成瀬朔・ばらの花
仕事に向かう時、僕はいつも「成瀬朔」という名前を被る。
イラストレーターとしての活動を始めた時、ペンネームをどうするか迷った末に選んだのがこの名前だった。
今や見ない日はない若手女優、成瀬雫。そんな彼女の芸名と同じ苗字をこっそり名乗るなんて、滑稽であることは自分でもわかっていた。
けれど、あの時の僕には他に選択肢などなかったのだ。彼女が手の届かないきらびやかな世界へと羽ばたいていく中で、僕だけが取り残されていく焦燥。せめて名前の一部だけでも共有していたいという、独りよがりな理由だった。
ある日の朝、どんよりとした曇り空の下で担当から新しい依頼のメールが届いた。添付されていたファイルには、新人作家「遠野理玖」の新作のあらすじと、キャラクター設定、プロットが記されていた。
主人公は二十代半ばの女優。周囲からは「完璧」だと評価されている。演技もでき、容姿も端麗で、誰に対しても分け隔てなく優しい。けれど、その裏側で、彼女は誰にも言えない深い孤独を抱えている。他者に本当の自分を見せることを極端に恐れ、夜になると部屋の隅で膝を抱えてやり過ごす。そんな脆さを持った女性だった。
送られてきた原稿の序盤を読んだだけで、作品の世界観に引き込まれた。切なくて、息苦しくて、それでもページを捲る手が止まらない。イラストの構想はすぐに決まった。
それなのに、描けない。
タブレットの上で、ペンを何度滑らせても違和感が拭えなかった。何枚ラフを描いては消しただろうか。画面の中の彼女は確かに美しい。しかし、生きていないのだ。彼女の呼吸が、孤独が、血の通った温度が、全く感じられない。
あてどなく画面を見つめ、色を置き、また消す。そんな不毛な作業を繰り返しているうちに、窓の外からは雨音が聞こえ始めていた。
少し、歩こう、と独り言を呟き、ペンを置いた。これ以上画面と睨み合っていても、良いものは生まれない。雨の中でも気分転換に外へ出ることを決め、カーディガンを羽織って傘を手に取った。
向かう先は決まっていたわけではない。ただ、足が自然と向かっていた。
カラン。背後でドアベルが静かに鳴った。店内に入ると、コーヒー豆の焙煎された深い香りがした。
カウンターの奥で、マスターが柔らかく微笑む。
「いらっしゃい。ひどい雨だね」
「ご無沙汰してます。急に降ってきましたね」
傘立てに傘をしまいながら、僕はカウンターの端に腰を下ろした。マスターはこちらを見つめた後、視線を僕の隣へと移した。
「雫ちゃんは、一緒じゃないのかい?」
「今日も仕事なんです。彼女、最近すごく忙しくて」
「そうか。最近来ないなと思ってたんだよ」
「はい……僕も最近、全然会えてなくて」
僕は少しだけ寂しそうに笑った、と思う。自分がどんな顔をしていたかなんて、分からない。
「今日はちょっと長居してもいいですか。僕も仕事があって」
「もちろん。好きなだけいていいよ」
マスターは優しく頷き、お冷とおしぼりを置いた。
「あんまり思い詰めないようにね」
その温かい言葉に、張り詰めていた肩の力が抜けるのを感じた。
テーブルに置かれたメニューを開く。レモンスカッシュ。クリームソーダ。コーラフロート。ありふれた飲み物の中で、見慣れない名前が目に留まった。
『ばらの花』
僕は不思議に思って、カウンター越しのマスターに尋ねた。
「マスター、これって何ですか? 『ばらの花』って」
「ああ、それね。オリジナルのジュースなんだ」
マスターは少し笑いながら、布巾でグラスを拭く手を止めた。
「僕の好きなアーティストの曲名なんだよ。雨の日になると聴きたくなる曲でね。それをイメージして作ってみたんだ」
「曲名、ですか」
「そう。ソーダとバラ風味のシロップを合わせたものなんだけどね」
マスターは僕の目をじっと見て、こう付け加えた。
「今の朔君に、合う気がする」
その言葉に背中を押されるようにして、僕はメニューを閉じた。
「じゃあ、それを一つお願いします」
「はいよ」
しばらくして運ばれてきたそれは、美しい飲み物だった。透明な背の高いグラス。その底には鮮やかなピンク色のシロップが沈んでいる。そして、氷の上にはミントとドライのバラの花びらが数枚散らされていた。
ストローでゆっくりと底のシロップを混ぜ合わせると、全体が淡い桜色に染まっていく。僕はストローに口をつけ、一口吸い込んだ。
最初に舌に触れたのは花の蜜のような華やかな甘さだった。けれど、それは一瞬で終わらない。甘さのすぐ後から、ほのかな苦味が追いかけてくる。そして、鼻に抜ける高貴な花の香り。ただ甘いだけのジュースじゃない。思っていたよりずっと複雑で、奥深い味がした。
どうしてだろう。その味が、雫のことを思い出させた。
彼女と過ごした日々は、決して楽しい思い出ばかりではない。一緒に笑い合ったこと、夢を語り合ったこと、手を繋いで歩いたこと。そんな甘くて綺麗な記憶と同じくらい、苦くて痛い記憶がある。些細なことですれ違ったこと。心にもない言葉をぶつけて、彼女を泣かせたこと。傷付けたこと。
そして今、会えなくてどうしようもなく寂しいこと。
美しい関係のままでいたかった。でも、人間はそんなに単純じゃない。泣いたり、怒ったり、嫉妬したり、見苦しい部分を晒け出したり。そういう泥臭くて、渋くて、少し苦い感情の交わりの上に、僕たちの関係は成り立っていたはずだ。
