる灰色のビル群を見つめたまま、何も答えなかった。


 母親の言葉が、鋭いナイフのように私の薄い皮膚を切り裂き、その下にある柔らかい肉を抉っていくような感覚だった。


 母は私が今日、どれほどの重圧の中で契約書にサインしたのか分かっていない。


 私が白石小春という化物を前にして、どれほど自分の無力さと偽物っぷりに絶望し、心をすり減らしたのか、気づいてもいない。


 帰りの車の中、母はずっと白石さんの美しさとオーラの話ばかりを繰り返していた。助手席で俯いている私の表情など、一度も見ようとはしなかった。


 私を祝う言葉は、一言もなかった。


 移籍が決まったことへの労いも、今日から新しい環境で戦わなければならない娘への励ましも、昨日のオーディションで私がどれほど魂を削って感情を爆発させたのかを尋ねる言葉も、何一つ。


 母は十分ほど同じ話を続けていた。私が一度も返事をしていないことに、最後まで気づいていなかった。


 母にとって、私は娘である前に「成瀬雫」という商品であり、プロジェクトの一部なのだ。白石小春というブランドと同じ空間に並べられたことを喜んでいるだけで、私自身の中身、私が抱えている不安や恐怖、醜い感情になんて、微塵も興味がない。


 みんなそうだ。


 みんな、私が必死に作り上げた綺麗な人形である「成瀬雫」のことしか見ていない。綺麗に着飾って、上手く笑って、画面の中で愛想を振りまく虚像。そこから少しでもはみ出せば、途端に興味を失うか、批判の言葉を投げつける。


 今日、あの圧倒的な本物の光を浴びて、私が打ちのめされ、泣き叫びたいほどの自己嫌悪に陥っているかなど、誰も知らない。誰も見ようとしない。


 窓ガラスに映る自分の顔を見た。


 完璧なメイク、完璧な髪型、非の打ち所のない「成瀬雫」の顔。


 この顔の裏側に隠された、醜くて、弱くて、真っ黒な泥のような感情を抱えた「中原雫」という存在を、世界中の誰一人として知らない。


 いや、違う。


 たった一人だけ。


 世界でたった一人だけ、私のこの空っぽで、醜くて、惨めな本当の姿を知っていて、それでも私を拒絶せずに隣にいてくれた人がいる。


「……神崎くん」


 私は母親の耳に届かないほどの小さな声で、ぽつりとその名前をこぼした。


 途端に、胸の奥で燻っていた彼への渇望が私の全身を駆け巡った。昨日よりもさらに強く、さらに狂おしく。


 会いたい。


 今すぐ彼に会いたい。


 彼が世界をどんな風に歪んで認識していようと構わない。彼に見えている私の顔がのっぺらぼうのようにぼやけていようが、歪な形をしていようが、そんなことはどうでもいい。


 白嶺という巨大な城に足を踏み入れ、白石小春という圧倒的な本物を前にして自分の空虚さを思い知らされた私にとって、神崎朔という存在はもはや恋という言葉では片付けられないほどの、生きていくための命綱になっていた。


 彼がいなければ私は「成瀬雫」という虚像に押し潰され、呼吸の仕方も忘れて死んでしまうだろう。


 彼に見つめられたい。顔ではなく、私の魂そのものを、その手で触れてほしい。


 車の揺れに合わせて、私の心臓が痛いほどの早鐘を打っていた。流れる景色の中、私の視線はもう彼のいる場所だけを狂おしいほどに探し求めていた。

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