ナツメルート後日談:触れない口づけ
その部屋は、ナツメの生活がそのまま切り取られたように、簡素で整っていた。
余計な装飾はない。
色も少ない。
それでも、机の一角だけは違っていた。
マリアはそこに気づいた瞬間、足を止める。
「……これ」
小さなロゼットだった。
深い青と白のリボンが結ばれ、丁寧に形を保ったまま、壁際のフックに掛けられている。
マリアの胸が、静かに跳ねる。
(部屋に、飾ってくれてる)
それだけで嬉しかった。
けれど、もどかしい気持ちもある。
(私たち、まだこういう距離なんだ)
それが情けなく思えた。
マリアは無意識のまま、自分の左手に視線を落とした。
結婚指輪をそっと指先でなぞる。
そして、誰にも見られていないことを確認するように、小さく息を吸った。
次の瞬間。
マリアはその指輪に、そっと唇を寄せた。
触れるだけの、静かなキス。
(好き)
(ありがとう)
(ちゃんと、ここにいる)
目を閉じる。
それでも足りなくて、マリアはもう一度ロゼットに視線を向けた。
そして、今度はそっと左手の指先で触れる。
「……届きますように」
声にならないほど小さな願い。
その瞬間、自分の頬が熱くなるのを感じる。
マリアは慌てたように両手で頬を押さえた。
「……恥ずかしい」
誰もいない部屋なのに、心臓がうるさい。
そのまま少しだけ俯いて、呼吸を整える。
そして気づかなかった。
部屋の入口に立つ影を。
ナツメは、扉の前で動けずにいた。
最初から見ていたわけではない。
たまたま戻ってきただけだった。
(……ずるいだろ)
声にはならない。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
マリアが部屋を出ていくのを、ナツメは物音一つ立てずに見送った。
扉が閉まったあと。
しばらく、その場から動けなかった。
やがてゆっくりと、机へ歩み寄る。
ロゼットに触れる。
まだ、マリアの温度が残っている気がした。
ナツメはそれを手に取り、しばらく見つめたあと――
そっと、自分の口元へ寄せた。
触れるか触れないかの距離で止める。
キスはしない。
ただ、そのまま目を閉じる。
ナツメの頬を、一筋だけ涙が伝った。
「……ほんと、ずるいな」
誰に言うでもなく呟いて、小さく笑う。
それでも、ロゼットを離すことはできなかった。
ただそこにあるだけでいい。
触れているだけでいい。
そして、静かな部屋に戻っていく呼吸の中で、ナツメは思う。
自分はもう、とっくに満たされているのだと。




