ep.27
月曜日の朝のことだった。
ベッドの上で天井を見つめていた私は、手元で鳴った振動に弾かれたように飛び起きた。画面に表示されたメッセージの送り主は待ち焦がれていた神崎くんだった。
震える指でメッセージを開く。画面に表示されていたのはただ一つの位置情報を示すURLと、たった一言の短いメッセージだけだった。
『水曜日、ここに来てほしい』
水曜日。明後日だ。彼のコンクールの結果がどうだったのか。受賞したのか、それとも落選してしまったのか。
彼らしい言葉足らずなメッセージ。けれど、その短い文字の羅列を見た瞬間、分厚く張り詰めていた氷のような緊張がじんわりと溶けていくのを感じた。
「行く……絶対に行くから」
私は独り言のように呟きながら、スマートフォンを胸に抱きしめた。
待ち焦がれた水曜日。出かける準備をするため、私はクローゼットを開けた。
今日は白嶺の「成瀬雫」としてではなく、「中原雫」として彼に会いに行くのだ。ブランド物の服を避け、着慣れた淡いブルーのブラウスと、歩きやすいプリーツスカートを選んだ。メイクも最小限にとどめた。鏡の前に立ち、ファンデーションで肌の質感を隠し、アイラインで目の形を補正するいつもの作業をしながら、今日だけは少しでも本来の自分に近い顔でいたいと思った。
どうせ私の顔なんて見えないと分かっていても、私自身の心構えの問題だった。
仕上げに香水を付け、部屋を出る。
神崎くんから送られてきた位置情報は、都心から電車を乗り継いで少し離れた、練馬区にあるギャラリーを示していた。
最寄り駅で降り、地図を頼りに歩き出す。駅前の賑やかな喧騒を抜けると、そこは緑の多い閑静な高級住宅街だった。
十五分ほど歩いたところで、住宅街の一角に開けた場所が現れた。
コンクリート打ちっぱなしの洗練されたデザインのギャラリー。入り口には『高校生美術コンクール 優秀作品展』と書かれた看板が立て掛けられており、中からは談笑する声が聞こえてきた。
深く深呼吸をして、私は重厚なガラス扉を押し開けた。
受付を済ませて中へ進もうとしたその時、ふと視界の端に見覚えのある二つの人影を捉えた。
美術部の安田さんと室井先輩だった。
エントランスに入ってきた私に気づくと、なぜか二人してニヤニヤと笑みを浮かべたのだ。
「おーおー、ついに主役の登場じゃん」
二人はこちらに歩み寄ってくると、私の顔を見てさらにその笑いを深めた。まるで、何かものすごく面白い秘密を隠している、悪戯っ子の表情だった。
「こんにちは。えっと……神崎くん、来てますよね?」
私は少し戸惑いながら、二人に尋ねた。二人のテンションの理由が全く分からなかったからだ。何か私が変なことでもしているだろうか、と急に不安になる。
「来てる来てる。朝からずっといるよ」
安田さんが誇らしげに胸を張って答える。
「神崎なら、この奥のA棟にいるはずです」
室井先輩はそう言うと、意味ありげな視線を安田さんと交わし合い、バチッと効果音が鳴りそうなほど勢いよく親指を立ててみせた。力強いグッドポーズ。
「行ってきな。神崎、今頃心臓バクバク言わせてるからさ」
安田さんもまた、室井先輩に同調するように力強く親指を立てる。
一体何がそんなにおかしいんだろう。私は首を傾げた。二人の様子を見る限り、神崎くんのコンクールの結果が悪かったわけではなさそうだ。むしろ、何かとてつもなく良いことがあったような、そんな浮ついた空気が二人から漂っている。
私はまだ、彼のコンクールの結果も絵も何も知らないのだ。
「はあ……ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」
釈然としないまま軽く頭を下げ、私は二人が指差したA棟への順路を示す案内板に従って歩き出した。