綺麗なだけじゃないから、大切なのかもしれない。複雑で、時に飲み込みづらくて、それでも香りがいつまでも残る。だからこそ、愛おしいのかもしれない。そんな考えがグラスの氷がカランと鳴る音と共に頭をよぎった。
グラスが空になる頃には僕の頭の中は様々な思考が渦巻いていた。外の雨はまだ降り続いている。僕はタブレットを開くことはせず、二杯目を頼むことにした。
「マスター、次はジンジャーエールをお願いします」
「結構辛口だけど、いいかい?」
「ええ、大丈夫です」
程なくして出されたジンジャーエールを口にして、僕は驚いた。
「っ……!」
思ったより、ずっと辛い。喉を焼くような強烈な炭酸の刺激と、生姜の苦味と辛味がガツンとくる。
市販のジンジャーエールやファミレスのドリンクバーで出てくる、砂糖の甘さが前面に出た爽快なだけのジンジャーエールとは完全に一線を画していた。
市販のものは、誰にでも好まれるようにトゲが抜かれ、炭酸の心地よさとシロップの甘やかさで綺麗に整えられている。しかし、目の前にあるこの液体は、生姜という植物が持つ本来の味がダイレクトに喉と鼻を刺激してくるのだ。
「ごめんごめん、辛かったかい?」
「いえ……もっと甘いものだと思ってたので驚きました。高校の頃からこのお店には通ってましたけど、これは頼んだことがなかったですから」
僕の言葉にマスターは笑った。
「レシピは昔からずっと変えてないよ」
「じゃあ、僕が知ってるジンジャーエールのイメージとはだいぶ違いますね」
「……変わったのは、味かな」
マスターは少し間を置く。
「それとも、朔君かな」
僕は言葉を失った。高校生だったあの頃、僕はまだ子供で、物事の表面的な分かりやすさしか受け付けなかった。もしあの頃の僕がこれを飲んでいたとしても、ただ顔をしかめていただろう。誰にでも好まれるよう綺麗に整えられた甘さだけを求めていたはずだ。
今は違う。この喉を焼くような辛さの中に確かな旨味と深みを感じることができる。僕も雫も変わったのだ。大人になるということは、そういう複雑な味や、一見すると敬遠したくなるような生々しい苦味を、受け入れられるようになるということなのかもしれない。
グラスが空になった頃、店内には僕とマスターの二人だけになっていた。静かなジャズの調べと雨音。僕はマスターに仕事の話を始めた。
「今、ある小説の表紙イラストを描かせてもらっているんです。でも、全然筆が進まなくて」
「スランプかい?」
「スランプというか……主人公の姿が見えないんです。設定はわかってる。どういう服を着て、どんな表情をするのかも。でも、何度描いてもただの作り物にしかならなくて」
マスターは手を止め、窓の外で降りしきる雨を静かに見つめた。
「……人も、物語もね」
マスターの静かな声が店内に響く。
「綺麗なところだけ見てたら、本当の姿は見えないよ」
その言葉にはっとした。
そうだ。僕は主人公を好きになろうとしていた。読者に愛されるように、魅力的に、美しく描こうとしていた。彼女が抱える「完璧さ」という表面的な殻の部分だけを綺麗にコーティングして、その奥にあるはずの泥沼のような孤独から目を逸らしていた。
傷付くことを恐れる弱さ。他人を拒絶してしまう醜さ。夜の闇の中で膝を抱える迷い。心の奥底に生々しく刻まれた傷。そういう部分を見ようとしていなかった。見ないふりをして、「綺麗で可哀想な女の子」というフィルターを通して彼女を描こうとしていたのだ。
だから、描けなかった。彼女は人形じゃない。血を流し、苦味を知り、痛みを抱えて生きている人間なのだ。『ばらの花』の複雑な味のように。ジンジャーエールの刺すような辛味のように。人間は、綺麗なだけじゃない。
「マスター……ありがとうございます」
僕は立ち上がり、財布からお金を出した。
「もう行くのかい?」
「はい。今なら、描けそうな気がして」
マスターは嬉そうに目を細め、お釣りとともに小さなキャンディーを二つ、僕の手に乗せた。
「頑張って。雫ちゃんにも、よろしくね」
「はい」
店を出ると、いつの間にか雨は上がっていた。雲の隙間から、ぼんやりと青白い月が顔を覗かせている。雨上がりの街は汚れが洗い流されて空気が澄んでいた。水たまりを避けながら、僕は早足でアパートへの道を急いだ。
帰宅し、濡れた靴を脱ぎ捨てるなり僕はデスクに向かった。タブレットの電源を入れ、僕は躊躇なく真っ白なキャンバスを新しく作成した。
ペンを握る。もう、迷いはなかった。
彼女の瞳には、どんな孤独が宿っているだろうか。完璧を演じるために、どれほどの血を流してきただろうか。弱さを。醜さを。迷いを。傷を。そのすべてを抱えた美しさが線に宿っていく。
主人公の輪郭が、今度こそはっきりと僕の目の前に現れようとしていた。
朝の光が窓の隙間から差し込んでくる頃、僕はようやくペンを置いた。
タブレットの画面を見つめる。そこには、僕がずっと探し求めていた彼女がいた。完璧な微笑みではない。どこか泣きそうな、それでいて凜とした強さを秘めた瞳。
傷付いた心を隠すように、彼女の胸に抱かれているのは、自然界には存在しない、不可能の象徴。そして、「夢かなう」という新しい花言葉を与えられた花。
画面の中の彼女は、深い夜のような青い薔薇を大切そうに抱きしめていた。




