ナツメルート後日談:あなたの優しさ
キッチンに立つマリアの背中は、まだ少しだけ頼りなかった。
それでも包丁を持つ手つきは、昔よりずっと落ち着いている。
玉ねぎを刻む音が、静かな午後に規則正しく響いていた。
「手、貸そうか?」
リビングからナツメの声がする。
「大丈夫」
マリアは短く答える。
結婚してから、少しずつキッチンに立つようになった。
最初は本当に簡単なものだけだった。
味噌汁、卵焼き、焼き魚。
それでも手順を一つずつ思い出すようにして、少しずつ形にしていった。
ユリカに食事を作っていた頃からは、随分と時間が経っている。
だから最初は、手が迷うことも多かった。
「できた」
テーブルに並んだのは、簡単な夕食だった。
煮物と、焼き鮭と、味噌汁。
それだけなのに、マリアは少しだけ緊張している。
ナツメは席に座ると、箸を手に取った。
一口食べる。
しばらく間があく。
マリアは少し不安になる。
「……どう?」
ナツメはゆっくり顔を上げた。
そして、真顔のまま言う。
「これを食べられる私は、果報者だな」
「……また、大げさ」
「大げさじゃない」
もう一口食べる。
うなずく。
「普通にうまい」
その言い方があまりにも自然で、マリアは少しだけ口角を上げた。
ナツメはさらに続ける。
「マリアが作ったってだけで価値あるし」
「それは意味わからない」
「意味はある」
ナツメは本気だった。
「正直さ」
「うん」
「これ食べられるなら、人生かなり得してる」
マリアは困ったように笑う。
「そんなに?」
「そんなに」
即答だった。
その迷いのなさが、逆におかしくて、マリアは小さく息を吐いた。
夜、マリアはキッチンで片づけをしていた。
お揃いのマグカップを最後に洗って、布巾でふいていく。
その横にナツメが立つ。
「最初の頃より、すごく上手くなったな」
「そう?」
「うん」
「無理してないのがいい」
その言葉に、マリアは手を止めた。
「……無理?」
「昔みたいに“ちゃんとしなきゃ”って感じがない」
ナツメは淡々と続ける。
「今は、作りたいから作ってるだろ」
確かにそうかもしれない。
ただ、自然と何か作ってみようと思う日が増えた。
「……ナツメ」
「ん?」
「そんなに、褒めなくてもいいから……」
「褒めてない」
「褒めてる」
「事実だ」
マリアは小さく笑う。
ナツメも少しだけ笑った。
片付けが終わったあと、二人はリビングに戻る。
ナツメはソファに座り、マリアはその隣に少し距離をあけて座った。
ソファにはいつの間にか、二人で選んだクッションが少しずつ増えていた。
「マリア」
「ん」
「また明日も作る?」
少しの沈黙。
マリアは小さく頷く。
「……気が向いたら」
「わかった」
マリアは視線を落としながら思う。
この人の「おいしい」がある限り、キッチンに立ってみようと思える。
ナツメがふと横を見る。
「マリア」
「なに」
「今日もありがとう」
ナツメはそう言って、少しだけ目を細めた。
マリアは少しだけ目を伏せて、静かに答える。
「……どういたしまして」