背後から「青春ですねえ」「たまんねえなホント」という二人のヒソヒソ声が聞こえてきたが、私はあえて振り返らずに足早にその場を離れた。
A棟はエントランスから短い渡り廊下を進んだ先にあった。
高い天井、真っ白な壁、陰を落とす等間隔に並べられた絵画たち。油絵の匂いが鼻腔をくすぐる。この匂いを嗅ぐと、放課後の美術室と、神崎くんの背中が脳裏に蘇ってくる。私の波立っていた心が落ち着きを取り戻していく。
平日の昼間ということもあってか、人が少なかった。いくつかの作品の前で立ち止まって感嘆の声を上げている年配の夫婦や、熱心にメモを取っている学生の姿がちらほらと見える程度だ。
控えめな照明の隙間に、休憩用のベンチシート。
そこに座る、その人を見つけた。
彼はベンチシートに隣接された小さな丸机に突っ伏し、腕を枕にして寝ていた。
いや、寝ていなかった。
彼の少し癖のある黒髪から覗く耳の先は、見ているこちらが心配になるほど真っ赤に染まっていたし、机に突っ伏している背中はガチガチに硬直していた。そして何より、彼が規則正しく上下させているはずの呼吸のペースが、明らかに異常なほど早かった。
寝たふりをしているのだ。分かりやすすぎる寝たふりを。
私を見つけてとっさに机に突っ伏してしまったのだろう。安田さんや室井先輩があんなにニヤニヤしていた理由が理解できた。きっと彼らは、神崎くんが私の到着を今か今かと落ち着きなく待っている様子を、ずっと近くで見ていたに違いない。
私はそっと彼に近づき、机に突っ伏している彼の脇腹をつついた。
ビクッと神崎くんの肩が跳ねた。
彼は五秒ほどそのまま硬直した後、渋々顔を上げた。
「……あ」
彼は情けないような、どこかホッとしたような、複雑な表情を浮かべた。
「起きた?」
私がわざと意地悪くそう尋ねると、彼は視線を泳がせながら、小さく「うん」と呟いた。
私は彼の隣に腰を下ろし、彼の横顔をじっと見つめた。数日ぶりに見る彼の顔。少し伸びた前髪の奥にある瞳。その瞳が今、必死に私の輪郭を捉えようとして、細かく揺れている。その視線がたまらなく愛おしかった。
「連絡、ありがとう」
私はできるだけ穏やかな声で言った。
「絵、見に来たよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼はギュッと唇を噛み締め、さらに顔を赤くして、私の視線から逃れるように俯いてしまった。
自分の作品を見られることに緊張を抱いているのは理解できる。それにしても、この尋常ではない照れ方は何だろう。
「……あっち」
しばらくの沈黙の後、彼は消え入るような声で呟き、右手で展示室のさらに奥の方を指差した。
「あっちにあるの?」
私が尋ねると、彼はこくりと無言で頷いた。しかし、彼自身は立ち上がろうとはしなかった。ただ机に両手を置き、その手をきついほどに握りしめたまま頑なに顔を伏せている。
「案内、してくれないの?」
「……無理」
「無理って……」
「恥ずかしくて、死ぬから」
彼は顔を伏せたまま、絞り出すような声でそう言った。その声には、本気の羞恥心が込められていた。自分が描いた絵の隣に立って、私がそれを見るのを見届けるなんて、彼にとっては拷問に等しいことらしかった。
私は思わずクスッと笑ってしまった。
「分かった。じゃあ、一人で見てくるね」
私は立ち上がり、彼が指差した展示室の奥へと歩き出した。
振り返ると、彼はまた机に突っ伏したまま私の方を見ずに小さく手を振っていた。私はその子供のような仕草に微笑み返し、再び前を向いて歩みを進めた。
彼の絵はどこにあるのだろう。
壁に掛けられた様々な絵画を視界の端に捉えながら、私は展示室の最奥へと向かった。
