ナツメルート後日談短編:道は途切れない
春の嵐は突然やって来た。
先ほどまで晴れていたのに、空にはあっという間に雲が広がる。
やがて雷が鳴り、土砂降りの雨が地面を打ちつける。
ナツメはスーパーの店先で立ち尽くしていた。
今日は傘を持って来ていない。
雨脚が弱まるのを待つが、どうにも雨が止む気配はなかった。
エコバッグを片手に、スマホを取り出す。
黒い画面をしばらく眺めること、数分。
ようやく観念したように、メッセージアプリを開く。
『傘持ってない。迎えに来てくれ』
ごめん、とスタンプを添えてメッセージを送る。
返事はすぐに返ってきた。
『了解』
それだけの短い返事。
でもその下には、傘を持った猫のスタンプがあった。
それを見てナツメは苦笑する。
再会したばかりの頃、昔のマリアを思い出した。
マリアはスマホを持っていたが、登録された連絡先は母親と姉弟、ユリカのみ。
メッセージアプリもスマホに入っていたが、電話しか使っておらず、メッセージの送り方を知らなかった。
学生時代からマリアはそういうところがあった。
遊園地に行ったことがない、ボウリングって楽しいの?
そんなことを言っては周囲の笑顔を誘っていた。
いじめではない、むしろ好意的に見られていた。
世間ズレしていない純粋な存在。
外見の美しさと併せて、誰も足を踏み出せない真白い新雪のような扱いだった。
マリアは幼い頃からたくさんの好意を寄せられていたが、本人にその自覚は薄い。
恋愛感情に忌避感があったのもそうだが、マリアに直接告白した人間が少なかったせいでもある。
男も女も、誰もが手を出すことを躊躇わせる独特の空気があった。
そんなわけで、友人はいたのに、世俗的なことはあまり経験することなく育ったのがマリアだった。
大人になって再会しても、相変わらずメッセージ一つ送り方を知らない。
それを教えたのはナツメだった。
アプリに自分の連絡先を登録して、目の前でメッセージを送って見せた。
そうしていつしか、マリアはスタンプまで使いこなせるようになっていた。
恋人になってからも、マリアには驚かされてばかりだった。
デートをしたことがない、これはわかる。
デートでどこに行けばいいかわからない、これもわかる。
じゃあどこに行きたいか二人で考えればいい、と提案すれば、マリアは困った顔をした。
「デートは最後にラブホテルに行くのが普通なの?」
そう言われたとき、ナツメはそんな情報をマリアに教えた人間に軽く殺意が湧いた。
「そんなわけあるか!それを普通だと思わないでくれ」
「そうなの?じゃあ、大丈夫かも」
そう言ってマリアは心底安堵した顔をしていた。
初デートに浮かれていたはずなのに、冷や汗が止まらなかった。
結局話し合いの末、初デートはフラワーパークに決まった。
マリアは特別花が好きというわけではなかったはずだと思い確認したら、
「ナツメが髪に挿してくれた花」
「今なら嬉しいと思うから」
と言葉少なに返されて、赤面してしまった。
初デートの後、マリアが満足そうな顔で言った言葉を、ナツメは今でも忘れられない。
「こんな素敵な場所に縁のない人生だったから、楽しかった」
それ以来、ナツメはデートの度にマリアを色々な場所に連れて行った。
遊園地、ボウリング、水族館。
ナツメにとってはありふれた場所ばかり。
それでもマリアは毎回楽しみにしてくれて、帰るときは満足そうな顔をしてくれた。
結婚してからは少しだけ勇気を出して、カラオケに慣れていないというマリアを徹カラに誘ったこともある。
マリアはまず深夜から朝まで営業していることに驚いていた。
ナツメは好きな曲を思いきり歌ってから、戸惑うマリアにマイクを握らせた。
「何を歌えばいいか、決められない」
「じゃあ、コレでいいじゃん。あの本の実写映画の主題歌」
マリアが好きな作家の話を持ち出して、リラックスさせる。
最初は途切れ途切れな声だったが、なんとか一曲歌い切る。
「私、カラオケ向いてない」
「もう帰るか?」
「ううん、ナツメの歌好き。もっと聴きたい」
そんなことを言われて、張り切らない方がおかしい。
ナツメは喉が潰れるまで歌い続けた。
その夜のことを、マリアは今だに思い出す度におかしそうに笑っている。
そういえばあの日も雨が降っていたな、と目の前の景色に意識を移す。
雨脚は弱まるどころか、滝のような勢いに変わっていた。
これではマリアまで、冷たい思いをさせてしまうのではないかと心配になる。
そう思ったとき、ちょうどスーパーの前の角をマリアが曲がった姿が見えた。
「ナツメ、お待たせ」
マリアは持って来た傘を差し出す。
「悪い、助かった」
「雨、嫌いじゃないから平気」
そうは言うが、傘を受け取るときに触れた指先は冷たかった。
ナツメはその指先を見つめる。
それだけでマリアは軽く頷いてみせた。
ナツメはマリアの片手を握る。
片手にエコバッグ、もう片手には誰より大切な人の手がある。
傘をさしながら、しばらく雨粒が落ちる音だけを聴いていた。
やがてマリアがぽつりと呟く。
「残念だね」
「何が」
「この雨じゃ、桜が散っちゃう」
「……ああ」
そう言われればそうだな、と思う。
だが今は桜より、片手の温度の方が大事だった。
「それよりマリア、寒くないか」
「ん、大丈夫」
「ナツメの手、あったかいから」
「そうか」
少しだけ安心して、片手の力を緩める。
「そうだ、今度どっか行きたいところあるか」
「急になに」
「いや、いつも私の行きたいとこばっかだから、リクエストないかなと」
「来週病院あるから、その後がいい」
「場所は?」
「……フラワーパーク」
行ったことのある場所とはいえ、マリアが自分の意見を言えた。
それだけでナツメは激しい雨音も気にならなくなる。
「いいね、また行こう」
「……実はね」
マリアがナツメに肩を寄せながら言う。
「初デートのとき、ナツメが中学のときくれた花、探してたの」
「見つからなかったから、また探しに行きたい」
ナツメは気恥ずかしくて視線を逸らす。
心臓がうるさかった。
「なら、見つかるように私も探すよ」
「……そうしてくれると、助かる」
視線の合わないナツメを眺めながら、柔らかくマリアが言う。
家までの帰り道、雨音はいつしか弱まっていた。




