杉本奏多・親友
高校三年生の六月。美術室の窓際で、俺は医学部受験に向けた数学の問題集を広げていた。
見た目と志望校のギャップに最初は先生たちも目を剥いていたけれど、模試でA判定をキープし続けている今となっては何も言われない。結局のところ、結果で黙らせるのが一番楽だ。
少し離れた席では、安田が英語の長文と格闘している。部屋の奥では、朔がキャンバスに向き合っていた。
「おわった」
シャーペンを置き、大きく伸びをした。三人とも各々の課題に向かっていたが、俺は早々に今日のノルマを終わらせてしまった。
手持ち無沙汰に周囲を見回すと、朔が脇に置いたスマホを気にするように覗き込むのが見えた。
無愛想にキャンバスに向かっていたあいつの表情が、目に見えて柔らかく解けた。
俺と安田の視線が交差する。当然、俺たち二人がそれを見逃すはずもない。
「……未だに慣れねえ」
「何が?」
俺がぼやくと安田が小首を傾げた。
「朔の彼女が雫ちゃんなことだよ」
わざと聞こえるように言うと、ピタリと朔の筆が止まった。
「分かる。この前も駅前でデカい広告見た」
「だろ? ドラマでもバンバン出てるしさ」
「……まあ、それが仕事だからね」
視線を落としたまま、朔が気の無い返事をする。
「お前なぁ……」
「あんた絶対感覚バグってる」
絶賛ブレイク中の女優が自分の彼女なのだ。もう少し浮かれたりしてもいいはずなのに、こいつの凪いだ態度はなんだ。
「中学の時の朔なんて悲惨だったぜ? 女子に『消しゴム貸して』って声かけられただけでフリーズして」
「なにそれウケるんだけど! やばっ!」
「奏多、それ以上言うな……」
俺しか知らない朔の黒歴史を暴露すると、安田はお腹を抱えて大爆笑した。
「そんな奴が今やあの『成瀬雫』の彼氏だぜ? 人生何があるか分かんねえよな」
「間違いない。てか、神崎にはもったいなさすぎる」
安田が面白がって乗っかってくる。俺もニヤニヤしながら追撃を開始した。
「で? 最近ちゃんと会えてんの?」
「今は京都で撮影中だから、会ってない」
「へえー。じゃあ、毎日連絡はしてんの」
「……夜に」
最初はしぶしぶといった感じで答えていた朔だけれど、律儀なやつだから質問にはきっちり答えてしまう。そして、答えれば答えるほど、二人が順調に『付き合っている』という事実が浮き彫りになっていく。
面白がった俺と安田は、さらに調子に乗ってアクセルを踏み込んだ。
「夜って、電話どれくらいすんの? 毎晩?」
「誕生日のプレゼント、何あげたわけ?」
「てかさ、家にはもう行ったの?」
「部屋には入った?」
完全に高校生特有の、遠慮のない雑談だ。朔は深いため息をつきながら、筆を置いてついにこちらを振り向いた。
「……勉強に集中しなよ」
俺たちがそんな正論で止まるはずもなかった。
「で?」
安田が悪びれもせず身を乗り出した。
「何」
「キスした?」
「……」
「あ、したわこれ」
「してない」
「じゃあ、その先は?」
「……勘弁して」
「どこまでいったの?」
「答えない」
「気持ちよかった?」
普段からBL漫画で英才教育を受けているせいか、直球すぎる下ネタだ。えげつない角度から斬り込む安田の横で、俺は腹を抱えて笑った。
一対二の構図で、完全に朔が押されまくっている。
「安田、お前マジで容赦ねえな!」
「だって気になるじゃん! 神崎のくせに!」
「……」
赤くなった顔を隠すように、朔が再びキャンバスへ向き直った。
ひとしきり朔をいじり倒して満足したところで、話題は自然と少し先の未来へと逸れていった。
「まあでも、俺は医学部だし、安田は……」
「私は文学部ね。指定校狙い」
「朔は美大。三人とも、バラバラの道に進むんだよなぁ」
高校生活も、もう残り少ない。気付けば高三の六月だ。秋になれば本格的に受験シーズンに突入し、こうやって馬鹿みたいに笑い合う時間も減っていくのだろう。
湿っぽくなるのは俺のガラじゃない。わざと明るく「ま、なんとか卒業までは生き延びようぜ」と笑い飛ばした。
その時、朔のスマホが短く震えた。
「……ごめん。ちょっと電話」
そう言い残して、朔は足早に美術室を出て行った。電話の主が誰かなんて、聞くまでもない。
パタン、と扉が閉まり、残された俺と安田の間に少しだけ静かな時間が流れる。
「あいつ、なんだかんだ彼氏やってるな」
ぽつりと俺がこぼすと、安田も微かに口角を上げて頷いた。
「ほんと。神崎なのにね」
二人で小さく笑い合う。廊下の向こうで、微笑みながら電話をしているであろう親友の姿を想像する。朔があんな風に誰かと繋がれるようになったことが、俺は素直に嬉しかった。
それからしばらくして、朔が美術室に戻ってきた。
「長電話、お疲れさん」
「うるさい」
短く吐き捨てた親友の横顔は、どこか浮かれていた。