風景画、静物画、抽象画。全国から集められた高校生たちの熱量あふれる力作が並ぶ中、私は彼の絵の匂いを探すように、ゆっくりと歩いた。どの作品も素晴らしいけれど、私の目は自然と、彼が放つ独特の空気感を探していた。
そして、展示室の突き当たり。A棟の中で最も広く、最も強い照明が当てられている特設の壁面。
そこにその絵は飾られていた。
会場の奥、一番目立つ場所。
誰もが足を止めずにはいられないような存在感を放つその場所のど真ん中にキャンバスが鎮座していた。
額縁の横には、赤いリボンと金色のリボンが二つ下がっていた。
『金賞』
『審査員特別賞』
その文字を見た瞬間、私の胸が熱くなった。
そして、そのリボンの下に掲げられているタイトルプレートに視線を移した。
『君の顔が描けたら』
そのタイトルを見た瞬間、心が波打った。
「君の顔が……」
無意識のうちに、声に出してその文字をなぞっていた。言葉が唇から溢れるたびに、胸の奥の鼓動が早くなる。
私は息を呑み、ゆっくりと視線を上げ、キャンバスの全体像をその瞳に焼き付けるように捉えた。
絵の前に立って、最初は何も考えられなかった。
そこに描かれていたのは、桜の木の下に立つ、一人の女子高生だった。
紺色のブレザー、赤いリボン、そして少し短く直されたプリーツスカート。彼女は満開の桜の木の下で、春の柔らかくて眩しい光の中に立っていた。
背景の桜はまるで本物の花びらがキャンバスから零れ落ちてきそうなほど、緻密で、狂気すら感じるほどの執念で描き込まれていた。ピンク、白、微かな紫。幾重にも塗り重ねられた油絵の具の厚みが、春の生ぬるい風や、花の甘い匂いまでもを錯覚させるほどに生々しくそこにあった。絵の具の盛り上がりが彼の筆の軌跡を、彼がどれほどの熱量でそこに命を吹き込んだかを物語っていた。
木漏れ日が彼女の髪に落ち、肩を撫で、足元の影へと溶け込んでいく。光と影のコントラストが世界が彼女を中心に回っているかのような錯覚さえ覚えさせる。
しかし。
その女子高生に顔はなかった。
目も、鼻も、口も、何も描かれていなかった。
桜の花びらが舞っていた。
白くて、薄くて、儚い桜の花びらが、そっと、彼女の顔を覆い隠すようにキャンバスに舞っていた。
一歩、近づいた。その花びらの下に絵の具の層が幾重にも重なっているのが見えた。描きかけては潰した痕がそこには確かにあった。
気づくまで、少し時間がかかった。
頭のどこかでは、タイトルを見た瞬間から気づいていたのかもしれない。
これは、私だ。
神崎くんは、私を描いたのだ。
胸の奥から、言葉にならない感情が押し寄せてきた。
私はキャンバスに一歩近づき、舞い散る白い花びらの質感を見つめた。
彼は、顔が描けなかったんじゃない。
描こうとして、私という人間の顔をどうにかして捉えようとして、必死に手を伸ばし、何度も何度も彼は描き続けたのだ。
ふと、絵の横に掲示されている、審査員の講評パネルが目に入った。読みかけて、目を逸らした。
読まなくていい。私にはもう分かっていた。
気づいたとき、私は泣いていた。
呼吸をするたびに、熱い塊が込み上げてきて、肩が激しく震えた。涙が出ているのに気づいたのは、キャンバスの桜のピンク色が、私の視界の中で歪んでぼやけてからだった。
こんな公の場で、人の目があるギャラリーの中で泣き出すなんて、芸能界に身を置く者として、いや、一人の高校生としても馬鹿みたいだ。
でも、止まらなかった。
両手で顔を覆っても、指の隙間から熱い涙が次々と溢れ出し、床に小さなシミを作る。嗚咽が漏れないように必死に歯を食いしばるけれど、胸の上下を抑えることができない。
涙でぐしゃぐしゃになった視界の中で、春の光に包まれた私は、優しく微笑んでいるように見えた。




