ep.28
ガラス扉を抜けると、空はすでに深い藍色に沈みかけていた。
ひんやりとした秋風が肌を撫でる。私は無意識に肩をすくめ、小さく息を吐いた。ほんのわずかに白く色づいた吐息が夜の空気の中へ溶けて消えていく。どこからか漂ってくる、落ち葉が乾いた匂いと、焦げたような秋の香りが鼻腔をくすぐった。
「……結構、長居しちゃったね」
私が呟くと、神崎くんはゆっくりと瞬きをしてから「そうだね」と短く言った。
彼の声はいつも静かだ。
駅へと続くイチョウ並木の通りを私たちは並んで歩き始めた。
等間隔に並んだ街灯がオレンジ色の光を灯し始める。黄色く色づいたイチョウの葉を照らし出し、アスファルトの歩道に私たち二人の細長い影を落としていた。
彼と並んで歩く。
それだけのことが私にとっては特別だった。
今、私の隣を歩く神崎くんとの間に、あの十メートルの距離は無い。
手を伸ばさなくても、彼に触れてしまいそうなほどの近さ。どちらから「一緒に帰ろう」と明確な言葉で提案したわけでもない。展覧会を終えて、同じ方向へ向かって歩き出したのだ。
駅までの道のり。
話すことは特になかった。
普通なら、ついさっきまで見ていた展覧会の感想を言い合う場面だろう。会話の糸口なんていくらでも転がっている。
でも、不思議なことに今の私はまったく焦っていなかった。神崎くんとの間の沈黙は少しも苦しくなかった。
彼の歩くペースは少しだけ遅い。私の歩幅に合わせてくれているのか、それとも彼自身の元々のペースなのかはわからないけれど、急かされることのないそのゆったりとしたリズムが秋の夜の静けさと見事に調和している。
たまに通り過ぎる車のエンジン音。遠くで聞こえる、踏切の警報音。
私たちの足音が静かに重なり合っている。彼が息を吸い、吐く気配すらも感じ取れるほどの距離感。
言葉を交わさなくても、ただ同じ空気を吸って同じ景色を見ながら歩いているだけで、私の内側はじんわりとした温かいもので満たされていった。
彼もまた、この沈黙を心地よいと思ってくれているだろうか。
私と歩くこの時間を少しでも安らぐものだと感じてくれているだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、ふと、視界の端で揺れる彼の左手に目がいった。
少し長めのコートの袖口から覗く、白い指先。歩くリズムに合わせて、その手は私のすぐ横を、前へ、後ろへと規則正しく揺れている。
……触れたい。
唐突に、そんな感情が胸の奥から湧き上がってきた。それは純粋で、抗いがたい衝動だった。彼の体温を知りたい。
頭の中で「やめておけ」と警告する理性の声はあった。
急に手を繋ごうとしたら、彼を困惑させてしまう。せっかくの心地よい関係が壊れてしまうかもしれない。軽薄な女の子だと思われたらどうするのか。
さまざまな不安が脳裏をよぎったはずなのに、私の身体は理性のブレーキを完全に無視していた。
しばらく歩いたところで、街灯と街灯の間の、少し暗がりになった場所。
私は右手を伸ばしていた。揺れる彼の左手に向かって、私の右手が吸い寄せられていく。
そして。
そっと、私の指先が、彼の手に触れた。
布越しではない、直接の肌と肌の接触。
秋の冷気に晒されていた彼の指先は想像よりずっとひんやりしていた。けれど、その芯には消えかけた熱のようなものがあって、少しずつ私の手のひらに移ってくる。
触れてしまった。
途端に、怖くなった。
反射的に手を引っ込められて、戸惑ったような顔をされるかもしれない。最悪の場合、無言のまま距離を取られて、見えない壁が私たちの間にそびえ立つ。
自分の不用意な行動を激しく後悔し、すぐに手を離して「ごめん、手が当たっちゃった」と笑って誤魔化す準備をした。
でも。
神崎くんは、立ち止まらなかった。
歩調を変えることもなく、手を振り払うこともなく。ただ、今までと同じ規則正しいリズムで歩き続けながら、少しだけこちらへ顔を向けた。
街灯の光が、彼の横顔を柔らかく照らし出す。
その顔を見て、私の息は完全に止まった。
泣いていた。
神崎くんはこっちを見て、静かに泣いていた。
表情はいつものように穏やかなままで、眉をひそめることも、唇を震わせることもしていない。嗚咽も鼻をすする音も一切ない。
ただ、彼の澄んだ瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
光を反射した透明な雫が滑らかな頬を伝い、顎先で光ってから、秋の夜の闇の中へ落ちていく。瞬きをするたびに、新しい涙がとめどなく溢れ出し、彼の長い睫毛を濡らしていた。
静かで美しい涙だった。
悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか。私にはその涙の理由がまったくわからなかった。ただ、彼がずっと一人で抱えてきた何か、その心の奥底にある湖のような場所から、静かに何か溢れ出してしまったのだということだけは理解できた。
世界からすべての音が消え去ったような錯覚に陥る。
ただ、彼の瞳から落ちる涙の軌跡だけが、鮮明に私の網膜に焼き付いていく。
「ごめん、嫌だった?」
喉の奥に張り付いたような声で、私はようやくそれだけを絞り出した。
私が急に触れたせいで、彼を傷つけてしまったのかもしれない。彼の心の中に無理やり踏み込んで、開けてはいけない扉を開けてしまったのかもしれない。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、私は触れていた指先を離そうとした。
しかし。
私が手を引こうとしたその瞬間、神崎くんの指が動いた。
私の指先を滑り落ちようとしていた彼の手が私の手を包み込むように動き、そのままそっと、繋ぎ直した。
私が少しでも抵抗すれば、簡単に解けてしまうような、ふわりとした、優しい握り方。
けれど、彼は絶対に離さなかった。
彼の少し大きくてひんやりとした指が私の指の間を縫うようにして重なり合い、掌と掌がぴたりと密着する。互いの体温が交わり合い、冷えていた手がじんわりと内側から温められていく。
手を通じて、彼の静かな鼓動が私の皮膚の下へと流れ込んでくるようだった。
「……嫌じゃない」
夜の空気に溶けてしまいそうな、吐息のような声。
「このままでいいから」
繋がれた手から伝わってくる、確かな重みと熱。
胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、私まで泣きそうになった。鼻の奥がツンと痛くなり、視界がぼやけそうになるのを必死で瞬きをして堪える。
なぜ泣いているのか。
私は、聞かなかった。
もしここで立ち止まり、尋ねれば、彼はきっと答えてくれただろうと思う。自分が何を感じ、何を思い、なぜこんなふうに涙を流しているのかを、不器用ながらも私に伝えようとしてくれたはずだ。
でも、聞かなかった。
言葉なんて、今の私たちには必要ない気がしたからだ。
涙で濡れた彼の瞳が、私をまっすぐに見つめている。
その視線を受け止めた瞬間、私の心の中で、何かが静かに形を変えた。
この人は今、初めて私を見ている。
今までずっと、私の方から一方的に彼を見つめているだけだと思っていた。
でも違った。
今の彼の目の中には「私」という人間がはっきりと映り込んでいる。
繋いだ手にほんの少しだけ力を込める。すると、彼の手からも、同じだけの優しい力が返ってくる。
夜空の下、駅までの道のりを私たちは手を繋いで歩いた。




