ep.29
──二年後。
深夜三時。
机の上に広げたままの色彩学のレポートには、ここ数時間、一行も文字が増えていない。
僕はただぼんやりと手元のシャーペンの金属部分を指の腹で転がしていた。銀色の冷たい感触と、それが指に擦れる微かな音。……それは建前で、僕の視線はさっきから机の隅で静かに光る画面に釘付けになったままだ。
『ねぇ、朔、聞いてる?』
少しだけノイズの混じったくぐもった声が静まり返った部屋に響く。
机の隅に置かれた分厚いデッサンの教科書。それに立てかけられたスマホ。
「……あ、ごめん」
スピーカー越しにシーツが微かに擦れる乾いた音が鼓膜を打った。画面の中の雫は、ホテルのベッドらしき真っ白なシーツに寝転んでいた。
無造作に散らばる髪と、眠そうな声。
時折、小さくあくびをしている気配がある。長時間の撮影で疲れているんだろう。それでも彼女は、削れるはずのない睡眠時間を削ってまで、深夜の通話を繋ぎ続けている。
「……なんだっけ」
僕が言葉を促すと、彼女は少しだけカメラに近づき、画面の中の白い布地が大きく波打った。無防備に覗く鎖骨のラインに視線が泳いでしまう。
『明日の撮影、上野駅の近くなんだ。大学、すぐ近くでしょ』
「うん」
『だから、空きコマに会いに来て』
会いたい。今すぐにでも。けれど、机の上では山積みになった課題の資料と、まだ白紙に近いレポート用紙が僕を見上げている。
「うーん、色彩学のレポート迫ってるし、きついかな」
理性を総動員して、もっともらしい言い訳を口にすると、画面越しの彼女は不満を形にするように枕を抱き寄せた。
『今月あと一回しか会えないんだから、もう少し頑張ってくれませんかねぇ』
今月あと一回。
芸能人としての彼女の時間は、僕のような学生のそれとは比べ物にならないほど細かく切り刻まれ、無数の大人たちによって消費されている。この深夜三時の通話だって、彼女が必死に掻き集めた時間の欠片なのだ。
「仕方ないな」
わざとらしくため息を吐くようにしてそう言うと、スピーカーから、空気が弾むような声が返ってきた。
『やった。神崎監督……あ、怜奈さんもいるよ』
「……やっぱり、やめとこうかな」
あの姉の前で、雫にデレデレしてしまう自分を晒すのは流石に気恥ずかしい。彼女を前にして冷静を装うなんて、僕にはできるわけがない。
シーツの中で身じろぎする音と一緒に、ふふ、と小さく笑う声が聞こえる。
いたずらっぽく弾む、彼女の声。
いつもなら、次の瞬間には黒い靄に飲み込まれるはずだった。
靄が、なかった。
あの日と同じだ。
瞬きするのも忘れて、僕はただ画面を見つめていた。
眠たそうに細められた、その瞳。
ずっと空白だった場所に、彼女がいた。
どれくらい見つめていたのか分からない。画面の向こうで長い睫毛が揺れて、僕はようやく息をした。
『朔、どうかした?』
「なんでもない」
僕は、静かに首を振った。
彼女には言わないでおこう。
いつか、もっとちゃんとした言葉で言える日が来たら、その時に。




