中原雫・柔軟剤
一人暮らしを始めて、二日目。
日用品を買い揃えるため、私は近所のドラッグストアに足を運んでいた。
カゴの中には、洗剤、スポンジ、ゴミ袋などがすでに放り込まれている。それなのに、私はもう二十分近く柔軟剤コーナーの前から一歩も動けずにいる。
目の前に立ちはだかるのは、巨大な棚一面にズラリと並べられた色とりどりのボトルたち。
「華やかなローズの香り」
「一日中続く消臭効果」
「高級ホテルのラグジュアリーな香り」
「赤ちゃんにも使えるボタニカル」
情報量があまりにも多すぎる。私がここで立ち往生している理由は「どれが一番お得か悩んでいるから」ではない。
朔と同じ香りにしたい。それだけ。
引っ越してきたばかりの部屋は一人でいるとふとした瞬間に孤独が忍び寄ってくる。だからせめて、彼の気配を感じていたかった。
けれど、私は彼が使っている柔軟剤の銘柄を知らない。
『使ってる柔軟剤なに?』
LINEを開き、そこまで打ち込んで指が止まる。
だめだ、やっぱり恥ずかしい。
付き合っているのだから、これくらい聞いても何もおかしくないはずだ。むしろ、「買い出し中なんだけど、迷っちゃって」とでも誤魔化せば、他愛のない会話として自然に成立するだろう。
でも、もし彼に「どうして?」と聞かれたら?
「寂しいから、同じ匂いにして一緒にいる気分を味わいたくて」と答えるしかないじゃないか。そんなの、あまりにも重たい気がする。
新しい生活を始めるというのに、初日からこれでは彼に引かれてしまうかもしれない。
結果、私は大量のボトルが並ぶ棚の前でただひたすらに立ち尽くすことになってしまったのだ。
こうなったら、自力で探し当てるしかない。
私は意を決して、棚にぶら下がっているテスターを片っ端から嗅ぎ始めた。
フローラル、シトラス、グリーンハーブ、フルーティピーチ。どれも良い香りではあるけれど、なんだか違う。これじゃない。
彼の匂い。
記憶の中の朔を引き寄せてみる。絵の具の匂い。紙の匂い。そして、その奥からふんわりと香る、日向みたいに温かくて柔らかい匂い。
思い出せば思い出すほど、会いたくなるだけだ。
眉間に皺を寄せながら次々と嗅いでいると、背後から声がした。
「あの……何かお探しですか?」
振り返ると、品出し中の店員さんが、心配そうな顔でこちらを見ている。
「い、いえ、大丈夫です!」
私は弾かれたように顔を上げ、裏返った声で答えた。一つの棚の前で二十分も立ち止まり、テスターを血眼になって嗅ぎまくる女。完全に不審者じゃないか。
これ以上長居するのは危険だと判断した私は、再びLINEの画面を開いては閉じるという未練がましい行動を一度だけ挟み、小さくため息をついた。
「もうこれでいいや……」
半ばやけくそで適当に一本掴み、レジへと向かった。
家に帰り、さっそく買ったばかりの洗剤と柔軟剤を使って洗濯機を回した。
ベランダに干すとき、濡れた布地からふわりと香りが立ち上る。清潔感のある、ほのかなサボンの香り。決して悪くない。むしろ万人に好まれるいい匂いだけれど。やっぱり、あの彼特有の温もりを感じる香りとは違う。
「……しばらくはこれで我慢しよ」
初夏の風に揺れる洗濯物を見つめながら、私は肩を落とした。
それから数日後。
まだソファもテレビもなく、ラグと小さなローテーブルだけが置かれた私の新居に、朔が遊びに来た。
午後からやってきて、段ボールの片付けや荷解きを手伝ってくれた彼は夕方になると「汗かいたからシャワー借りてもいい?」と言って、バスルームへと消えていった。
私はラグの上に座り、昼間に取り込んでおいた洗濯物を畳んでいた。彼の着替えのTシャツを用意し、タオルを膝の上で整えていると、ドアが開く音がした。
「あー、さっぱりした」
濡れた黒髪を私が貸したタオルで拭きながら、朔がリビングに戻ってくる。その時、タオルに顔を埋めるようにしていた彼の動きが止まった。
「……あれ、柔軟剤同じだ」
タオルに鼻先を押し当てたまま朔が呟いた。
「え?」
私は目を丸くして彼を見た。
あの日、半ば自暴自棄になって適当にカゴに入れたあの一本が同じだったなんて。
ドラッグストアで彼に聞けなくて一人で悶々としたことも、不審者扱いされそうになりながらテスターを嗅ぎまくったあの無駄な時間も、すべてが報われたような気がした。
気づけば、私は小さく笑みをこぼしていた。
「どうしたの?」
少しだけ首を傾げたままの彼が私の顔を見つめながら尋ねる。
「……別に」
私は手元にあったもう一枚の洗いたてのタオルを、そっと抱きしめた。
ふわりと立ち上ったその香りは、日向みたいに温かくて柔らかい私の大好きな人の匂いだった。




